第三譚 空白を埋めよ
「進路ね……」
放課後。
バタバタと部活に急ぐクラスメイトを余所に、一枚のプリントを前に溜め息を付く。
ショートホームルームで担任から配布されたこのプリントには『進路志望調査』と銘打たれている。何でも冬期休業期間を利用して三者面談をするらしく、何でもこれはその時の資料にするらしい。
(………………………………………………………………………………、)
未定。
そう書いて堂々と提出したら間違いなく担任と親に叩かれる。
(二年後半なのに進路が未定だってところがおかしいってこと……?)
高校二年の十二月になると、そろそろ本格的に受験の影が忍び寄ってくる。
実際、クラスにも最近になって担任に進路の相談や、苦手教科克服に動いているクラスメイトが増えてきたように思う。どうやら彼らは国立組でいろいろ大変らしい。楓もそろそろ真剣に考えなければならない時期には違いないのだが、どうも気が乗らないのだ。
(人生、そんな先急いで何が楽しいんだろ?)
楓の学校での成績は中の下。上位の大学に入ろうとか、推薦を狙おうとか努力したことがなかったし、けれどあまりにサボっていれば面倒な追試が襲い掛かってくるから中途半端に努力する。だから『あんな結果』は当たり前と言えば当たり前と言えるし、この成績に今のところは不満もない。
だからといって、大学入試に向けて必死になろうとも思わない。
どうせなるようにしかならない。受験勉強なんて普段からの積み重ねだし、結局普段から努力していないヤツはどんなに受験前に焦ったって良い結果は得られないと思う。付け焼き刃は付け焼き刃でしかない。そりゃ想像を絶する努力をすれば付け焼き刃でも通用するかもしれないが、楓自身そこまでして大学に入ろうとも思えない。どうせなら今の自分の実力で入れるような大学を目指して、出来ることなら受験勉強なんて経験しないで大学に入りたい。まあ、暴走しすぎた理想論である。
そんなことより、楓は危惧すべき問題を抱えていた。
それは来るべき冬期休業に投下される『冬休みの課題』と、休みの大半を食い尽くす『冬期講習』だ。
どうやって捌こうか、どの手段を用いれば容易に難題を克服できるか。最近、楓はそればかりを考えていた。去年は冬期休業前半にラッシュをかけて何とか克服したが、今年は前半に冬期講習が集中しているから思うような成果を上げることが出来ないかも知れない。更にはこの間行きつけの書店で見つけた『羽は無くとも空を見る』という大手出版社が主催しているナントカ賞(名前は覚えていない)の大賞を受賞した(らしい)小説に心惹かれ、おまけに楓が好きなアーティストのニューシングルが今月末に発売される。誘惑は多いのだ。
(めんどくさ)
とりあえず無くしたらまた担任と面倒なことが起こりかねないので、気が乗らないも進路について考えてみる。
まず、削除されるのは理数系大学及び理数系学部である。
ただでさえ低い学力の中、中でも酷いのは理数系だった。テストでは常に赤点ギリギリの低空飛行だし、もう好き嫌いで表せるレベルではない。根本的に頭が受け付けないのだ。
そんなわけで残ったのが文系大学である。
その中でいくつか行きたい大学がないわけでもない。ただ、冷静になって考えてみれば国立は絶望的のように思えてきた。いくら文系と言っても多少理数が取れなければ受からない。楓は『多少』も理数が出来ないから、センター試験で惨めな討ち死を遂げるような気がする。
結局、選択肢として楓の頭の中に残ったのは私立文系大学だった。これなら何とか現実味を帯びているような気がする。国立よりは明るいだろう。
ただ、問題がある。
金だ。
国立大学に比べて、やっぱり学費等の負担は大きくなるのはほぼ間違いない。
奨学金という手がないわけでもないけれど、それには入試で優秀な成績を残さないといけなかったり、もしくは学校推薦で入学しないといけなかったりと、いろいろ壁は高くて厚そうだ。
(大丈夫、かな……)
切り出すのが何となく怖い。
家庭環境を考えてみれば、いけないわけでもなさそうなのだ。
楓は一人っ子、父と母の三人家族。父は大手企業のサラリーマン(肩書きは知らない)で、そこそこ恵まれた中流階級な家庭、と言うのが楓の認識である。生まれてこの方一度も父や母から金銭問題で『悲鳴』を聞いたことはないし、督促状を見たことがないから、極々普通の一般家庭だと思う。
(話してみようかな)
一応、進路のことだから父や母は相談に乗ってくれると思う。
ちなみにこの『進路志望調査』には『保護者からの署名と印鑑』が必要だ。夜な夜な、両親が寝静まった時を狙ってタンスから印鑑を拝借するのは簡単だが、署名を誤魔化すことはなかなか難しそうだし、そもそも筆跡の偽装はやったことがないし、やろうと思ってやれるものではないような気がする。
ともかく、だ。
このまま何の原案もなく持っていくのもおかしいような気がしたから、とりあえず行けるものなら行きたいと思っている大学の名前を第一志望の欄に書き込もうと、
「お、進路決まったのか?」
バキッ。
「シャー芯折れたぞ?」
「―――驚かさないでよ……」
「なんだよ、驚きすぎだってさ」
いきなり現れた神田にムッとする。
「そりゃ驚くでしょ? いきなり人が後ろから話しかけてくれば」
心臓が、五月蠅い。
どうしてこんなにも落ち着かないものなのか。
急に現れた神田にすっかり動揺してしまって、楓は前に回った神田の顔をまともに見ることが出来ないでいた。仕様がないから顔を下に落とし、進路志望調査だけに集中しようとするけれど、やっぱり集中する事なんて出来なくて。
「ね、部活は?」
自分の動揺を誤魔化したくて、楓は口を開いた。
「行くよ。ちょっと忘れ物しただけさ」
「そう」
「ねぇ」
「あ?」
会話が途切れるのが無性に怖かった。
「大学、どこ行くの?」
神田は楓の机に手をかけた。プリントに視線を合わせていた楓の視界に、ぼんやりと神田の手が入る。
「まだ、決まってないけどさ、とりあえず入れてくれるところに行くさ」
「へー」
もし、神田が真面目に答えてくれたら自分はどうしただろうか。
彼が告げた大学を進路志望調査に書くだろうか。
ガタガタと自分の机を漁っている神田を余所に、楓はそんなことをぼんやりと考えていた。
◇◆
「……。スランプなのかな」
完成までもう一息なのに、進まない。
結局、この日も絵の具を無駄にした。
(はあ)
パレットを洗ったりキャンパスを片付けたりイーゼルを畳んだり美術室に鍵をかけていたりしていたら、周囲はもう夕焼けを通り越して夕闇に染まっていた。
(月は、見えないか)
教科書などの私物が入った学生鞄を持ち直して、生徒玄関からゆっくりと楓は校門を潜って帰路に就く。
時間的には下校時間なのだが、帰ろうとする生徒の数はあまり多くなかった。みんな部活で忙しいのだろう。楓は今朝担任教師に部活動延長願らしき書類を提出していた話したこともないクラスメイトをボンヤリと思い出しながら手を擦り合わせていると、野良猫だろうか、目の前を可愛らしい白猫が足下に寄ってきた。
(首輪無いから、野良かな)
思わずしゃがんで首筋を撫で、
「にゃ」
ハッと楓は我に返る。
白猫は一言残して一目散に逃げていった。
(怒られた……)
手が冷たかったからかもしれない。嫌われてしまった。
しばらく猫が逃げた方向をボンヤリと眺めていると、目が醒めるような一陣の風。寒い。
「冷えるな〜」
「わ」
唐突に、聞き慣れた声と肩に乗る軽い感触。
「お、なかなかいいリアクション」
ムッとする。
「―――部活は?」
「終わった終わった」
「ふーん」
口調は自然と冷たいものになってしまう。
「部活は?」
「終わったよ」
「あの絵、描き上がった?」
「―――あの絵?」
「美術室からの風景描いてんじゃねぇの?」
「何で知ってるの?」
何の捻りもなく単純にそう思った。
「いやだってさ、前に『風景画描いてる』って言ってたじゃん?」
「うそ……」
「覚えてねぇの?」
「……、覚えてない」
「寝てたんじゃねぇの?」
「ね、寝てないって」
「寝る子は育つ、っつーけどまだこんなんだもんな〜」
「中学までは私が、ってちょ……」
神田は豪快に笑いながら、ワシャワシャと楓の頭を撫で回す。
(ちょ……)
熱い。頬が火照った。
堪らず、抵抗してみれば神田は呆気なく手を離す。
「ちょ、いきなり」
楓は乱れまくってしまった髪を必死に手櫛で直しながら、頬の赤らみを隠そうと必死に取り繕う。けれど早鐘を打つ心臓が鬱陶しくなるほど五月蠅くて、まともに頭を動かすことだって難しくなってきた。
「あ?」
にっちもさっちも行かなくなった楓を、本当に不思議そうな顔をして神田は覗き込んでくる。何だか必死になって隠そうと藻掻いていることなんて簡単に見抜かれてしまいそうな気がする。
(う……)
何だか猛烈に逃げ出したくなってしまった。
ここで気の利いた一言でも言って逃げてしまえばいいけれど、やっぱりこんな状況で気の利いた一言を思いつけるほど楓は器用でもなかった。
「どした?」
「……、何でも、ない」
これ以上は、限界。
八方塞がり、絶体絶命。
まさにそんな言葉が合致する状態だった。
「っと、じゃあ俺、帰るな」
「―――へ?」
気が付けば、神田は携帯を握っている。
「時間だよ、時間。今帰らないとドラマに間に合わねぇんだよ」
◇◆
神田と別れ、火照った身体を北風で冷ますと楓は校門を潜った。
さっきまで心地よかった北風が段々身に染みてきた。
しばらく歩いて、不意に思う。
来週からもう十二月だった。
楓はいつもと同じ道を、一路家を目指して歩いていく。
家に帰ったら、まず夕食だろう。
それから適当に自室のテレビのチャンネルを回して、もし良い番組がなければこの間録画しておいた二時間ドラマでも見よう。それから風呂に入って、適当に宿題を申し分ない程度に片付けて寝よう。夜更かしは良くないし、授業中寝るよりだったら布団でぐっすり寝た方が遙かに良い。
そうこう考えを頭の中で転がしながら、楓は夕闇に沈みかけている街を歩く。
前方から来た車が、ヘッドライトを輝かせた乗用車が楓を追い越した。
何気なく楓はその車を目で追うけれども、すぐに止めて前を向く。
目の前には、いつもの角。
この角を曲がればもう家まで、あと数メートル。
そう、あと経った数メートルだった。
無意識に飛び出してくるかもしれない車に注意を払って、角を曲がって、前を向いて、
「こんばんは」
そこには。
一〇メートルくらい、先に。
古ぼけた街灯をスポットライトのようにして。
闇に熔けてしまうような黒い外套に身を包んだ少年の姿が在った。
時計は時を刻む。しかし壊されたら時は刻めない。壊された時計の下、こうして壊れた舞台の幕が開いた。