第二四譚 おはよう
「はは、」
半笑い。
ツーッと、楓の頬から朱が落ちる。
「は、」
楓はペタリと尻餅を付いていた。
「はは、はは……」
空笑いが零れて仕様がない。
尻餅を付いた時にパソコンが床に落ちたけれど、今はそんなことなんてどうでもいい。
―――助かった。
拳銃の引き金が絞られたその瞬間、流石に楓は死を覚悟した。
しかし。
奇跡と言っても良い。
男が拳銃を絞った瞬間、恐らく手元が狂ったのだろう。男の手がブレた。とにかく照準が狂ったのだ。そのまま引き金が引かれ、銃弾は楓の頬を掠めて天井に着弾し、男はまるで電池が切れたように崩れ落ちた。全く奇跡以外の何物でもない。一生分の幸運をあの瞬間に使い果たしてしまったかと思う。
(ホント、奇跡―――)
感謝した。
それは特定の誰かじゃなくて、とりあえず自分を救ってくれた偶然全てに。
「あ」
と。
そこで、楓は唐突に我に返った。
(え、あ?)
手に、確かな感触がある。
それは妙にしっくり来る物で、まるで長年愛用していた絵筆のような、感覚で。
そして次の瞬間。
一瞬だがしかし確実に楓の心臓が、止まった。
(うそ)
刹那。
全てを悟った。
自分が握っている物の正体も、そして何より『何故、弾が逸れたか』をも、何もかも。
だがその瞬間。
悟った瞬間に、楓は全否定した。
嫌な汗が噴き出す。身体をジトッと濡らしていく。
ありえない。
ありえるはずが、ない。
こんなことが起こってはいけない。
そう、恐怖にも絶望にも共通する突発的な感情で、厳重に『悟った』という事自体と『悟った事実』を雁字搦めにして心の深淵へと封じ込める。
(違う、あ、ああ、ありえない、あああああ……)
脅えた。
たった今封印したはずなのに、封印が揺らぎ、漏れ出す。
ダメだ、そう思っていても溢れ出した『ソレ』は楓を揺らし、揺らし、揺らす。
(ッ!)
ぴちゃん。
確かにそんな音がした。
それは楓のすぐ近くから聞こえた音で、まるで雫が落ちたような音。
(ああ、あああ、ああ、……)
ギリギリと楓は油が切れた扉のようにぎこちなく首を動かした。
止まれと心に叫ぶも、身体は言うことを聞かない。
直後、楓は絶句する。
握っていたのは血染めの大鎌、それは他ならぬ楓の『紫衣』で。
その先に見えたのは、事切れた男の残骸だった。
(あ、こ、こここ殺した)
誰が。
そう思った。
誰がこの男を殺したのか。
だが、そんな想いはすぐに自分自身の現実逃避だと言うことに楓は気付く。
(わ、わたしが)
殺したのだ。
誰でもない、他でもなく自分自身が、彼を殺めた。
現場は、一目瞭然だ。
この場には楓と男しかいない。
そして男は死に、楓は血塗られた大鎌を握っている。しかも凶器となったその大鎌は楓の『紫衣』であり、それは楓以外に犯人がいないことを何よりも雄弁に語っていた。
(ひと、ごろし)
虫を殺したわけではない。
自分と同じ形をした同じ種族。
そんな彼を、殺した。
殺人、それは殺人だ。あの少年と同じ事を今この瞬間楓はしでかしてしまったのだ。この男を殺した。全てをあの瞬間に楓自身が自分自身のためだけに、奪った。永遠に、奪い去ってしまった。彼の全可能性と、彼を知っていた全ての者から男自身を、一切合切、何もかも。
「あぁ……」
彼にもし肉親がいたら。
彼に婚約者がいたら。
彼に子供がいたら。
奪ったのだ、北沢楓は。
この男の未来を。
そして彼に関わってきた全ての人物から、他ならぬこの男を、楓は奪い去ってしまった。
金属音が、鳴る。
音がした方を見れば、あの血塗られた大鎌が床に転がっていた。
◇◆
「だからそんなに顔色悪いんだね」
一通り、事情を報告し終えた楓はバチバチと音を立てて燃えている例の倉庫を遠目にして俯いた。
「まあね、仕方ないよ」
俯く楓に黒衣の少年は淡々と言葉を連ねていく。
「仕方ないことなんだよ、楓ちゃん。殺したくないって気持ちは良く分かる。オレも最初はそうだったんだよね。覚えてるかな〜、お師匠様にいきなりオレの存在を否定されてさ、生き残る道を示されて、そしてオレはこの刀を手に入れた」
顔を上げれば、少年は腰に差している刀の柄を撫でていた。
「オレがね、初めて斬ったのは巷を恐怖のどん底に突き落としていた辻斬りだった。あの時は同心が三人すでに殺されててね、お師匠様が見過ごせないからって、オレの鍛錬も兼ねてね、二人で夜警することにしたんだ。で。やっぱり辻斬りは現れてさ、お師匠様に斬りかかってきた」
少年は純粋に過去を懐かしんでいた。
「いくら辻斬りだって、人間だよ。普通のアカシックレコードに記されたドコにでもいるような人間だったから修行中だったオレでも―――まあ、道場の門下生だったから刀の扱いには慣れてたし、楽勝だった。こんなバカみたいに弱い人間に同心三人も斬り捨てられた、なんて信じられないくらいにさ」
「―――殺したの?」
「殺したよ。お師匠様がオレに殺せ、殺すのも『追捕使』として生きていくためには絶対に必要な能力だって言ってたし、それにオレには生きる術がこれしかなかったんだよ。兄弟に見下されて、両親に嫌われてたあの惨めな生活には戻りたくなかったし、殺すことでそれから逃れられるんだから。だから迷いなくオレは斬ったよ。けどね、襲ってきたのはどうしようもない罪悪感だったんだ。丁度、今の楓ちゃんみたいな感じだよ」
嘘だと思った。
作り話だ、と。
いくら無法者とは言え、暴力団やその取引相手であるマフィアを無慈悲に、それも『人を斬る』という行為自体を楽しんでいたかのような振る舞いを楓は確かに目にしている。だから、この少年が人を殺して罪悪感に苛まれるような人間には思えないのだ。
百歩譲って、少年が『追捕使』だから殺すという行為が必然だとしよう。
けれど、今彼が斬ったのはアカシックレコードに普通に記されている普通の人間だ。いくら悪事に手を染めていようと、違法行為を平気で行おうと、彼らを斬る意味はまず見当たらない。寧ろ斬らなくて良い存在だったはずだ。
なのに、黒衣の少年は躊躇いなく斬った。
斬って斬って、斬り捨てた。
屍の山を、築いて見せた。
何が、罪悪感だ。
「楓ちゃんはさ、オレがそんな人間なわけないって思ってるでしょ?」
「だってそうでしょ?」
だから楓は重厚な口ぶりで、
「アンタは、殺した。暴力団とか、マフィアとか。―――何より、私の家族も」
少年は楓の家族を殺した。楓は『異常因子』という『追捕使』にとって討伐対象だろうが、家族は対象外だったはずだ。
なのに彼は殺した。
殺したのだ。楓の家族を。罪もない、家族を。
「そんなこと?」
「そんな、ことって……」
「そんなことだよ。前言わなかったっけ? 家族がいれば自由に『レッスン』できない、それに『紫衣』を纏えそうな逸材は貴重だからね。無駄にすることは出来ないし、纏うにはそれ相応の強い感情が必要なんだ。知ってる? 人間が抱く最も強い感情は憎しみと絶望だよ?」
「アンタ、何様のつもりで―――」
「オレにとって楓ちゃんの家族はどうでもいいよ。オレが大切なのは楓ちゃん自身だ」
「なっ」
思わぬ言葉に楓は絶句する。
「別に他意はないよ。『そのままの意味』だから。楓ちゃんは『追捕使』の素質を充分に持ってる最高の素材だ。もしかしたらオレ以上の素質かもね。オレにとって楓ちゃん以外はどうでもいい。斬って捨てたって別に後悔はない」
恐怖さえ、覚える。
楓は、確かに見た。
この少年の心の内に渦巻いている、絶対的な『何か』を。
その『何か』が何だか正確に把握できないけれど、確かに大前提たる『何か』を、楓は感じた。
楓も持っている、その何か。
「さ、楓ちゃん。帰ろ? そろそろ消防が嗅ぎ付けてくる」
言われば、確かに消防車のサイレンが近付いてくるような気がした。
「一応隠蔽工作で燃やしてるんだけど、現場検証すれば嫌でも死体がいっぱい出てくるからさ、さっさと引き上げよ? 楓ちゃんだって警察と一戦交えたくないでしょ?」
笑っていた。
楽しそうに、楽しそうに。
溶け出す憎悪は美しい。