第二〇譚 サーカスの入場券
ケチャップがない。
外出したのはそんな理由だった。
(寒む……)
全く何が楽しくてこの寒い中、ケチャップを買いに最寄りのスーパーまで行かなくてはいけないのだろうか。―――と軽く悲劇のヒロインを気取って嘆いてみるが、答えは分かりきっている。どうしてもオムライスが食べたくなったから。他でもない、楓自身が。と言うわけで悲劇でも何でもない。
それにしても、寒い。非常に寒い。
マフラーに顔を埋め、楓は誰一人歩いていない真っ昼間の路地を歩く。
(確かに、晴れるけど寒い、ね)
容赦なく吹き付けてくる北風に身体を震わせながら、楓は今朝少年がグチャグチャ言っていたことをふと思い起こした。軽く歩きながら空を見上げれば、太陽がやんわりと楓を照らしている。
(どうせろくな『面白いこと』じゃないんだろうし)
ケチャップ一本しか入っていないビニール袋の取っ手が指に食い込んできて、普通に痛い。そろそろ、限界だ。手袋をしてくれば良かったと楓は少し後悔して、
(さっさと帰ろ)
早く帰って、ストーブでも焚こう。
そう誓って、足早に路地を進んでいく。
家はもうすぐ先だ。
◇◆
楓の家の前に一台の黒塗りの車が乗り付けてあった。
沸き上がったのは恐怖と言うより、呆然だった。高級住宅街でもない、平凡なこの町内には場違いにも程がある。近付いてよくその一台を詮索してみれば、外国製の高級車だということは簡単に分かった。だが問題は誰がこの車を乗り付けてきたのか、である。
(―――、)
しばらく考えてみたものの、それらしい該当者は頭の中にはない。
楓はもう一度高級車を覗き込む。
何度見ても車の中はもぬけの殻。まだほんのりとボンネットは暖かかったからエンジンを切ってあまり時間が経ってないようだ。
(とりあえず、入ってみれば分かるか)
家からは物騒な音はしない。玄関の扉を触ってみてもなんら異常は感じない。至って普通だ。まあ、玄関が正常というだけで家が正常と思い込むのはおかしいな、そう自嘲気味にドアを開ければ、
「あ、意外と遅かったね。お帰りなさい」
思わず、目を疑った。
「な……」
凄惨な、現場が目に飛び込んできた。
「ゴメンね。後でちゃんと掃除するからさ」
淡々と告げる少年の足下には遺体らしき物体が血溜まりの中に二つ転がっていた。
何かと少年から『レッスン』を受けている今だから分かる。斬殺されていた。しかも見事に一刀の元に斬り捨てられている。この有り様ならこの二人は痛みを感じず、訳も解らず息絶えたことだろう。
「何、してるの?」
「ん、殺し」
不思議と『前回』のような強烈な不快感はなかった。
確かに死体を見て気分が良い訳なんてない。
現に今、少し気持ち悪くなってきたし、キリキリと胸が痛む。しかし何故だか客観的に見ることができる。言うなれば場慣れしてきた新米刑事とでも言ったところだろうか。それに、もしかしたら身内が殺されることと見ず知らずの他人が殺されることは同じ『殺し』でも『死体』でも差があるのかも知れない。
―――と、そこまで考えて、思った。
(随分、冷静になったな……)
果たしてそれは良いことなのか、悪いことなのか。
いまいち楓にはその判別が付かないが、今はそんなことはどうでも良かった。
「殺しって、アンタね……」
「だってさ、うるさかったんだよね。それにこの人たちね、取り立ての人みたいだよ」
言うと、少年は傍らに落ちていた鞄を拾い、血塗れの鞄に手を突っ込んであさり始めた。
「なんで、分かるの?」
「楓ちゃんが帰ってくるほんの少し前にね、この人たちがいきなり押しかけてきてさ。借金返せ、返さなきゃ殺すぞってオレの胸ぐら掴んでさ」
鞄をひっくり返しながら、淡々と語る。
「で、……斬ったの?」
「うん。でもね、あっさり斬ってあげたから苦痛はなかったと思うよ?」
見事なまでに論点が実にずれていた。
何よりいくら非合法の取り立てだとしても殺すことはない。やり過ぎだ。人間的におかしい。楓は頭が痛くなってきた。原因は死体を目の当たりにしているだけではないような気がする。
「お。手帳」
ペラペラと紙を捲る音がする。
「……人のでしょ?」
「うん」
しゃがみ込んでいる少年の足下には鞄の中身が無造作に転がっていた。煙草、百均ライター、何かのリストらしい書類。彼はそんな中身から手帳を発見したらしい。
「何か書いてあるの?」
「そーだね、何も書いてない」
ポイッと用済みになった手帳は後ろに投げ捨てられ、次に少年の興味が移ったのはリストらしい書類の束だった。彼はそれをペラペラと捲っていく。
「何のリスト?」
「ん〜、多分顧客リストだと思うな」
「顧客リスト?」
「多分、楓ちゃんちみたいにこのヤミ金から借金してる人のリストだと思うよ。ほらだってここ、北沢悠って名前あるし、―――隣に書いてある住所だってここでしょ?」
言われてリストを覗き込めば、確かに父親の名前とこの家の住所がリストアップされていた。どうやら間違いなくこの金融会社の顧客リストのようだ。となれば、このリストに載っている全員に取り立てをするつもりだったのだろうか。
(―――なわけないか)
すぐに楓は否定した。
リストは表裏印刷の一〇数枚あり、びっしりと文字で埋まっている。いくらなんでも一日でこの量をこなせるわけがない。物理的に考えればすぐに分かることだ。
「楓ちゃん、多分ね、この人たち暴力団に繋がりがあるよ」
「……それくらい分かるって」
「そっか。じゃあこれからどんなことが起こるか予想できる?」
ヤミ金。
男二人。
非合法な取り立て。
彼らを殺した。
暴力団に繋がりがある。
「―――報復?」
弾き出されたのは、そんな簡単な答えだった。
「うん。仲間が殺されたんだから黙ってないだろうね」
「じゃあ」
「逃げないよ?」
先読みされた。楓の声に被せるようにして、少年は微笑んでいた。
「楓ちゃんは予防って言葉知ってる?」
「……知ってるに、決まってるでしょ?」
押し殺すように、楓は呟いた。
「知ってるなら話は早いよ。ここで迎え撃つにはちょっと地の利が悪すぎる。住宅時で刃傷沙汰は人目に付くから避けたいしね。けどその点コイツらの本拠地でやれば後始末もしなくて良いし、人目を心配する必要もない。まさに一石二鳥ってところだね。と言うことでさ、楓ちゃんはここで待って。すぐ済ませてくるから」
謳うように、軽々と少年は告げた。
「ちょっと、それってヤクザ皆殺しに行くってこと?」
「正確には暴力団の下部組織の一つみたいだよ。何はともあれ、楓ちゃんを脅かす悪は払っておかないとね。のちのち面倒なことになるんだったら事は早いほうが絶対良い」
「でも、」
「心配ないよ。今夜一〇時にこの業者の上部組織の幹部たちが盛大な『パーティー』やるみたいでさ。丁度良いよ。そこ潰しに行く予定だし」
莫然としか楓はその意味を掴めない。
けれどもそれが危険だと言うことだけは分かる。
楓は理解していた。
―――危険なのは暴力団ではなくてこの少年だ、と言うことを。
「なんで……」
「お金なくなっちゃったんだよね。プラズマテレビ高くってさ」
軽く笑う、少年。
「どうせ暴力団のお金だよ。少しぐらい拝借したって問題はないと思わない?」
呼吸を止めることは出来ない。