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第一譚 催眠術の教科書

 


「んぎゃ」

 ゴンッ! と。

 まるで岩で殴られたような衝撃を受けて、思わず北沢楓キタザワカエデは顔を上げた。

「おはよう。北沢」

 教科書を持ちながら、古典教師が胡散臭い笑みを浮かべている。

「良い夢見れたか?」

 周囲からはクスクスと嫌な感じの含み笑いが聞こえてきた。

 これはつまり。

(……夢?)

 周囲を見渡す。

 席は窓側最後列。

 窓からは眩しい夕焼けがかった日光が容赦なく照らし、隣は含み笑いに悶えている黒城和美コクジョウカスミ。そして和美と楓の間の通路には、古典教師が呆れ顔に苦笑いを足して二で割ったような表情を浮かべていて、一つ前の席には神田裕太カンダユウタが必死に笑いを堪えているらしく、小刻みに身体を震わしていた。

 楓はそんな彼らの反応を一時的に無視して、正面の黒板を見遣る。

 白チョークで割合大きめの『源氏物語』に続くような形で、文法事項や人物相関図が簡単に書かれていた。ちなみに古典教師の解説している様子は楓の記憶にはなかった。

(…………う〜ん)

 明らかに日常、学校である。

(夢、か)

 間違っても、人間の一〇倍はあろう巨大化したモルモットの大軍勢が人間社会を蹂躙、王冠を被った三毛のモルモットが鳥みたいな足で自分を踏み付けて高笑いしている―――というエキセントリックでアクロバティック兼ファンタジックな世界ではないようである。

(あんな夢、……疲れてるのかな)

 割と真剣に楓は悩む。

「顔、洗ってくるか?」

「―――いえ、いいです」

「寝るんだったら帰ってから寝ろ」

 古典教師はそう吐き捨て、教壇へと戻っていく。

「(アンタの授業がツマンナイのが悪い)」

 黒板の上部に取り付けられている時計を見れば、三時四五分を差していた。

(眠い……)

 何だか、得体の知れない催眠術にかけられた気分だった。

 眠い、強烈に眠くて、

(―――気持ち、悪い)

 教壇で古典教師が何やら解説を始めたが、聞く気になれなかった。誰だって自分がモルモットに蹂躙されるような夢を見て夢見がいいわけがないだろうが、原因はそれだけではないような気もする。

(それにしても、変な夢だったな……)

 あんな世界は絶対に御免被る。危うく動物園のふれ合いコーナーで幼い頃培った可憐なイメージが音を立てて崩れてしまうところだった。

「ね、なかなか可愛かったよ? 楓の寝顔」

 こそこそと声がした方へと目線を向ければ、変態じみた笑みに手を添えて和美は笑っていた。

 そんな和美に構わず、彼女の発言に若干動揺しつつも前を見ると、古典教師は板書を始めるらしい。教科書片手に左手で白チョークを握ったところだった。左利きは天才が多いという話を聞いたことがあるのだが、果たして本当だろうか。

「イビキかいちゃって〜、かわい〜」

「うるさいな……」

 と言いつつ、内心不安になってきた。

 同性ならまだしも、異性に寝顔を見られるとか、イビキを聞かれるとか、それはあまり良い気分はしない。そんなわけで、

「―――そんなにイビキ酷かった?」

「大丈夫。少し鼻息が荒かったぐらいでウチと神田にしか多分聞かれてないから」

 古典の授業が進行する中、こっそりと和美は笑う。

「……良いんだか悪いんだか」

「楓?」

「ん〜ん。何でもない」

 意図せず、小さな溜め息が漏れる。どうにも古典に集中できそうにない。やる気が起きないというか、非常に気怠い。

(寝過ぎかも。というか何分寝ていたんだろ?)

 思い出せない。

 始業のチャイムと日直の号令で挨拶をして、それから古典の教科書とノートを開いたところまでは覚えているのだが、そこから先の記憶が曖昧だった。つまり教科書とノートを開いた瞬間に睡魔にやられたとでも言うのだろうか。

(忍たまの友ですか?)

 投げ遣りな感想を抱きながら時計を見ると、もう数分でチャイムが鳴る。

 そんな終わりの時間帯に気付いて焦っているのか古典教師が急いで黒板に纏めようと物凄いスピードで板書して始めた。

(まあ、ノートは和美に見せてもらおう)

 窓を見れば、夕焼け色に染まり掛かっている空。

 今日は比較的良い夕焼けが見えそうである。

 


     ◇◆



 絵を描く、ということは楽しい。

 何もないところから何かを生み出すと言うことは、楽しい。快感にも似た気持ちになれる。

 別に将来の夢が画家というわけでもない。

 楽しいから描く。

 ただの趣味だったし、ようは絵が描ければ満足なのだ。

 それに何より、生きていた証拠になれる。

 絵は後世に残るのだ。人の心と、上手くいけば歴史に。

 勿論、一介の高校生でしかない楓のヘボ絵が後世に残る可能性は限りなく低いだろうが、それでもだ。

 後世に自分が存在した絶対的な証拠を残す。

 はっきり言って、北沢楓は目立たない存在だ。

 美人でもないし、男ウケが良いタイプでもない。十人並みの容姿。もしかしたらそれ以下かも知れない。

 告白なんて受けたこともないし、自分から告白したこともない。しようと思わなかったわけでもないけれど。何よりこの手のお話は何も焦るべき問題ではないと思っていたし、とりあえず街をふらつく女子高生っぽく(無論、楓も現役である)スカートは折り込んでいるものの、男が興味を示してくれるようなスタイルでもないから長くても短くても代わり映えないような気がする。

 唯一、伸ばしている髪だけは特別入れ込んでいるので毎日プライドを持って手入れしているが、化粧は特別なことがない限りしないし、最先端のファッションやブランド、周囲が騒いでいるようなアイドルグループには興味はない。

 勉強にも情熱を持って取り組んでいないから成績は中の下。運動もどちらかと言えば苦手にカテゴライズされる。

 部活は幽霊部員だらけの美術部。楓一人という事態だって珍しくない。どちらかと言えば、楓以外の部員がいることの方がイレギュラーかもしれないが、楓自身もあまり他人と交友関係を築くことは得意ではなかったから、好都合とも言えるし、創作に没頭できるから好都合だった。

 そんなわけで、クラスで仲の良い友人は数えるほどしかいない。

 誰も特段目立たない楓に誰も意識的に近付こうとはしないし、楓も意識的にクラスに融け込もうと努めていないから当然の結果と言えば当然の結果だ。仮に、もし楓が殺人でも犯して警察に捕まったとしよう。女子高生が人殺し。ワイドショーの格好のネタになる。レポーターが級友たちに楓の印象を聞いたならば『目立たない静かなで良い子。だから人を殺すなんて信じられない』とでも、皆を揃えて言うだろうか。

 家は何の変哲もない中流家庭で一人っ子。

 穏和な父は大企業の下請け企業に勤める営業マン。礼節に厳しい母は専業主婦で忙しい父に代わって、楓が通っている学校まで徒歩十五分の距離にある家を守っている。家庭環境は穏和。父と母との関係も、娘の立場から見る限り上手くいっているようだ。

 楓はキャンパスと窓から見える夕焼けが眩しい風景を前にして、自分の絵描きセットから赤のチューブを手に取り、パレットに赤の絵の具を押し伸ばす。

 キャンパスには、この美術室から見える何でもない夕焼けと何の変哲もない住宅街の風景が薄く描かれている。中央に陣取っている夕焼け以外は既に着色を終了しており、残すは夕焼けのみ。もうこの絵も完成に近かった。

 時より美術部顧問(絵を描いたことがあるのかすら怪しい)がコンクールに出さないかと誘ってくるが、全て楓は断っていた。賞に応募して栄光を掴む気などさらさらないし、それ以前にコンテストで栄冠を掴めるような才能と技術は持ち合わせていない。第一、人に評価されるために絵を描いているわけではないのだ。

「……さてと」

 楓が通っている高校の美術室は、第三校舎という淋しい校舎にある。

 通常教室と職員室がある第一校舎、図書室や音楽室など『比較的利用率が高い』特別教室がある第二校舎、そして美術室や物置など『比較的利用率が低い施設』がひっそりと配置されているのが第三校舎である。

 ちなみに、この学校の生徒は滅多な用事がない限り、第三校舎に立ち寄ることはない。

 主な原因として上げられる理由は、この学校のいわゆる『七不思議』という言い伝えがこの校舎に集中している(七不思議の内、五つが第三校舎に割り当てられている)ことにある。そのため、第三校舎は別名『オバケ屋敷』と呼ばれているくらいだった。

 パレットに横たわる赤の絵の具を絵筆でパレットの申し分ない程度に広げる。

 少しみっともない気がするが、誰も見ていないと言うことで絵筆を口に咥え、空いた手で薄い黄色を引っ張り出し、今し方広げた赤絵の具に触れないように黄色をパレットに出す。それから口元から絵筆を取り、パレットに黄色を伸ばす。

(さて、と……)

 伸ばしながら、どうやってこの夕焼けに着色しようか考える。

 平凡に赤と黄色を混ぜ、隠し味に少量の白を加えて夕焼けを表現しようと思うも、完成図を頭の中で広げれば納得がいかなかった。頭に浮かんだ完成図は単なる小学生でも描けそうな『風景』になってしまっている。深みが足りない、とでも言うのだろうか。納得できない。

「ん〜、……」

 楓の唯一の友人と呼べる存在・黒城和美に『女として決定的に無頓着。もっと男を捜すとかブランドやファッションに興味を持つべきだ』と言われる楓(興味がない物は所詮興味を持てないのである)であるが、ここだけは譲れないポイントである。

「あ〜……」

 筆をクルクル回してアイディアを捻り出す。

 もう残すのは夕焼けのみ。

 住宅街や街路樹は既に着色は済んでいる。

 後は空を含む夕焼けを着色すれば完成。

 完成は近いのだが、

「……、」

 近いの、だが、

「―――無理」

 筆を放り投げた。

 キャンパスの向こうにある風景と同色の色がどうしても創り出せないような気がする。

 色彩のみで考えれば、赤に黄色を混ぜ、隠し味に白をほんの少量加えれば良い感じになりそうだが、どうしても上手くいかない気がする。絵が軽くなってしまいそうだ。

「やめやめ」

 勢い良く楓は立ち上がり、そのままパレットを流し台へと持って行く。

 折角ここまで描き上げられたのに、一瞬の気の迷いで絵が潰れてしまうのはあまりに勿体ない。

 最近ではデッサンは疎か、住宅街や街路樹など細かいポイントの着色も上手くいった、未完成だけれども今のところ気に入っている絵なのだ。なのに、いい加減な気持ちで色を塗って失敗しました、というオチでは泣いても泣ききれない。出してしまった絵の具は無駄になってしまって勿体ないけれど、こればかりは仕様がない。

 若干の罪悪感に苛まれながら、楓はゴシゴシとパレットを洗った。

信じていた。幻想だとも知らずに、そして知ろうと思わなかったからこそ。例えそれが薄皮一枚の幻想であろうとなかろうと、紛れもない真実だと信じていた。

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