第一五譚 散華の咆哮
もう、戻れない。
手の中を見る。
そうだ。
認めよう。
今まで認識していた『自分』は全て虚構だったのだ。
善人のフリは、もう辞めだ。
そして『自分』が認識している以上に『自分』は酷い人間だった。
冷静に考えれば分かることだ。
何故、両親の亡骸を目の当たりにして『自分』は涙を流さなかったのだろうか。
何故、両親の寝室に入って涙が溢れてきたのだろうか。
何故、たったの二日間で学校に復帰できたのだろうか。
理由はそれぞれ一つだけ。
人でなしなのだ。ここにいる『自分』は。
―――何故、両親の亡骸を目の当たりにして『自分』は涙を流さなかったのだろうか。
あまりのショックで放心していたから。
否。
それは突然両親を奪われた『自分』が哀れだと思ったから。
―――何故、両親の寝室に入って涙が溢れてきたのだろうか。
言いようのない喪失感に襲われたから。
否。
それは両親を無くしたという事実を思い知らされた『自分』が哀れだと思ったから。
―――何故、たったの二日間で学校に復帰できたのだろうか。
何事にも負けずに頑張っていこう、そう決意したから。
否。
両親が殺された悲しみがたったの二日間で薄らいだから。
生まれてから今まで、とことん『自分』にとって理想的な自己解釈をしていたのだ。
心の奥底に渦巻いていた『ホントウノジブン』に蓋をして、理想的な善人を気取っていた。
事実を認識すればなんてこともない。
大鎌を思うように扱えなかったのは『自分』の本当の姿を捉えていなかったから。
たったそれだけだったのだ。
そう。
たった、それだけのこと。
◇◆
くの字に折り曲げていた身体を起こす。
足の震えは止まっている。立てる。簡単に立てる。
手の中には身の丈以上の大きさを誇る闇色の大鎌。
石突きから湾曲した刃の切っ先に至まで雄々しく美しいレリーフが施され、形は絵本に登場しそうな死神が持っている鎌と変わらず。
石突きで床を小突き、一呼吸置いてグッとただ単純に握り締めてみた。
一瞬、それはほんの一瞬の出来事だった。
「わ」
思わず床に大鎌を落としてしまった。
楓は屈み、拾う。
一〇センチほどの『大鎌』を。
身の丈以上の大きさだった大鎌はその大きさを変え、掌にすっぽり隠れてしまうサイズまで小さくなっていた。楓は掌サイズの大鎌を『抓み』ながら、試しにもう一度力を込めてみる。すると一瞬にして掌サイズの大鎌がすっかり身の丈ほどの大きさに戻っていた。
「すごいすごい」
間抜けな拍手がリビングに響いた。
「さすがは楓ちゃんだよ」
脳天気に拍手しているのは黒衣に身を包んだ少年だった。
「お師匠様そっくり。やっぱりお師匠様だよね」
言葉の真意は分からないが、純粋に賞賛しているだけなのだろう。
頭ではそう分かる。
だけど、―――許せないモノは許せない。
腕を振るった。
「どうしたの? 楓ちゃん」
平然と、ただ楓の瞳だけを捉えて少年は言う。
喉仏付近に、大鎌の石突きが突き付けられているにも拘わらず。
「うん。いいね」
少年は楓の不意討ちにしっかりと対応していた。
―――ご丁寧にも、最小限の動きで。
◇◆
一夜明けた。
「フォローか……」
通学路。
楓は悩んでいた。
正直、神田のアドバイスはありがたかった。
自分のことで手一杯だったから、和美の事なんて眼中になかったのだ。
言ってしまえば、楓にとって基本的にクラスメイトや担任教師はどうでもいい。
親しい友人なんて数えるほどもいないし、教師で親しくして貰っているのは担任と尾藤くらい。
そして彼らだって楓一人が欠けたって何とも思わないだろう。数少ない友人は『偶然』楓と会話して『偶然』気があった程度。尾藤だって美術部顧問だから、担任は担任だから『自然と』関わりを持っただけに過ぎない。
それは積極的にクラスの輪の中に飛び込んでいないからであって、その気さえあれば、いくらか楓が置かれている状況から脱却できるかも知れない。けれど、そんな気にもなれなかった。
中途半端にクラスに飛び込んでしまえば、いろいろめんどくさい。それに自分がクラスの面々ときゃあきゃあ出来る人間だとも思えない。無理して背伸びする必要はないし、身の丈にあった振る舞いをすれば面倒事はまず降り懸かってこない。それが昔からの楓の持論だった。
(うん)
今でこそ分かる。
なんでそんな持論を展開出来たのか。
人でなしなのだ。北沢楓は。
表から向き合えば、クラスが楓を見放しているように見えるかも知れない。
けれど逆説、裏から見ればどうなるだろうか。
裏からみれば、楓がクラスを見放しているのだ。
彼らと拘わる必要はない。
彼らと拘わっても何のメリットを見出すことは出来ない。
そう、彼らを決め付け、見下して。
ナルホド、確かに人でなしだ。
そう思えば、不思議と笑みが零れた。
(それでいい)
それが、北沢楓の本性だ。
本性がそうならば仕方がない。
何も無理して背伸びする必要はないのだ。
今まで『内気な子』と言う上っ面で残酷な部分を隠して生きてきた。
今までその本性を捉えた者はいないだろう。そもそも自分の正体に気付いたのはほんの数日前だ。自分でも知らなかった本性を他人が知りうるだろうか。まず無理だろうと楓は思う。いくら自分自身を知ったからって、生き方を変える必要なんてない。このままで問題ない。
そう、そのはずだった。
しかし、だ。
神田は和美が心配していると言った。
神田からそのことを聞かされたとき、嬉しかった。
和美は、楓を心配してくれているらしい。
嬉しかった。
そう聞いただけで、少しだけ救われた気がした。
持つべきモノは友達だ。持論とは矛盾しているということくらいは自覚している。だがそう思わずにはいられなかった。こんな自分でも心配してくれる友人がいたのだ。
楓にとって『和美』という存在は『北沢楓』でいるための最後の砦だった。
和美がもしいなければ、恐らく家族が殺された時点で『北沢楓』は崩壊していただろう。
学校にも行く気はなくなっていただろうし、莫然としているけれどもっと状況は悪化していたかも知れない。
最後の砦だ。大切にしよう。
そう楓は思いながら通学路を行く。
◇◆
慣れ。
教室に入ってみれば、誰一人として楓に注目する者はいなかった。
先日までの『北沢楓は不幸な可哀想な女の子』的な空気は既に払拭されていた。流石はクラスに置いて、居ても居なくとも差し支えない換えない存在。見事に証明されている。そう自嘲気味に思えば、自然と口元が緩んでくる。
(っと)
教室の入り口で突っ立って微笑んでいれば相当妖しい人だ。
少し慌てて辺りを見渡す。幸い、誰も奇行を見ていた者はいないようだ。これも流石はクラスに置いて、居ても居なくとも差し支えない換えない存在だから為せる技か。
自嘲に自嘲を重ねれば、不思議と何だか本当に面白くなってきた。
今度は微笑みを出来るだけ押さえつけ、ポーカーフェイスを気取りながら、あちらこちらで談笑に耽るクラスメイトを縫うようにして自分の席へと座る。いつも時間ギリギリに来る神田はともかく、和美はまだ来ていないようだった。
(……和美は、まだね)
あの一件が起こる前は、楓もギリギリ登校派の一人だった。
理由は何でもない。ただ朝起きるのが苦手だったからである。今となっては『起こしてくれる人』がいなくなってしまったし、必然的に『朝食を用意してくれる人』もいなくなってしまった。だから自力且つ朝食を用意しなければならないという関係上、昔より早く起床しなければならなくなったのだ。だから仕方がなく携帯のアラームと、近所の商店街で安売りされていた目覚ましを数台纏めて購入、部屋の至る所に配置して何とか朝起きている、そんな状況だった。
(そのおかげで少し早く登校出来るようになったんだけどね)
副産物、そう言って良いのか悪いのか楓には判断しがたいが、少なくとも通学路を爆走する、という事態はなくなっていた。
「おはよ、楓」
ふと、声がする。
黒城和美である。
「おはよ」
「久しぶりに楓を見たような気がする」
「うん。……ゴメン」
「何で謝るの?」
「いや、心配かけたかな〜って」
「え?」
「―――神田から聞いた」
「そっか」
瞬間、全身を言い様のない違和感が貫く。
(なに、コレ……)
違和感。
何だろう、これは。
楓は顔を上げた。
そこに映ったのは、黒城和美。
(和美……?)
はて、黒城和美はこんな表情をする人間だっただろうか。
こんなに、邪気を孕んだ表情を―――
「楓?」
「え、あ―――」
瞬間、チャイムが鳴り、それとほぼ同時に担任教師が入ってきた。
わだかまりを残したまま、ホームルームは始まった。
誰かが囁いていた。この世界の向こうで。