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第一三譚 天真爛漫な輪舞

 

 

 いつからだったろうか。

 神田裕太が北沢楓の事を『姫』と呼ぶようになったのは。

 幼稚園の頃からもう既に『姫』と呼ばれていたような気がする。

 神田と出会ってから、もう一五年以上経っている。

 けれど、彼は今でも変わらず楓のことを『姫』と呼び続けている。

 そう呼ばれるに到る所以は、良く覚えていない。幼稚園に入園する少し前の夏祭りがきっかけだったような気がするが、そこら辺の記憶が酷く曖昧なのだ。

 けれどまんざら悪い気はしない。

 それは神田と楓とを繋ぐ貴重な糸の一本だったし、何だか神田から特別扱いされているようで呼ばれる度に嬉しかった。周囲から冷やかされもしたがそれでも、嬉しかった。


 

     ◇◆

 

 

 ぴゅう、と風が吹き付け、楓は現実世界に戻された。

 一二月は、やっぱり寒い。

 高速道路の高架下を潜り抜け、大量の砂利を積載した大型トラックが巻き上げる粉塵と排気ガスを出来るだけ吸わないように息を止めながら、先行する神田の姿を追う。

 学校から歩いて一五分程度経っただろうか。地元では比較的有名である格安ホテルの前を通る。

(何処に連れてく気なんだろ……)

 いろいろな可能性を頭の中に浮かべ、消していく。

 と、

「こっちだって」

 ハッとした。

 あろう事か神田は楓の後ろにいた。

 どうやら考え事をしていた間に楓は神田を追い抜いてしまったらしい。慌てて神田の元へと戻れば神田は安心したように一息付いて、そのまま格安ホテル隣の地下飲食店街への階段を下りていった。

(酒でも飲んだりして)

 地下街全体が気持ち酒臭い。

 神田がこんな所に出入りしていた事自体驚きだが、当の神田は居酒屋には目もくれずさっさと進んでいく。どうやら目的は酒ではないらしい。

 しばらく古ぼけた飲み屋を両側に進み、やがて最も奥まった所でピタリと止まった。

 目的地は、ここらしい。

 その胸を把握した楓は、神田と並んで目の前の店を見据える。

「ここ?」

「ここ」

 小洒落つつも廃れたといった感じの小さな店がある。

 お世辞にも綺麗とは言い難い、焦げ茶色のドアに掛かっている看板には、店名らしき文字が書かれている。辛うじて『ク』と『ッ』と『チ』が見て取れるが、朽ちかけの看板からはそれ以上読み取ることが出来ない。

「―――スナック?」

「アホ。喫茶店だ」

 楓にはどうもいかがわしいスナックに見えて仕方がない。少なくとも学生が寄り道するようなところではないだろう。

「……本当に喫茶店?」

「安心しろって。ここのコーヒーがマジで美味いんだ」

 にっかりと笑う神田。

「ふ〜ん」

 心臓がうるさい。

 馬鹿みたいな動揺を隠すために、意識して楓は平淡で淡々とした口舌を振るう。

「知る人ぞ知る名店でさ、俺の兄貴がここの常連でそのよしみで俺も通ってんの」

「兄貴、って……祐介ユウスケさん?」

「んあ、良く覚えてるな?」

「幼稚園のときよく遊んだじゃん、三人でさ」

「だったな」

 あの頃はまだ家の周辺は雑木林と田んぼがたくさん残っていて、灌漑用水を溜めておく綺麗な溜め池まであった。確か、池の名前は『神賀池かんがいけ』。人工的に造られた溜め池なのに大層な名前だと幼いながらに思った覚えがある。今ではすっかり田んぼや雑木林は住宅に姿を変え、あの溜め池は埋め立てられてしまっているのだが、あの池は一生忘れることのできない場所だった。―――あの時の会話も含め、何もかも。

「ま、とりあえず入るぞ?」

「ん」

 あの頃に戻れることなら戻りたい。

 出来ることなら、本当に。

 

 

     ◇◆

 

 

 ドアベルを鳴らして店内に入ると、予想通りだった。

 内装はやっぱり古ぼけている。派手な彫刻の類が一切無いが、雰囲気だけで充分な焦げ茶色の柱だけでも充分。壁紙は剥がれ落ち、店内の電灯は所々切れかかっていたりしていて、喫茶店というよりは古びた写真館や骨董品店のような印象だが、何となく楓はコーヒーを嗜むには打って付けの空間かも知れない、そう思った。

「なんだ、せっかく兄貴が帰ったかと思えば今度は弟かよ」

 テノール歌手を彷彿させるダンディーな渋い声がカウンターの向こうから飛んできた。

 面倒見が良さそうなご老人。どうやら彼がマスターらしい。

「いーじゃんか、いつものね」

 本当に常連のようだ。

 神田はさも当たり前のようにど真ん中のカウンター席に陣取り、入り口でどうしたらいいのかわからないでいた楓を手招きした。

「お嬢ちゃんは?」

 ぎこちない動きで神田の隣に陣取った楓にマスターは言う。

(今時の女子高生に『お嬢ちゃん』は古いんじゃないかな)

 そんなことを思いながら、

「じゃあ、ブルーマウンテンで」

 咄嗟に出てきた単語がそれだった。

 

 

     ◇◆

 

 

 マスターはカウンターの奧に置いてある古めかしいラジオのスイッチを入れた。

 そのラジオの砂が混じったような感じの音は不思議と眠りを誘う優しさに満ちていて、妙な安心感と充実感が優しい空気を醸し出す。

「良い店だろ?」

 切り出したのは神田だった。

 楓は両手を温めるようにコーヒーカップを包み込みながら、素直に頷く。

「一人になりたい時とか、俺はよくここに来るんだよ」

「?」

 楓は神田の真意を測りかねたが、

「露骨だな。邪魔だってか?」

「まあね、ちょっと今回は邪魔だな」

 真意を伝えたかった相手にはしっかりと伝わったらしい。

「お前たち兄弟は本当にろくな神経してねぇな」

「何でも良いから早く引っ込めよ、マスター。出て行くときはちゃんと呼ぶから」

 マスターはやけくそ気味に文句一つ吐き捨て、やがて奥へと消えた。

 雑音混じりラジオだけが、店内に響いている。

 果てしなく、静かで心地の良い空間だった。こんな空間で絵でも描きたいなあと思いながらコーヒーを啜る。

「―――ね、どうしてこんなトコまで連れてきたの?」

「ん? そりゃ、姫を心配してるからに決まってんじゃん?」

「ふーん」

 楓はいい加減に相槌を打って、楓は角砂糖を二個ばかりコーヒーの中に放り込んだ。

「―――最近授業もサボッてんじゃんか。姫らしくねぇって思ってさ」

 角砂糖がノロノロとカップの中で熔けていく。

「グレちゃったの」

「あっそ」

 楓はスプーンを取って、熔けていく角砂糖を突いた。瞬間的に角砂糖は崩壊し、黒へと吸い込まれていく。

「ま、姫は昔から適当だったけどさ、学校とか授業とかサボる事なんてなかったじゃん?」

「そう? 体育とかサボってたけど?」

「だっけか?」

 両手でカップを包み込むように持ち、一口含む。

 芳醇な香りがする。それでいてまろやかで、インスタントコーヒーなんかとは比べものにならないくらい全体的にしっかりとしている。店の雰囲気だけではなかった。確かにこの店は『名店』のようだ。素人目でも分かるような気がする。

「……ウチの母上が『もし困ったらいつでも来なさい。刺身ご馳走してあげるから』って」

「うん。ありがと」

「大丈夫か? 顔色あんまよくねぇみたいだけど?」

「まあ、ね」

 言ってしまおうかと思った。

 いや、打ち明けたかった。

 あの『追捕使』や『紫衣』やアカシックレコードのことも、一族皆殺しという真実も何もかも全部。

 神田なら打ち明けても良いような気がした。

 神田なら受け止めてくれるかもしれない。

 この苦しみから救ってくれるかも知れない。

 救いの手を差し伸べてくれるかも知れない。

 だが。

 楓はその想いを否定した。

 今さっき意想したこと全て。瞬時に。

 言ってしまえば全てが終わる。

 真相を神田が知れば、神田にいらぬ荷を背負わせてしまう。

 もし神田が真相を知ったことがあの少年の耳に入れば、神田の命はない。

 あの少年は間違いなく武力行使に出る。一族の死だけでも充分過ぎる犠牲なのに、神田まで巻き込んでしまう。それは絶対に嫌だ。絶対に、嫌だ。

「大丈夫。ちょっと、疲れてるだけ」

「明日、学校来るんだろ? 黒城のヤツが心配してるぜ? 俺からフォローしとくか?」

「……ううん。フォローは自分でやるから」

「あっそ」

 すっかり飲み頃になっているコーヒーを口に運ぶ。

 沈黙が、続く。

 店内には音の悪いラジオからジャズっぽい音楽が流れている。

 妙に落ち着いた、何だか懐かしい感覚を楓は莫然と享受していた。

 いつまでも、願わくはこの平穏が続きますように。

 絶対に叶わない願いを、心に秘めて。

 

 

     ◇◆

 

 

 午後七時二三分。

 携帯の背に付いている小ディスプレイにはそんな文字が浮かんでいた。

(すっかり遅くなっちゃった)

 玄関先で靴を脱ぎ、あの喫茶店に長居したことを多少なりと反省する。

 この際だから食事は適当に残り物で繕って、さっさと風呂にでも入って仮眠を取ってしまおう。どうせ今夜も『レッスン』があるはず。『レッスン』はどうせ深夜だから仮眠を取らなければとてもじゃないけど体力が続かない。

 階段を登り、二階の自室の扉を開けて鞄だけを中に放り込む。本来ならばここで着替えられるのだが、めんどくさかったから着替えることなく夕食の準備をすることにして、楓は一階へと戻り、リビングのドアを開けた。

「おかえり〜」

 開けると、気の抜けた声が飛んできた。

「―――何、してんの?」

 漆黒の少年は空腹で死んだようにソファーで寝ていた。

 彼がいつも腰に差している刀は無造作に床に投げ出されていて、何だかその刀が妙な哀愁を醸し出している。

「何してるのって、……楓ちゃん酷いね」

「は? 意味分かんないんですけど」

「酷い。酷いよ、楓ちゃん」

 少しヒステリックになっているらしく、少年は弱々しい声で、

「楓ちゃんがあんまり遅いから餓死する所だったじゃない!」

 そのまま死んでしまえばいいのに。

 楓が抱いた率直な感想だった。

「関係ないし。冷蔵庫にいろいろあるから適当に食べればいいのに」

「りょーり、したくないの」

 だから何か食べさせて。

 そうごねる少年に楓は嘆息しながら、食パンを手に取った。

負を纏いて、少女笑ふ。

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