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雛子は自分自身に対し、呆れ返っていた。仁見清春と再会した休日は、結局美容院に行き、その帰りに秋冬物の服を三着購入した。家に帰ると常にないほどしっかりとスキンケアをし、身体にもボディークリームを塗って、剥げかけていたマニキュアも塗り直した。
行動が、完全に清春のことを意識していた。彼に少しでもよく思われたい、という願いが行動の根底にあった。
再会して、しっかりと会話をした訳でもないのに、彼を想っていた頃の気持ちが、今の雛子のものとして息づいている。少し話して、笑顔を見ただけでこうなのだ。この感情を恋と定めるのが順当なのだと、雛子は理解せざる得なかった。
まさか今さら十年も前の恋に悩まされるとは思わなかった、そう思うと雛子自身苦笑しか出ない。
そして、これが恋だと理解したからこそ、胸を焦がす痛みを無視することはできなかった。
「ううん………」
事務仕事で凝り固まった身体を湯船で癒やし、寝支度を整えた雛子は、布団の上にごろんと寝転がる。少し前に夏布団から羽毛布団に換えた掛け布団に抱き枕のようにしがみつきながら、スマートフォンの画面を見つめる。その表情は悩ましげに歪んでいて、彼女の心にかかった靄を示唆していた。
先週の土曜日、清春にエアコン修理のお礼のメールを送った。それに彼はそう間を置かずに返信をしてくれたが、それ以降全く音沙汰がない。分かっている、分かっているのだと雛子は自分に言い聞かせる。再会でこれ以上なく盛り上がっているのは、自分だけなのだと。
木曜日を迎えて、雛子は落ち込みそうな気持ちを宥めながら、ベッドの上で葛藤していた。自分からメールを送りたい、と思っている。待っていたところで彼から連絡がないことなど、彼女にも分かっていた。連絡先を交換してくれたのだって、きっと社交辞令なのだと思うとへこむが、しっくりとはくる。
さて、メールを送るとするならば何と送ろう。しかし、またもや自身からメールをして鬱陶しがられないだろうか、躊躇う理由ばかりが雛子の中で思い浮かんでは消える。
意味もなく、友人や妹にアプリを使ってメッセージを送り、友人とは他愛のない会話をして心を落ち着かせる。早々に返信が返ってこなくなった妹の冷たさに侘びしいものを感じていると、またバイブがなり、雛子に新着メールの存在を告げた。
受信ボックスを開き、送り主の名前を確認して、雛子は目を見開く。
『仁見くん』
そこには確かに雛子自身で登録した、彼の名前が映し出されていた。彼女は一度ゆっくりと息を呑むと、とんでもない勢いで全身に血液が巡っていくのを自覚する。夜は少し冷えるようになってきたと思っていたのに、今の雛子は全身が熱くて仕方なかった。
恐る恐る、本文を開き、その内容を確認する。
『急なことで悪いんだが、もし次の土曜が暇だったら買い物に付き合ってくれないか?』
簡潔に用件だけが書かれた文面だった。そして、その文面は雛子にとって何よりも喜ばしいお誘いが書かれていた。勢い良く鼓動する心臓に右手を当てて、ゆっくりと心を落ち着ける。
喜びの余り、変なことを言っていないかと何度も何度も確認し、雛子は当然了承する旨のメールを返信した。
世間には『花金』という言葉があるらしい。『花の金曜日』の略で、土日が休日の社会人が金曜日の夜に飲みに出掛け、楽しむことを指す。飲みに出掛けこそしないものの、今の雛子の気分はまさにそれだった。
もう一晩寝れば、清春との約束の土曜日がやってくる。何を着て行こうか、鞄は、靴はどうしようか、そう考えると悩ましいものの、それでもうきうきと心踊っている自身を自覚する。
三十分ほどの残業をして、上の人間が帰り始めるのに合わせ、上機嫌に仕事用の鞄に荷物を詰めていく。口を閉じることが出来ないのは難点だが、A4サイズのファイルが入るので重宝していた。
唇が乾いていたので、席を立つ前にリップクリーム代わりにグロスを塗ろうと化粧ポーチを取り出す。蓋を捻って開けようとして、手元からグロスが滑り落ちた。
「あ」
それを、通りかかった人物が拾ってくれた。雛子はお礼を言おうと顔を上げて、一瞬言葉に詰まってしまう。
「あ………ごめんなさい。ありがとう」
拾ってくれたのは、彼女の同期である宝田美奈だった。少し明るめの髪を毎日丁寧に巻いている華やかな美人で、人目を惹く容姿をしている。常に堂々としており、性格も社交的だ。
咄嗟に雛子は失敗したな、と思った。彼女は美奈のことを苦手に感じていた。
「いいえ。はい、どうぞ」
美奈は雛子にグロスを返すと、雛子の顔とグロスをじろじろと見比べる。それから唇の右端だけを釣り上げて、息を吐き出すように笑った。基本的に明るく社交的な彼女が、雛子にだけ見せる顔だった。
「その色、住吉さんにはあんまり似合わないと思うよ。ああ、ごめんね、私の勝手な印象だから気にしないでね」
じゃあお先に、とすでに鞄を肩に掛けて帰宅しようとしていたらしい美奈は、すぐにその場から立ち去っていった。
雛子は未だ残っている同僚たちに気づかれないよう、ゆっくりと細く息を吐く。彼女の一言であからさまに落ち込んでいる姿を誰にも見られたくなかった。
美奈とはお互い新卒の同期として入社したが、初めて会ったときから折り合いが悪い。華やかでこれまで接したことのないタイプである美奈のことを雛子は苦手としており、美奈の方も雛子のことを当初から嫌っていることが端々に伺える。雛子は自分が何かしてしまったのだろうか、と常々思っているが、それを尋ねる勇気も気力もなかった。
仕事自体は嫌いではない。もちろん、面倒で行きたくないと思うことはあるが、幸い上司にも恵まれており、今の仕事は気に入っている。ただ、美奈と顔を合わせることだけがどうしても苦痛で、そのときばかりはいっそ辞めてしまいたいと思うほど落ち込んでしまっていた。
雛子は手の中にあるグロスをしばらく眺めて思案する。それを見れば先程の美奈の顔を思い出し、似合わないと言われた言葉が心に刺さる。
一つ溜息を吐いて、雛子はかつて気に入りだったそれをゴミ箱へ捨てた。
約束の土曜日、電車に十分ほど揺られ、近くに百貨店がある駅へと辿り着いた雛子は、改札前の柱を背に立ち、そわそわと清春の訪れを待っていた。彼は今日も昼過ぎまで仕事らしく、それを終えてから待ち合わせ場所へやってくる。その為待ち合わせ時間は十六時と遅く、ゆっくりと余裕を持って準備をすることが出来た。
緊張から視線を下げ、自身の服装を視界に収める。ギンガムチェックのフレアスカートに白のブラウス、黒のカーディガンを羽織り、薄ピンク色のショルダーバッグを肩からかけていた。足元は黒のタイツと同色のブーティーを履いている。変ではないだろうか、と何度も自分の身体に視線を巡らせては、答えの出ない不安に雛子はそっと溜息を吐きたくなる。
腕時計の時間を確認すれば、時刻は十六時五分前を指している。そろそろだろうか、と顔を上げて改札の方を見上げた。すると、人混みの向こうに清春の姿を見つけることができた。どうやら、ちょうどホームから改札に上がってきたところだったようだ。
逸る気持ちをそのままに、背筋を伸ばして清春の姿を目で追う雛子は、ふと彼が一人ではないことに気付いた。
「え…………」
清春は女性と一緒だった。年の頃は雛子らと同じくらいだろう。明るい色の髪をショートカットにした、綺麗な人だった。タイプで言えば、宝田美奈と同じだろう、と雛子は思う。カジュアルな服装の彼女は清春と楽しそうに談笑しながら、共に改札を抜ける。そこで二人は手を振り合ってその場で別れた。じっと見つめる視線に気付いたのか、女性の方がふと顔を上げる。雛子と目が合った。
女性は数瞬じっと雛子を見つめたが、一度軽く会釈をすると、背筋を伸ばしてその場から颯爽と立ち去っていった。
「お待たせ。悪かったなあ、遅くなって」
雛子がぼうと女性の姿を目で追っている内に彼女を見つけたのだろう、女性が去っていった方へ目を向けていた雛子のそばに、気付けば清春が立っていた。彼はジーンズにカットソーという、実にラフな格好をしていた。シンプルだが、スタイルのいい彼がすれば地味すぎるということもない。鞄は持っておらず、ポケットに財布を突っ込んでいる様子だった。
「仁見くん、さっきの人………」
「え?ああ、見てたのか。あいつ高校のときの後輩なんだよ。偶然電車で一緒になってここまで世間話してたんだ」
彼は何でもないことのようにそう話す。本当かな、と雛子に疑いの気持ちが芽生えたのは、彼への好意が理由であり、根拠などなかった。しかし、それを問いただす権利など当然ただの同窓生である雛子にあろうはずもない。
じゃあ行こうか、と促す清春に、雛子は大人しく従うしかなかった。




