骨のおはなし
部誌に載せたものです。蜥蜴さんと孔雀さんが話してるだけ。
万華鏡のように、きらきらと、ガラスの円天井がかがやいていた。
光の満ちたドームの温室には、熱帯の植物が生い茂っている。樹冠から垂れ下がるたくさんの翠の房や、色あざやかな苔が、湿った色タイルの敷き詰められた床にはびこっている。たっぷりと水をふくんだ多肉植物が、果実のような葉を揺らして、朝露を落とした。
ふと、南国の木々の立ち並ぶなかで、ひときわ高い、枝が根っこのように垂れた樹の天辺で、葉ずれの音がした。
風の吹かない温室の中で、それは、そこに植物でない生きたものがいるということを如実に示していた。
「……!」
ふと、声が、したような気がした。
「…、…か…! …かげ! ……、」
明らかに、風のなでる植物のささやきでない音がする。高みの緑中で、にわかに湿った空気がざわついた。
だんだん、その声と思しき音が近づいてくるのに比例して、カツカツという甲高い靴音が、くるくると回って上がってくる。どんどん大きく高くなっていく人工的な音に、樹上の存在は、厭わしげに大きく葉のこすれ合う音を立てた。
靴音と声は螺旋をめぐり、どんどん近づいてくる。そして、
「蜥蜴!」
高圧的な呼び声と共に、もっとも高い位置にある植物園に、遥か下方から喧騒を引き連れたひとりの人物が姿を現した。
妙に響く靴音は、その中華風の金色の靴の踵から発せられたものらしい。爪先をおおう蓮を模した装飾に、右の足首から大腿部までを取り巻く華美な濃紅の入墨。つる草を模したようなそれは、よく見れば、持ち主の背で揺れる、巨大な孔雀の尾羽をかたどったものだと知れる。その羽根は、少年的に細い腹部をも彩り、しなやかな左腕にも巻きついて、金の鈴のたくさん下がる透けたヴェールの下で、炎のように揺らめいた。
繊細な金の鈴と鎖と輪で、白い胴に紅の映える体幹以外を毒々しいほど飾りたてた人物の首と胸元には、掌ほどもある紫水晶が、ガラス越しの太陽のひかりを反射して、ぎらぎらと輝いていた。
「いないのですか。蜥蜴!」
さらに大音声で呼ばわった声に、樹上から、「……聞こえている」と、いかにも嫌悪を隠さない、しわがれた声が降ってきた。きらめき過多といった風情の来客は、朝焼けを閉じ込めたエメラルドのような切れ長の瞳をツと細めた。
「いるのなら最初から返事をなさい。このわたしがこんな蒸し暑いところまで上がってくる必要なかったじゃないですか」
靴が傷みます、と、むしろ床のほうが傷みそうなほど鋭く尖った踵をいちど打ち鳴らし、「新調したてなんですよ」と憤慨しながら腕を組んだ。端麗な顔がゆがめられ、顎で切り揃えられた、先をビーツのようなオペラ・ピンクに染めた黄金の髪がしゃらりと揺れた。「見てください、湿気で手足の入墨の発色が落ちてます」
絶えず硬質な音を立てる装飾品と華麗な靴と、腰に目を射るあざやかな紫紅の布を巻いている以外、惜しみなくその刺青の羽根に彩られた肢体を晒している、歩く派手という様子の闖入者に、忌々しいといった風情の舌打ちが響いたあと、さらに低い声が降ってきた。
「……服を着ろ、孔雀」
「着ています」
堂々と胸をはった闖入者に、聞こえよがしな嘆息とともに翠の房が揺れた。腰布は服に入れない、と呼気のような毒づきに「なんですって?」と適当に訊き返したあと、返事も待たず、客はおおげさにため息をついた。
「ねえあなた、いつまで髪だけ垂らしてわたしと話すつもりです?」
高慢に首を傾げた、孔雀と呼ばれた青年に、樹上の存在は、たっぷりの沈黙ののち、がさりと大きな音を立て、おびただしい翠の葉の隙間から、太い枝に預けた身を晒した。
翠の房は植物の葉でなく、髪だった。
孔雀とは対照的に、白いシンプルなシャツを着て、その上から全身を黒いブレザーで覆っている。飾り気ひとつなく、濃灰色と茶褐色の中間のようななめらかな肌が見えるのは、骨ばった手首から先と、整った、不思議な植物のような色の髪にとりまかれた顔のところだけだった。いらだったようにその量の多い髪が一房、生き物のように跳ね、毛先が一瞬、剣呑な紅と銀にきらめいた。
棕櫚の葉のように鋭い紅の三白眼で、仁王立ちしている孔雀をねめつけながら、しなやかな獣の仕草で、蜥蜴は、タイルを覆い尽くすように茂るシダの上に音もなく降り立った。一拍遅れてあるじの後を追った長い髪が、紅、緑、銀と波打ちながらふわりと広がった。
「髪の色が変わりまくっているということは機嫌が悪いんですね。まあいいでしょう」「お前といて俺の髪の色が変わらなかったことがあったか」「そういや常に迷彩レベルでうごめいてますね。思春期なんですか」「五百年前だハゲ」
黒い衣服に包まれたしなやかな肢体を彩るように、床まで垂れ落ちるウェービーなロングヘアを無造作に捌き、蜥蜴も負けじとせいぜい尊大な姿勢を取り、傲然と言った。
「で? この俺がわざわざ地面に降りてやったんだ。それ相応の理由が無いと千年先でも許さない」
細い咽喉から発せられた驚くほど低い声にもまるで怯まず、孔雀はおびただしいシダの群生に一歩分け入り、高飛車に宣言した。
「蜥蜴、いますぐ来てください。用があるんです」「断る」
食い気味に返答して背を向けた蜥蜴に「大事な用なんです」と引きとめる素振りを見せた孔雀の方を、蜥蜴は舌打ちして振り返った。
「用ってなんだ、用って。また浜辺の崖できれいな卵を見つけたからのぼって取ってこいとかだったら殺すぞ、髪で」
「どうやって殺すんですか。絞殺ですか。絞殺なんですか。ああ解りました、体で理解できそうなので髪荒ぶらないでいただけます」
蔓草の成長を早回しで見ているように首に巻き付いてきた蜥蜴の髪を面倒くさそうにどけながら、孔雀は隙なくピンクに塗った爪の人差し指を立てた。
「中央の平野から、古い骨が見つかったんです」
途端、温室内に、静謐が戻った。
たっぷり五秒の空白ののち、
「……で?」
色素の薄い片眉をあげ、冷え切った声音で返した蜥蜴に、孔雀は苛立たしげに右足を踏み鳴らした。「だから、ついてきなさいと言っているでしょう」
「そこを順接でつなぐのはおかしい」
「とにかく、来てもらわなくちゃ困るんです」
返事をせず、音の無い跳躍と共にまた樹の上に姿を消してしまった蜥蜴に、孔雀は瞑目して大袈裟に嘆息した。
「大変不本意ながら、もうあなた以外に声をかける人材が見つかりませんのでね。こうしてこの私がこんなところまで足を運ぶに至ったわけです」
「こんなところに棲んでて悪かったな」
光り降り注ぐガラスの温室に、低い声が反響する。ええ、素晴らしい日当たりですね、引っ越しを検討したらどうですか、と皮肉で返され、樹上からまた音がする。
「大体、骨が見つかった程度でなんだ。どうせ化石だろう。あるいは、忘れ去られた誰かか」
蜥蜴はそう続け、既に植物の房にまぎれてしまった髪を揺らす。珍しくもない、とぼやこうとした彼の囁きを、しかし、眉根を寄せた孔雀が遮った。
「それが、おかしな骨なんです」
蜥蜴は何も返さなかった。だが、植物の房にまじって垂れ下がる毛先が薄青く透けたのを、孔雀は見逃さなかった。畳みかけるべき、とばかりに「梟も、色んな意見をきいてみたいと言っていますし」と聞えよがしに言う。「彼が、蜥蜴を呼んでこいと言ったんですよ」
もう一度、梢の狭間から身じろぎの音が聞こえた。これは決まったな、と孔雀がほくそ笑むと、案の定、蜥蜴の、不機嫌と忌避でコーティングされた質問が降ってきた。
「どこだって言ったか?」
「中央平野です」あの、茫漠とした曠野、と孔雀は頬をゆがめて笑んだ。蜥蜴があの地を訪ねることを嫌がるということを知った上での笑みだろう。蜥蜴の切れあがった眦が、更に吊った。忌々しいと思いつつも、行かざるを得ない。
大きく枝がしなり、もう一度、熱帯の植物の隙間に降り立った男の姿を見て、孔雀は、完璧なる勝利の笑みを浮かべた。
「では、わたしについてきてください」
陸地の中央にある、平地の曠野は、淡褐色の空間である。砂とおなじいろをした乾いた草、黒いいびつなシルエットの細い灌木がまばらに生えている以外、茶褐色の大地がずっと続いている。蜥蜴は砂塵に目をほそめ、白っぽく霞む空を見上げて咳をした。湿度の高いところにいたため、口蓋に舌が張り付くほどの乾燥に、堪らず眉間に皺を寄せた。これだから、ここには来たくない。寒くて行動できなくなる、北の湿原の次に大嫌いな場所だ。
三歩先を行く孔雀はそんな気候も気にせず、巨大な紫と緑の尾羽を揺らし、説明するでもなく歩き続けている。この男に先を譲るのは癪だな、などと訳もなく苛立った。
首元でしっかりと結んだ黒いタイを落ち着かなさそうにもてあそんでいた蜥蜴は、ふとその長い指を結び目から離した。目的の場所が視界に入ったのだ。
たまご型に地面がくぼみ、赤茶けた土が露出していた。その中央に、右半身を下に、体を丸めた胎児のような格好で、白っぽい骨格が横たわっていた。土と砂にまみれ、だいぶくすんではいるものの、元の色が白であることは容易に見て取れた。
その骨は、鳥かごのような胸の骨の前で指を組み、その組んだ指の隙間に、繊維のようなかさかさの乾いた何かをそっと持っていた。触れればすぐに塵となって跡形もなく風に吹き飛ばされてしまいそうなそれに、蜥蜴は屈みこんで顔を近づけた。「植物のなごりか?」
「そのようです」
穴の周りでたむろしている数人のうちひとりと話していた孔雀が、蜥蜴のほうを向き直って肯定した。つかつかと、砂や小石の散らばる地表をものともせず、ハイヒールで近づいてくる。「昨日の夕ぐれ、蝙蝠が散歩中、いえ散飛中に見つけたようです。おそらく、長い時間をかけて、骨をおおっていた泥が風に吹き飛ばされて露出したのだと」
「ほう」
孔雀のほうを見もせずに声をもらし、蜥蜴は一応あたりも見渡した。第一発見者である蝙蝠の姿は見えない。大方夜行性なので、洞窟内の自室に引きこもって眠っているのだろう。さらに、蜥蜴を呼びつけたという、こういうときに調査を担当する梟の姿も見当たらない。さては嵌められたか、と孔雀のほうを睨めば「わたしのせいではありませんよ」と言わんばかりの眼差しとかち合った。
「梟は」傍にいたひとりに訊くと、研究室に戻ったという答えが返ってきた。来るんじゃなかった、と、乾いた唇に舌を這わせながら苦々しい表情を零した。縺れた髪が乾燥した地面を掃き、灰色に汚れている。しかも黒服なので、付着した砂が目立つ。最悪だ、と、近くに寄ってきた孔雀の、あまりにも汚れる面積が少ない姿に顔をしかめた。
「あなた何か解ります?」
「知るか。古文書は鳥類の管轄だろ」
さっさと曠野に背を向けて歩きだした蜥蜴に、孔雀はヒールの音を響かせて追い縋った。「推測でいいんです、まったく見当がつかなくて」白い骨なんて例がないものですから、と首を傾げた。首飾りの紫水晶が触れ合い、かちゃりと音を立てた。
「俺が知るか。しゃくなげ色でも、極彩色でもない。白くて乾いた骨だ。何の種の骨なのか想像もつかない」
「うーん…」
にべもない蜥蜴のこたえに、孔雀は腕をくんで唸った。「まだしっかりとした調査結果も出てないんですけど、なんだかどうも、わたしたちのような、結晶質の骨じゃないんですよね」
蜥蜴は孔雀のほうを見もせず、「変性したとか、特殊な結合してるとかだろ」俺もお前も、誰だって骨は宝石でできてんだ、と低く呟いた。
「そりゃふつうはそうなんですけど……」
中に空洞もあるようですし、などと、なおも歯切れの悪い孔雀に、蜥蜴はついに足を止めて、一歩後ろを歩いていた孔雀に向き直った。その拍子に顔面に孔雀の尾羽が当たったが、気を取り直して言う。「つまりどういうことだ。お前は俺になんて言ってほしいんだ」
孔雀は濃い翡翠の瞳をみひらいた。その中央に、鮮やかな紫の瞳孔が驚いたふうにちろりと燃え立った。「いえ、そんな誘導尋問みたいなことはしませんよ。ただね、どうも不可思議な骨なもので、どうしても気になって」
蜥蜴はため息をつき、腰に手を当てて、説明だけは聞いてやるという様子をみせた。孔雀はそれを片目で一瞥し、人差し指を立てた。
「まず、不思議その一。発見された骨と思しきものは、わたしたちの骨のように宝石の類ではないこと。これがいちばんの不思議です」
「だから、なんかわけあって変性したとかだろう」
「そのわけとはどのような?」
宝石が土に変わるとでも? という孔雀の問いに、気分を害した風に眉間に皺を寄せた蜥蜴だったが、孔雀は構わず続ける。
「不思議その二。中が空洞だった」
人差し指と中指を立てた孔雀に「つまりどういうことだ」と返すと「ですから、内部が空洞なんです」と二本の指を目前で振られ、無性に苛立ったのでその二本をへし折ろうと蜥蜴が手をのばすと孔雀はさっとそれらを引っ込めた。
「本来なら、わたしたちの骨って密な結晶構造じゃないですか。わたしなんて単斜晶系でしかも脆くってまったく腹立ちますよ」
確かに、孔雀は他の面子に比べ、骨折が多い気はする。さて自分の骨の結晶構造はなんだったか、検査はしたはずだが、と蜥蜴はふと思ったが、おもいだせなかった。元々余計なことは覚えない主義なのだ。その原理も構造も知らなくても、折れても砕けても日が経てば、ゆっくりと繋がりなおす。そのことさえ解っておけばそれでいい。
孔雀は例の骨のほうを名残惜しげに振り返り、それから蜥蜴に向き直る。
「検査した梟は、どうも、〈にんげん〉の骨じゃないかと云っているんですが……」
歩き出そうとした蜥蜴が動きを止めた。濃い紅色の瞳だけが、立ち止まっている孔雀のほうを向いた。濃い褐色と緑の髪が波打ち、一瞬金にかがやいた。
「……〈にんげん〉?」
「はい」
孔雀は頷き、蜥蜴の隣にならんだ。「わたしたちのもとになった種です。いまでは神話的な存在ですけれどね」
彼らに関しての古文書もいくつか発見されているんです、とまばたきした孔雀の瞳をついしげしげと見てしまい、そのオパールのように瞬く極彩色を目にしてしまって眩暈がした。こいつの瞳はこちらの目に悪い、と内心思いながら、それにかぶりを振る。「意味が解らない。どうしてそんな突拍子もない話が出てくるんだ。ばかばかしい」
孔雀は口角を吊り上げ、「ところがこれがわりと信憑性ありましてね」「お前の言い方なんか腹立つな」
蜥蜴の暴言を無視し、孔雀は腕を組む。上腕につけた飾りが硬質な音を立てた。
「どうもわたしたちの種の骨ではなさそうなので。仮説としてはいい線いってるのではないかと」
「にんげんってのは宝石じゃない白い骨してんのか」
「知りませんよ。わたしは孔雀なんでね」
肩を竦めた孔雀に、蜥蜴はあざやかな紅色の瞳を向けた。この男のなかにも、なにかきらびやかな宝石の骨格が隠されていて、そのきらめきと生身をつなぐ細胞のなかに、背の巨大な尾羽に象徴されるような遺伝子が光の粒子のように這いまわっているのだ。勿論、じぶんも。孔雀に苛立つたびに波打つ髪の色も、褐色の皮膚におおわれた柔軟な体も、硬質な骨としなやかな身に、爬虫類の遺伝子が組み込まれている。
にんげん。
書庫に保管される文献にその名があることは薄っすら知っている。だが、それはひどく不気味な存在である。得体の知れない、遥か昔のいきもの。氷河期のもういない巨大な象に思いを馳せるのと同じように、蜥蜴は古代の生き物をゆめみる。
「……もうこの話はやめだ」だいたい、語るにしても知識が少なすぎる、と蜥蜴はかぶりを振った。
尚も食い下がろうとした孔雀を振り切るように足を速めると、気づけば例の骨の発見された曠野から遠くはなれ、いつしか丈低い草原の自生する、東の丘のもとに差し掛かっていた。だいぶ海のほうへ近づいたらしい。その麓のまばらな木立に分け入りつつ、背後で木の根や枝に飾りをひっかけて悲鳴をあげている孔雀を放置し、風景に同化するような髪をたなびかせて、開けた丘の斜面に足を踏み出した。少しあとから、あちこちに蔓や葉を絡みつけた孔雀が騒がしく追いかけてくる。
「少し待ってくれたっていいじゃないですか」
「どうして俺がお前を待たなきゃならないんだ」
「それもそうですね」
文句を言っておきながらさらりと納得し、やわらかな土にめり込んだヒールを苦労して引き抜きながら、孔雀は蜥蜴の隣にならんだ。そして雑談のように問うてくる。
「そういやあなたの骨ってなにいろなんですか」
「この前切れた腕の断面みるかぎり虹色のマーブルだった」
「……うわあ」
今は跡形もなく再生してる蜥蜴の腕を気味悪そうに眺め、孔雀は身を抱いて大袈裟にぶるっと震えた。「もうすこし怪我に気をつけたらどうなんですか」
「三月前の嵐の日に倒木にもってかれたんだ、撤去作業に従事してやった俺を尊べ」
わたしも従事してましたけどね、と横でぼやく孔雀に手を振り、「お前も自分の骨のいろくらい知っといたらどうだ」と嘯いた。
「そんなこと云ったってあなた、わたしは鳥類ですから腕や足がなくなっても生えてこないんです」鼻を鳴らし、それでから少し身をかがめて「便利なもんですねえ」と興味深そうに蜥蜴の手首をつかんでしげしげと矯めつ眇めつした。「わたしももっと役立つ遺伝子があればよかったのに」ばさりと、発情期でもないのに年中開きっぱなしの、扇のような巨大な尾羽を羽ばたかせた。それを見て、蜥蜴が珍しく独り言のように「…………それ、動かせるのか」と呟いた。「動かせますよ、生えてますから」また羽根を大きく上下させ、孔雀は肩を竦めた。「〈にんげん〉ではないのでね」
蜥蜴の頬がぴくりと動いた。「……またその話か」
「だってそうでしょう。あなた梟の保管してる古文書みたことあります?」
「あるはずないだろ」俺は植物図鑑しか読まん、と豪語した蜥蜴に「偏りすぎですし、図鑑は読むとはいいません」と孔雀はかぶりをふった。竦める肩の刺青が生きているように蠢き、蜥蜴は目を細めた。
「にんげんってのは、わたしたちからそれぞれの種の特徴を取っ払ったようなものらしいです。羽根もなく、鱗もなく、手足が二本ずつで、頭がひとつの」説明しはじめ、孔雀はまた指を一本立てた。蜥蜴は目前の孔雀の姿から巨大な尾羽を取っ払った姿を想像して、視界がうるさくなくていいじゃないか、と内心感嘆した。にんげんのほうが姿かたちは洗練されていたのかもしれない。そう、少なくとも目の前のこの歩く派手よりは。
蜥蜴に内心そんなことを思われているとは露知らず、孔雀は説明を続行した。
「それで、どうもにんげんは百年くらいで、世代を交代するようです」
「百年」不機嫌そうながらも、蜥蜴は反応した。「短いな」
「ええ、そうでしょう。でも、解読するかぎり、にんげんは百年前後で、それぞれの個体が姿をけしてしまうようなんです」
「どういうことだ」蜥蜴は腕を組んだ。「姿を消す? 変容するとか、成体になるとかでもなくて?」
「ええ」孔雀は眉をひそめ、立てた指を振った。「まさしく〈いなくなる〉ようなんです」
「摩訶不思議だ」
「それを、にんげんは、〈死ぬ〉と表現するようです」孔雀は首を傾げた。「えがかれている様子から察するに、それはとても悲しいことのようです」
蜥蜴の目が、珍しくゆっくりと細められた。
「悲しい?」
「ええ。ほら、嵐で棲みかが壊れてしまったり、お気に入りの味の花がなかったり、羽根の艶がよくなかったりすると、なんとなく沈んだ気持ちになるじゃありませんか。ああいう感じみたいです」
「最初のはともかく、残り二つで悲しくなるのはお前だけだ」
「わたしのファンも悲しみます」しれっとのたまい、蜥蜴の捨てられているゴミを見るような視線もどこ吹く風で、孔雀は蜥蜴に一歩先んじる。喋りながらも、歩みは止めない。曠野からは遠ざかりつつも、空には近づいている。丘の傾斜はきつくなり、草原を揺らす風はすこし強まったようだ。時おり銀に波打つ、足首ほどの高さの草の海を踏みしだき、ふたりぶんの足跡がつづいている。革靴の底と、針のように細いヒール。大股で、揃っている前者と、時おり持ち主がバランスを崩したように乱れている後者。孔雀は首を傾げた。「でも、そういう〈悲しい〉よりも、〈死ぬ〉ってのは、もっともっと悲しいことのようです」
「辻褄が合わない」蜥蜴はふんと鼻を鳴らし、腰に手を当てて、振り返った孔雀を睨みつけた。「蜥蜴、そこでどうしてわたしを睨むんです」「その古文書には矛盾がある。もっと解読をしっかりするべきだな」「解読は梟の仕事ですって」
言いながら、孔雀はとうとう顔をしかめて靴を脱いだ。時躓いて転ぶよりましと考えたらしい。ご丁寧に足の爪まで紅に染めている彼を睥睨し、蜥蜴は腕を組んだ。
「そもそも、〈死ぬ〉ことを、誰が悲しいなんておもったんだ。その〈死ぬ〉誰かは、いなくなるんだろう。いなくなったら、誰がその悲しみを記すんだ」
「のこったにんげんたちです」
孔雀は靴を手に立ち上がりながら、さらりと答えた。
「にんげんがひとり死んで、まわりにいる別のにんげんがそれを悲しむのは、当然のことのようです。まあ、ごくたまに、その死をよろこぶ記述もありますが……」孔雀はちょっと首を傾けて、右の眉を上げた。
「それは、その記述したにんげんが、死んだにんげんを憎んでいたり、仲がよくなかったり、敵であったりする場合のようです」
「そうか。つまり俺はお前が死んだらよろこぶべきなのか」真顔で言い放った蜥蜴のことばを聞き流し、「どうしてにんげんが死ぬのかは、書いてありません。いえ、〈病気〉だとか〈事故〉だとかは書いてありますが……」宙に文字を象るように、指先を踊らせた。「そもそも、にんげんが死ぬのは、当然の原理で、それが何によってもたらされるかの違いだけのようです」
「ほう」蜥蜴は興味深そうに、顎に手を当てた。「それもまた摩訶不思議だな」
脱いだ靴を遊ぶように両手に持って振りながら、「そうですね」と、なにか思うところがあるふうに孔雀は言った。
それきり、ふと沈黙がおりた。普段饒舌な孔雀が口を噤めば、二人の間に会話はなくなる。もともとあまり折り合いはよくない同士なのだ。思い返せばここ五百年ほど、いがみあうことしかしていない。足の裏から伝わる草地の感触を味わいながら、しばらくただ歩いた。
東の丘は、海岸へつづく原を一望できる。もうすこし上がれば、おだやかな海のように淡く広がる地平線が見えるはずだ。遠い昔、……〈にんげん〉がいた頃、大陸の一部だったこの土地は、数万年前の地殻変動で、大方が海に沈んだ陸のなか、生物をせおって海の上に残った、希少な大地である。
自分たちがこの土地に生まれたのははたしていつ頃だったろう、と思うも、古い記憶は茫洋として、時の感覚もおぼろだ。気づいたら、おおくの生物たちと共に、ここにいた。そして、少しずつ繁栄し、共存している。ただ、自分たちには、他の種と違い、世代交代がないことが唯一の差。
にんげんはそうではないという。たった百年。いや、それよりも短く途切れる。想像もつかなかった。百年なんてついこの間。昨日のことのように思いだせる。それだけで、すべてが消えてしまう。ひどく不思議である。
孔雀はどう考えているのだろうか。
そちらの方を盗み見た蜥蜴の視線に気づいているのかいないのか、孔雀は瞬きをして、思いだしたようにまだ喋りはじめた。金の睫毛が上下する。
「そうそう、わたしたち、他人の体を壊すことを〈殺す〉というではありませんか。あれは、にんげんの使っていたことばからきたそうです」にんげんを、にんげんが死に追いやること、と孔雀は言う。
「それは、とてもひどいこと」
俯いて、ぽつりとそう言った。
「……だから気安くわたしのことを殺そうとしないでください蜥蜴」
「そうと知ったならなおさら殺すしかないな」
波打った髪に一歩後ずさりながら、不穏に唱える蜥蜴に両手をあげてみせた。蜥蜴は鼻を鳴らして髪をおさめ、腕を組んだ。一歩前にいた孔雀の横をすり抜けて先に進みながら、先程の、孔雀のことばを反芻した。
死ぬ。
短い音節だ。さほどの衝撃も与えない。
からだが崩れることはよくあることだ。蜥蜴以外の者では、一度大きく肢体を損なうと、もう戻らないことが多い。所謂主食とみなされる花や植物を摂取して、細胞を補完しても、傷口がふさがる程度だ。また、姿ごと変わってしまうものもいる。でも、そんな、存在ごと消えてしまうような――もうどこにもいなくなってしまう、というような、そんなことはけしてない。少なくとも、自分たちがそう捉えることはない。
ああ、いや、似たようなことはあるか。
蜥蜴は孔雀に向き直ると、恐る恐る、というほどではないが、少しためらってからこう言った。
「昔、嵐のせいで、誰かが裂けて砕けてしまったことがあったろう。ああいうものか」
「ああ、そうですねえ」孔雀は鷹揚に頷き、「鹿、だったような気がします」とため息をついた。「あれは不思議な感じでしたねえ。そこらじゅう、春の色した骨をひろいあつめて」結局もとに戻せなくて、南の野に埋めたんでした、と、昔を懐かしむように目を細めた。「そしたらそこから樹が生えましたね」鹿の角みたいな枝の、と指揮者のように指を振る。「たまに行きますよ。すると枝を振って歓迎に葉を落としてくれます」
「追い返そうとしてるんじゃないのか」
「登っても振り落とされませんからね」
彼の樹は葉っぱが銀色で、夏にいくとしゃらしゃらと綺麗な音がするんです、と孔雀は呟いた。ひんやりして、木洩れ日が金色にかがやいて、と、歌うようにつづけた。「話しかけても、返事がかえってくることはないですけど」
俯いた孔雀の横顔に、どこか寂しげな影が見え、蜥蜴はわずかに身じろぎした。途端、突然に孔雀が顔を上げたため、今度は盛大に仰け反った。いつも通りの社交的な微笑で、孔雀は明るく云った。
「でも、もういないって感じじゃないです。話せないけど、なんとなくいるって感じですし。どこかにはいるんです。この世界のどこかには、彼の意識があるって感じるんです」
蜥蜴は口に出して同意こそしなかったが、否定もしなかった。蜥蜴も時たま、その樹のもとへ行く。核の宝石とつながる、遺伝子を秘した細胞が変化した樹のもとへ。姿を変えただけの友人のもとへ。
頂上へ辿りついた。
丘の上は、丈の低い植物が自生する、おだやかな場所だった。淡い銀の釣鐘草がゆれ、葉脈の目立つロゼットの周りに、薄紅と白、萌黄のまざった蔓性の植物がはっていた。その合間を縫い、二人はゆっくりと、突端まで歩いていった。
ゆるやかに登っていく道の終点は、えぐれたように切り立つ、幾層もかさねられた崖の上だった。
多くの時代の積み重なった地層は、たくさんの化石となった骨を埋めている。その上に立って、孔雀はしゃがみ込み、土をいとおしげに撫でた。その下に眠っている太古の生物たちのなごりに、淡く微笑む。
指先を土に触れさせたままで、孔雀は動きを止めた。
「わたしたちにとって、いなくなることは、姿が変わること。その結晶のなかに、まだわたしたちはいる」独り言のように、孔雀は呟いた。「でもにんげんはそうじゃないんですね」
丘を吹きわたる風が、遠くを見ている孔雀の髪をなぶった。ふっと孔雀が立ち上がると、思いの外蜥蜴の視点と近い、金と紅のグラデーションが、色づいた風のように視界をよぎった。
「わたしたちは、死ぬってよくわかりませんからねえ」孔雀は遠い地平線を見るために、ついと背伸びした。「骨は宝石で、細胞は植物で。成分がおんなじなんです」切り揃えた先だけをオペラ・ピンクに染めた金髪が揺れる。瞬きする間ほど覗く白い項にも、濃紅の羽根先が這っていた。「細胞は永遠に尽きず、わたしたちはずっと生きていきます」
「〈生きる〉?」
「〈死ぬ〉の対義語です」孔雀は遠くを見たまま、答えた。「動いて、喋って、笑って、悲しんでるのを、生きてるって云うんです」
きらきらした珪素になったって、ばらばらの細胞ずつになったって、遺伝子とこころはずっとすべてのかけらに受け継がれ、それはずっと生きてるってことになる、と、孔雀は、朝焼けの揺らぐ瞳を眇めた。海と森の混ざり合ったなかに燈る薄紫のひかりが、金に縁取られて水面のようにきらめいた。黒目がちの眼を満たす色彩は、言葉に滲む思いと変わりゆく景色を映して、絶えず色味を変える様を、蜥蜴の、熟れた果実の艶を宿した小さな瞳孔が見つめていた。やはり、目に悪い極彩色だ、なんて取って付けたように、内心呟くが、そのエメラルドとヴァイオレットの波紋が、澄んだ白の中央に浮かぶ、冴え冴えとした蜥蜴の紅の中にも広がっていく気がした。
「にんげんは死ぬことをひどく恐れているようでした」
下を向くと、ぽつりと孔雀が落とした。
「わたしたちは死ぬことはない。ただつづくだけ。にんげんと似た姿をして、他の動物の遺伝子を受け入れて、からだを永遠に変えた」
動物でも植物でも鉱物でもない、不思議な存在。俯いた孔雀の囁く声は、淋しげに空気に溶ける。
「それって、いいことだったんですかねえ」
どれほどの時間が経ったろう。
気づけば、日が大分西に傾いていた。ちらちらと地平線の方がかがやいている。境目をなぞるように薄っすらと見える、海辺だ。遠い海岸線と地平線が溶けあっている。そのささやかな一瞬のきらめきに、二人はしばらく目を奪われていた。
「戻りましょうか」
珍しく、素直に頷く気になった。視線を交わして、同時に踵を返した。そのまま、来た足跡をたどって戻る気にもなれず、崖の縁に沿うように歩きだした。草地に引きずるほどの蜥蜴の髪も、いまは深みのある翡翠に落ち着き、風に煽られて、彼の浅黒い整った顔を隠した。
にこやかに雑談を交わすような間柄ではない。会話をすれば常に喧嘩腰になり、最後は取っ組み合いになって終わる。そんな関係だ。だから、今日も会話がないのは当然のことである。
だのに、なぜだか、どこかもの寂しいような気がした。
それは蜥蜴の気の迷いではなかったようで、孔雀が崖の際を歩きながら、至極唐突に、「あの白い骨に関しては、結局、検査結果を待つしかないでしょうね」と、無粋なほど普段通りの口調で述べた。蜥蜴は、内心少しだけ安堵したことはおくびにも出さず、ついとそっぽを向いた。孔雀はめげずに続ける。「あと気になるのは、あの胸元の植物とおぼしき残骸ですよ。なぜ死んだにんげんがそれを持っているのか、あるいは他のにんげんが握らせたのか――」
「他のにんげんの仕業に決まってんだろ」と冷たく返した蜥蜴に、「そうですよねえ!」と大きく首を縦に振りながら隣に寄る。思わず身を引いた蜥蜴に、孔雀はさらに詰め寄った。たまらず両掌でガードし、「なんでお前そんな距離近いんだ」「これがわたしの標準パーソナルスペースなんです。あなたとは普段意図して離れているだけで」「そうか。できたら今この時も意図して離れろ」すこし距離をおいた孔雀に、蜥蜴は息をつきながら「目的まではわからないがな」と、問われる前に先手を打って言っておいた。「そこはほら、推測ですよ」無駄だった。落ち着かなさそうにネクタイを緩めながら、額に垂れる髪を弄び、孔雀の質問を待つ。
「わたしたちが花をつむのって、なんのためですか」
「食べるためだろ」
「なにか他に」
「お前食べる以外の目的で花つむか?」
孔雀ははたと腕を組んで熟考するそぶりを見せたが、これでしばらく休める、と深く息をつこうとした蜥蜴の眼前に唐突に尖った爪の人差し指を突きつけ、硬直した彼にまくし立てた。「贈りものです! 贈りものにつみます!」眼球保護のためにずいっと孔雀の指をどけながら、蜥蜴は「だから、どうして花を贈るんだ。その理由が知りたいんだろ」
興奮したように贈りものと繰り返していた孔雀が黙った。「ほら見ろ」蜥蜴は腕を組み、「細胞の補充のために食うのと、ひまつぶしに食う以外に、花をつむ理由なんてないだろ?」
「わかりませんよ」孔雀は食い下がった。「にんげんとわたしたちは違うのです。にんげんは、わたしたちの想像もつかないような理由で花をつむかもしれません」
蜥蜴は黙り込んだ。彼らにとって、花は欠けた細胞を埋めるものでしかない。あるいは、植物の生殖器。図鑑で得たのはその程度の認識だ。
なぜ花なのか。
蜥蜴は花を嫌いではない。ねぐらにしている温室にときどき開く、毒々しい色と甘ったるい香りの花。あるいは、葉か茎か見紛うてしまうほどに、らしくない花。自分たちの体が、それらと同じもので構成されていると考えれば、物言わぬ同胞である気すらしてくる。戯れに口に含む花弁はやわらかく、飲み込むと鼻孔の奥に、酩酊するほどの香りが漂う。対し、隣に立つこの孔雀という男は、小振りでまるで飾りのような花を好む。蜜も香りも粒子のようにほのかですぐにほどけて消えてしまう、そんな花を。
なんとなく、だと孔雀は言った。不本意ながら、隣り合って食事を摂らなければならない状況に陥ったときのことを思いだす。孔雀の皿の上に載った、指先ほどの花の群れに、盛大に胞子を飛ばしているさかりのシダを口内に押し込みながら、蜥蜴はつい訊いた。そんな栄養にならなさそうなもの、どうして食べるんだ、と。
孔雀はその一輪を口に含み、それでから答えた。
なんとなく、好ましく思えるから。と。
皿の端から、爪ほどしかないような花びらがこぼれた風景が、記憶にのこっている。それだけのことなのに、ひどく印象的だった。
なぜ、好ましいと思うのだろう。花だけではない。生物に対して。
眼を細めると、睫毛の落とす影があざやかな瞳のいろを沈ませる。骨と花。生と死。想像のつかない出来事が多すぎた。瞼を閉じると、あの白さがまたたいた。……無機質な、骨。
誰かが散った様子をおもいうかべた。誰でもいい、ただある日、理不尽に、ある友人が動かなくなり、やがてのこされた体はばらばらになって消える。鹿のように、彼のこころを宿すものが再生したりはしない。ただそのまま、骨のまま朽ちていく。にんげんとおなじように。
自分の周囲からなにかが永遠に姿を消す。姿だけでなく、すべてを。もう二度と対話することはできない。もう二度とその存在を目にすることはない。生きていないから。死んでいるから。
もしそれが、好ましい、と思えるものだったらどうなるのだろう。好ましい、いや、もっと……愛おしいものであったとしたら。
蜥蜴は知らず、胸を押さえていた。襟元をつかむ。その顔色は褐色から血の気が失せ、濃灰色だった。髪が、濁った色に波打った。肋骨の奥から締めつけるような感覚。
もしかしたら、これが、何かの鍵なのだろうか。遥か昔、遠い祖先であるにんげんたちと、自分たちとの、かすかなつながりなのだろうか。
好ましい、愛おしい、悲しい、という思い。
それが〈死〉という現象に浮かび上がるのだろうか。
俯いた蜥蜴の横顔は硬い。ひどく何かを考え込んでいる眼差しで、丘を下る足元を見つめていた。
孔雀はそんな蜥蜴の様子を黙って見ていると、さらに一歩、崖の縁ぎりぎりまで寄った。ぱらり、と礫の落ちる音がした。彼の髪が、風に吹かれて、なにも無い空中へ流れた。その姿がそのまま、その向こうへ消えてしまいそうだった。
その刺青に覆われたスキニーな脛に、突然革靴の踵がクリーンヒットした。孔雀の上体が大きく傾ぎ、全身の金の鈴飾りが派手に鳴る。危うく転倒するところだったのを、しかし、蜥蜴に乱暴にひっつかまれた背中の尾羽によって回避した。が、直後にあっさりと手を離されたせいで、そのまま後ろに倒れ込み、思いきり草の只中に尻餅をついた。
「なにするんですかあなたは!」
「足元を見ろ」
尻餅をついたまま、孔雀はさきほどまで自分の立っていた位置をみた。小さな緑が見えた。目を凝らせば、ちいさな白も見えた。……花だった。
細くうすい花びらに囲まれた中央に、ひかえめなしべが見える。背がひくく、周りの草に埋もれてしまうように、淡緑の影のなかに咲いていた。
ちいさな姿だった。
でも、生きていた。自分たちとおなじように。
しばらくの間、蜥蜴はその花を見つめていたが、やがて、ぽつりと呟いた。
「悲しいから」
孔雀は驚いたように蜥蜴の方を向いたが、彼はその花から目を離さず、常は冷たく冴えている紅の瞳に、その白い花を映していた。
薄い唇が動く。目は動かない。ただ淡々と、抑えた声音で蜥蜴は続けた。
「愛するものの生が終わったから。終わって、悲しいから。生きたものを供えたんだ」
もうどこにもいない、と信じたくないから、投影した。
花に視線を固定したまま、蜥蜴は呼気にまぎれてしまうほどに小さな声音で囁いた。その姿が、孔雀の宝石のような色合いの瞳に映っていた。
まだ生きているように錯覚したいがために、美しく花を飾る。きっとそうだ。死はおそらく悲しいものなのだろう。にんげんにとって。引き裂かれた同胞の体のように、きっとばらばらになってしまう。そして、遺伝子もこころもない白い骨になる。
この花がいま散るところを目にしたら、自分は。
黙した蜥蜴を、孔雀も口を閉ざして見ていた。座り込んだままの自分からは、彼の表情は逆光になって見えない。ただ、孔雀の足元に垂れている彼の髪が、淡い銀灰色に溶けていた。ほのかに瞬くその色が、何を示すのか、長い付き合いのなかで、孔雀はとうに知っている。
その瞳の中央で、紫と銀のまざりあった光が揺れた。
「きっとそれだけじゃないんです」
悲しいからだけじゃなくて、きっと、そう言いながら、孔雀は花に目を移した。蜥蜴が、彼の方を向いた。紅い瞳が、無防備に瞬いた。孔雀は続ける。
「きれいにしてあげたくて、生きてるときとおんなじようによろこんでほしくて、」蜥蜴とおなじように、小さく、独りごとのように呟く。
「にんげんは死んだにんげんに花を飾ったんだと思います」
その花から目を離さないまま、孔雀は繰り返した。
「よくわからないけど、そう思ったんです」
蜥蜴はなにも言わなかった。
彼は視線を花に戻し、ただそれを見ていた。しゃがみ込んだままの孔雀も、そうしていた。花は時おり、風に吹かれてやわらかくゆれている。そのあたたかな白が、緑のなかでまばゆかった。
のこされたにんげんが、死んだにんげんに花を贈るのは、そのひとの生が愛おしいから。失いたくないものだったのだ。
それほどまでに、愛される生だったのだ。
丘を強く風が吹き抜けた。海のほうからの風が、今にも散ってしまいそうなはかない茎をなぶる。
死を迎えたとき示される愛。
それがただしい答えかは誰にも解らない。けれど、答え合わせする必要ももうないと思った。
黙っていた蜥蜴が、ふと口を開いた。
「きっと、」
囁くようでも、芯の通ったような澄んだ声が聞こえた。
死ぬことは悪いことじゃない。
そう云った蜥蜴の表情を見て、思わず孔雀は目を丸くした。
こんな顔をする蜥蜴を、見たことなんて。
驚いて、半ば髪に隠されたその表情を見ていた孔雀も、やがて、ゆっくりと足元を見る。
蜥蜴の瞳に映っているであろう花が、変わらずゆれている。小さな花。いつまでここで咲いているかはわからない。あるいは、明日散ってしまうかもしれない。彼らにとっても、死は間近だ。
けれども、生きている。
この、生きている姿が、隣の、仲の悪い友人の棘をほどいたのかと思えば、孔雀も知らず、口元が綻ぶ。
死ぬことは悪いことじゃない。
蜥蜴の言葉を反芻する。
優しく細めたエメラルドグリーンの瞳いっぱいに、その花を映し込みながら、孔雀は微笑んで云った。
「わたしもそう思います」