心災
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「えー、人という字は、人と人とが互いに支えあって……」
「うわー、始まった。忍岡の長話」
隣の席に座る大原がたまらん、と言った表情で俺に話しかけてきた。
「『人の字の成り立ち』なんて、もう何回目だろうな大原。それにしても高校生の俺たちがなんで小学生が習う漢字の話を聞かなければならないんだ」
「ああ、かなり熱くなっているな、しかし忍岡のやつどうして同じ話を何度も熱心に話すかね……、熱心……」
と言ったところで、大原はふと口を開けたまま無言になった。
「おい、どうした」
「熱心……。あ、いや。『心』っていう字はどうしてできたのだろうな……、って」
俺は目を細めて忍岡と大原を見る。
「おいおい、お前も忍岡の病気がうつっちまったのか? 『心』の成り立ちなんてどうでもいいだろう」
「いや、でも気になっちまったものはしょうがないだろう」
俺は半ば呆れながら大原の質問に答えようと頭を使ってみた。そして一つの考えが浮かんだ。
「そうだな、形だけ見ると人が元気に頑張っている様子を表しているんじゃないか」
俺はノートに「心」と言う字を書いて大原に見せる。
「両サイドの点が、両手を表し、上の点が頭、長い棒は人の体。つまり人が両手でガッツポーズを取っている姿を表しているんだな」
「お前……その答え適当だろ?」
「そうだよ、所詮漢字の成り立ちなんて適当なもんだろう」
――心災――
「こらっ! 身村、大原、そこで何をしゃべっておるか! 立てこらっ!」
「やべえっ、気づかれた!」
俺と大原は忍岡の声に反射的に立ち上がる。
「人の大切な話を聞かずに別の話をしているとは失礼だと思わないのか、こらっ!」
「そもそも漢字と言うものはだ。こらっ大原、誰が座っていいと言ったこらっ!」
こうして俺と大原は忍岡の長話を三十分間立ったまま聞かされることになった。
「はーっ、午後からついていねえなぁ……」
授業が終わりやっと忍岡の話から解放された俺は教室を出てトイレへと向かった。
ところがこの階のトイレは現在掃除中との事。しょうがないと俺は階段を下へと降り、一年生がいる階へと向かった。
授業中から溜まり始めていた尿を追い出し、鼻歌を歌いながらトイレを出ると、目の前に一人の女の子がいた。
ポニーテールの目が細い小さな女の子は俺の姿を見るや、両手を後ろに回し、なにやら口をパクパクさせている。
「……どうしたの」
俺が声をかけたのをきっかけに、女の子は自分の口の中に溜めていた想いを吐き出した。
「あ、あの……私は一年の持田詩恩と言います。詩集の詩に、恩義の恩と書いて詩恩です。ずっと身村先輩に恋していました。私と付き合ってください!」
頭を思いっきり下げる女の子――詩恩ちゃん。勢い余って縛った髪が前へと垂れる。
「え、えっと……詩恩ちゃんの気持ちは嬉しいけど……」
いきなりの告白なので俺は少々焦っている。
「私じゃダメだと言うんですか!?」
詩恩ちゃんは頭を上げると顔を真っ赤にさせながら俺に迫ってきた。近づいてきたから分かったが、細い目の隙間から見える瞳が潤んでいる。
「先輩は私の愛を受け止めてくれないんですか?」
大胆にも詩恩ちゃんは俺の両肩を掴むと、そっと体をくっつけてきた。先ほどとは違い、なんて大胆なんだこの子は。
しかし俺には詩恩ちゃんを彼女に出来ない理由があった。
「ちょっと、身村。あんた何やっているのよ!」
叫び声がするほうを振り向くと、詩恩ちゃんと同じくポニーテール姿の女子高生が。ただ詩恩ちゃんと違うのは目がパッチリと開かれていて身長は俺(一七五センチメートル)と同じくらいと言うことだ。
彼女の名は中島恵理歌。俺と付き合っている女、つまりは彼女である。恵理歌は眉間に皺を寄せ、俺を睨みつけながらどんどんと近付いてくる」
「え、恵理歌。こ、これは……」
「私以外の女の子といちゃいちゃするなんて……! この浮気者!」
一閃――。恵理歌の右フックが俺の右頬を激しく、そして的確に捉えた。そのまま俺の顔を廊下へと振り下ろす。俺は大きな音を廊下中に響かせながら倒れた。その音を聞いた一年生達がなんだなんだ、と俺たちの周りに集まってくる。
「馬鹿っ、死んじゃえっ!」
恵理歌は右拳を撫でながら俺に背を向けると、階段のほうへと去っていった。
「いてて……、恵理歌のやつ……」
殴られた頬に手を当てながら俺は上体を起こした。そして詩恩ちゃんのほうを見る。彼女は両手を目に当てて震えている。
「み、身村先輩……、彼女がいたんですね……。ふええええぇーん」
詩恩ちゃんは大声を上げて泣きはじめた。
「あ、あの……その……」
なんとかして詩恩ちゃんを泣き止ませようとなだめる俺に、周囲から非難の声が聞こえてくる。
「ひどーい、詩恩ちゃんが可愛そう……」
「彼女がいながら持田を誑かすなんて最低な先輩だな」
「もっと他に犠牲になっている女の子がいるかもしれない……」
えーっ、俺が非難される状況かー!?
しかし文句を言うわけにも逃げるわけにもいかず、完全アウェーの中俺に出来る唯一のことは詩恩ちゃんを泣き止ませることだった……。
「……とんだ災難だったな」
授業が終わり部活動の時間となってもまだ恵理歌に殴られた右頬が痛い。ドリブル中、バスケットボールが床に着くと同時に頬がズキンと痛み、練習に集中できない。
「いよーっ、色男。聞いたぞ、なんでも恵理歌ちゃんという彼女がありながら、可愛い一年生を泣かせたと言うじゃないかー」
大原が満面の笑みを浮かべて俺にからみつく。
「別に俺が泣かせたわけじゃないよ」
俺が泣かせたと言うのだろうか……。いやあれは向こうが勝手に泣いたのであって、決して俺のせいではない。
「恵理歌ちゃん、かんかんに怒っていたなー。あれじゃあ当分機嫌直らないかもよー」
これから数日機嫌を損ねたあの恵理歌と顔を合わせることになるのか、と考えると俺は背筋が冷たくなった。
「おーい、お前ら集まれー!」
バスケットボール部の顧問である川志コーチが体育館中に散らばっている俺たちに声をかけた。茶色いサングラスをかけ、鼻の下に髭を生やしている。
「お前ら、来週の試合勝ちたいかー!」
「勝ちたいです!」
授業は不真面目だが、バスケットボールは真剣に取り組んできた。試合には絶対勝ちたい。
「よーし、それじゃあ今日は特別練習をするぞ、お前らに足りないものを鍛えるぞー」
コーチはバックの中から巻物のようなものを取り出すとそれを開いて俺たちに見せた。そこには「心」と書いてあった。
「今日はお前達の心を鍛える! お前達に足りないのは心だ!」
「心!?」
誰かの問いかけにコーチは大きくうなずいた。
「そうだ、心だ。バスケの技術や体力やチームワークもバスケの試合に必要だが、それと同じくらい必要なのは心だ。点が互いに競り合っているときや、勝負所の時など心が強いほうが、勝つ! 心は技術や体力の弱さを補ってくれるものだ。心は技術に勝つと言うことだ」
「何か数十年前のどこかの国のような話だな」
大原がぼそりと小声で呟く。
「逆に心が弱いチームは本来の力を発揮できずに試合に負けてしまうであろう、と言うわけで今日はこれからお前らの心を鍛える」
「心を鍛えるってどうやって鍛えるんですか?」
「心を鍛えるということは、体を限界まで練習してもさらに練習するということだ。よってこれからお前らは学校の周りを二十周走ってもらうぞ!」
何ーっ、いつものメニューの後で校外二十周ー!?
こうして俺たちは文句を言いながらも校外二十周を走りきった。なんだか心を鍛えるというより、スタミナを鍛えるという練習だったような気がする……。
「よーし、これで心のほうはばっちりだな」
コーチは疲れきって座り込んでいる俺たちを見て満足そうに頷いた。
「今日はついていないなー」
学校の前を通る国道を歩きながら俺は大原に呟いた。体育館、校外と走り回った足が熱を持っている。
「そうだな、忍岡には立たされ、恵理歌ちゃんには殴られ、詩恩ちゃんと言う後輩には泣かれて、川志コーチには校外二十周を追加され……」
と言ったところで、大原はふと口を開けたまま無言になった。
「おい、どうした」
「……いや、忍岡、恵理歌、詩恩、川志……。みんな名前に『心』が付いているな、と思って」
「だから何だよ?」
大原は俺を哀れむような目で見つめて。
「お前、『心』に呪われているんじゃないのか?」
「はぁ?」
「心」に呪われている? そんな馬鹿なことあるか。
「だって俺と『心』の話をした後からその災難は始まったのだろ? お前に災いを振りまいた奴の名前にはみんな『心』がついているし、川志コーチの校外二十周は『心』を鍛えるための練習だし……」
「ぐ、偶然だろ。そんなの馬鹿馬鹿しい」
俺は冷静を装うため前を向いたまま呟く。
「まあ、『病は気から』と言う言葉もあるし、気にしないのが一番かもな」
「『病は気から』は関係ないだろ」
「まあ、要は俺の話を信じるも信じないも気持ちしだいだ、と言うことだ。気になるんだったら『心』のついているものは避けたほうがいいと思うぜ。じゃーなー」
そう言うと、大原は手を振って商店街へと続く道へと歩き出した。俺はこのまま国道を歩いて帰る。
「おう、また明日な」
大原の姿が見えなくなると、俺は彼が消えた路地に毒づいて歩き出した。
「大原のやつ……、嫌なことを言いやがって」
辺りに「心」が付くものがないか俺は辺りを見回す。
暫く歩くと、歩道に人だかりが出来ていた。彼らの視線は白いワゴンの上に立って話している人物に向けられていた。
「私が、議員になった暁には……」
話している内容を聞くにおそらく選挙演説だろう。車の上で話している人など選挙の人以外に見たことがない。
「なにとぞ私、英田悠、英田悠を……」
選挙カーに書かれた候補者の名前を見て、俺は足を止めた。「英田悠」――「心」がついている。
すぐにこの場を離れようと、俺は演説に聞き入る人を掻き分けて歩き出す。くそっ、人が多すぎて先へ進めないや。どれだけ人気があるんだ、この選挙の人は。
「私と、この町の人々が『心』を一つにして……。『心』のこもった政治を……」
おいおい、この選挙の人「心」を連発しているぞ。
人ごみからなんとか脱出し、走り出した俺の視界に、自転車に乗った人物が飛び込んできた。俺はそのまま自転車に激突し、倒れた。
「いてて……」
気が付くと、俺の頭に冷たいものが乗っている。手にとってそれを見た。灰色くて細長いものだ。
「これは……蕎麦か!?」
辺りを見回すと辺り一面、蕎麦と割れた陶器のかけら(おそらく『そばちょこ』と『めんつゆ入れ』だろう)が散らばっていた。ふと俺の右手の側に落ちている。かけらが目に入った。「一息庵」と書かれている。店の名前だろうか、それにしてもまた「心」……。
「くそっ、このせっかく俺が心を込めて作った蕎麦が台無しじゃないか……」
店の人が歩道に散らばった蕎麦を拾いながら肩を落とす。
「すいません、この蕎麦俺が弁償します」
こちらから「弁償」という言葉を出したほうが面倒なことに巻き込まれない、と俺は考えた。
「いや、君は弁償しなくていいよ。蕎麦はまた俺が心を込めて作ればいいことだし、その代わり……」
「その代わり?」
どうやら弁償は免れた、と俺はほっとした。どうやら「一息庵」での災難は頭に蕎麦を被っただけで終りそうだ。
「この蕎麦を注文した人に事情を話してくれないか。蕎麦は今作っていますので、もう暫くお待ちください、って。この道を左へ曲がってすぐある峰楽寺というお寺だから」
「ああ、そういうことならお引き受けしますよ。どうもすいませんでした」
と、俺は頭を下げると逃げるように店の人がいる寺へと向かった。
「なるほど、君と蕎麦屋がぶつかってしまったと言う訳だね……」
「は、はい。そうです」
額が前に出ていて眼光が鋭い峰楽寺住職の言葉に玄関に立った俺は小さく答える。
「と言うわけなので、蕎麦は暫く来ません。俺はこれで失礼します」
「まあ、学生よ待ちたまえ。蕎麦が来るまでまだ時間があるのだろう」
「ええそうですが……」
しかし蕎麦を食うのは住職であって俺ではない。それに俺はさっさとこの寺を出て行きたかった。なぜなら俺は見てしまったからだ。玄関の表札に住職の名前であろう「浅井忠楽」という文字が書かれているのを。
「君も知ってのとおりこの寺は禅宗だ。どうだい、蕎麦が来るまで座禅をやってみないか?」
「ざ、座禅ですか……!?」
「座禅をして心を落ち着かせれば君も蕎麦屋とぶつかるような粗相はするまい」
そう言って住職は微笑む。しかし、目は笑ってはいない。
「し、しかし家族が……」
「いいからするのだ!」
住職は俺の腕を掴み睨みつける。この人ひょっとして蕎麦が来なかったことを怒っているのか? 腕の力がものすごく強いぞ。俺は抵抗むなしく寺の中へと引きずり込まれた。
こうして俺は半ば強制的に座禅をすることになった。葉が赤や黄色に染まった紅葉や楓が賑わう庭を目の前に俺は座る。
「目を閉じてゆっくりと、心を落ち着かせるのだ。心を乱してはならぬ、動いてはならぬぞ」
住職は平ぺったい棒の様なものを持ちながら俺の後ろを歩き回る。動いたら一体何をされるのだろう……。
三分ぐらい経っただろうか。ふいに首の辺りが痒くなった。季節はずれの蚊が俺の血を吸ったのだろうか。しかし手で掻くわけにもいかないしな……。
首の痒みと掻きたい衝動に耐えている俺に住職が声をかける。
「おぬし、心を乱しおったな? 顔が歪みだしたぞ……」
た、ただ顔を動かしただけでもだめですか住職?
俺の肩に平ぺったい棒が乗る。
「喝ーっ!!」
激しい住職の叫び声とともに、俺の左肩に激痛が走った。
「いてぇーっ!!」
俺の声とともに、紅葉の葉が一枚落ちて行ったかどうかは知らない……。
「や、やっと家だ……」
まだ痛みの残る左肩を抑えながら、俺は玄関のドアノブに手をかけた。蕎麦が到着するまでに十回も住職に肩をあの平ぺったい棒で叩かれた。と言うか蕎麦来るまで時間かかりすぎじゃないか?
「あ、お兄ちゃんお帰りー。遅かったね。晩ご飯ちょうどできたところだよ」
俺を迎えてくれたのは妹の梓だ。父親ではなく母親に似たためか背が小さい。ショートな髪を靡かせながらぴょんぴょんと俺に飛びついてくる姿がなんともかわいらしい。共働きで帰りが遅い両親に代わっていつも夕食を作ってくれる。
「そうか、ちょうどよかったな」
もう災難は起こらないだろう、と俺は考えながらリビングへと入った。俺の家族に名前に「心」がついている者など一人もいないからだ。
「今日は餃子とシュウマイと、小籠包 (しょうろんぽう)だよー」
今日は散々な目に遭いまくったせいか腹が空ききっていた。俺は椅子に座るやすぐに箸をとり、食卓に並べられたおかずたちを口にした。
おかずを七割くらい食べた頃だろうか、梓が白くて冷たいものが入った器を俺の目の前においてくれた。
「おい、梓。これはなんだい?」
「デザート。杏仁豆腐だよー」
かわいらしい笑顔で梓は答える。
「へぇーデザートもついているのか。贅沢だなー」
「でしょー、これだけのメニューが揃っているなんて、中華料理屋さんの『点心』みたいでしょー」
てん……。
俺の口の中に半分形として残っていた餃子がそのまま喉を通り胃の中へと落ちていく。
「おい、梓……。今なんて言った?」
「え、『点心』だよー。『点心』」
点……心……。
俺は箸を置くと力なく立ち上がった。
「ごちそうさま、もういいや」
「え、お兄ちゃんもうお腹一杯なの?」
梓が不安そうに俺を見上げる。
「ああ、もう充分食べた。もうお腹一杯だ」
「じゃあじゃあ、お兄ちゃんの杏仁豆腐私が食べていい?」
俺が大丈夫そうだと知るや、梓は途端に笑顔になった。
「ああ、食べていいよ」
「やったー、お兄ちゃんありがとー」
梓のご機嫌な声を背に、俺はリビングを後にした。おそらくもう間に合わないだろう。しかし、全部食べてしまうよりは被害は少ないはずだ。
そして俺が予期していたものより早くそれはやってきた。激しく、内臓をえぐられたような激痛が俺を襲った。
「く……、強えよ点心……」
柱に寄りかかるものの立っていられない。そのまま腹を押さえて座り込む。
「どうしたの? お兄ちゃん、大丈夫!?」
杏仁豆腐を片手に梓が俺に駆け寄る。そして俺の顔を見るや、はっと、両手を口に当てた。杏仁豆腐の器が、音を立てて床に転がる。
「大変だよ、お兄ちゃん。変な汗出ているよ。これはもう救急車呼んだほうがいいよ」
「ああ、そうしてくれ……ないか……」
十分後――、救急車のけたたましいサイレンの音が俺の家の前で止まった。隊員がてきぱきと俺を車の中へと入れる。
「お兄ちゃん、私もいるから大丈夫だよ」
担架に運ばれる俺の右手を梓が力強く握り閉める。
大きくドアが閉まる音とともに、救急車は走り出した。
「近くの大学病院が受け入れてくれるそうです!」
助手席の隊員が、俺の側にいる隊員に話しかける。
「よかったね、あの大学病院ならお医者さんも設備もしっかりしているから、すぐに直るよ。お兄ちゃん安心して」
大学病院か……。この近くの大学病院って……!!
「うわあああああぁーっ! 嫌だー! 降ろせー!!」
俺は上体を起こすと激しく叫んだ。
「身村さーん、落ち着いてください、大丈夫ですからー」
隊員が俺の肩をベッドに押さえつける
「嫌だー、帰るー! 助けてくれー!!」
俺の叫び声を乗せた救急車は何事も無く「政応大学付属病院」の敷地内へと入っていった。