プロローグ
生まれた時から世界は灰色だった。
それは空の色でも、土の色でもない。
人の内側に宿る、見えない何かの色だった。
父も母も、村人たちも、往来を行く旅人も、祈りを捧げる神官も。
皆それぞれ顔立ちは違い、声も違い、性格も違っていたのに、その奥底にあるものだけは、彼の目には等しく灰色に映っていた。
幼い彼には、それが異常なのかどうかも分からなかった。
そもそも、自分に見えているものが他人にも見えているのかすら知らなかった。
ただ、それはずっとそこにあった。
朝、目を覚ました時から。
母に抱き上げられた時から。
父に高く持ち上げられて笑った時から。
彼は、とある郊外の村に生まれた。
王都からは遠く、街道からもやや外れた、小さな農村だった。
麦畑と果樹園があり、家々の屋根は古びているが手入れが行き届き、季節ごとに風の匂いが変わる。
春には花が咲き、夏には土が熱を持ち、秋には収穫祭があり、冬には皆で火を囲んだ。
彼の家は村の外れにあった。
父は村で診療所を営んでいた。大きな病は診られなくとも、熱や怪我、薬草の調合には詳しく、近隣の村からも人が来ることがあった。
母は穏やかな人で、読み書きと算術を教えるのが上手かった。村の子どもが何人か家に集まっては、簡単な勉強を教わっていた。
二人は彼を愛していた。
そのことは、幼い彼にもはっきり分かった。
灰色に見えても、それが偽物だと思ったことはない。
母が髪を撫でる手は優しかったし、父が仕事の合間に抱き上げてくれる腕は温かかった。
忙しい日でも食卓には必ず三人分の皿が並び、眠る前には母が本を読んでくれた。
彼もまた、二人を愛していた。
朝、母の声で目を覚まし、父の仕事道具を勝手にいじって叱られ、夕方になれば三人で食卓を囲む。
そんな日々は、彼にとって確かに幸福だった。
だからこそ、自分だけが見ている灰色を、わざわざ口に出そうとは思わなかった。
言ったところで、どうにもならない気がした。
それに、たとえ人の内に見えるものが灰色でも、父と母が自分を大切にしていることに変わりはなかったからだ。
彼は賢い子どもだった。
文字を覚えるのが早く、数字にも強かった。
一度聞いた話をほとんど忘れず、父の薬草棚の並びまで正確に記憶していた。
母が読み聞かせた本の内容も、翌日にはそのまま語ってみせることができた。
五つになる頃には村の子どもたちの遊びについていけなくなっていた。
鬼ごっこや木登りが嫌いだったわけではない。
ただ、相手がどこへ走るか、何をしようとしているか、その一歩手前で分かってしまうことが多く、遊びが遊びにならないことがあった。
それでも彼は嫌われなかった。
むしろ反対だった。
村の大人たちは彼を神童ともてはやした。
この子はすごい、将来は王都の学院にだって入れるかもしれない、きっと村の誇りになる。
そんな言葉を、彼は何度も聞いた。
少し大きくなると、村人たちは何かあるたび彼に意見を求めるようになった。
川沿いの畑に何を植えるべきか。
隣村へ売る果実の順番をどうするべきか。
ちょっとした揉め事の仲裁まで、年端もいかぬ子どもに聞いてくることもあった。
彼はそれにきちんと答えた。
求められた通りに考え、相手が何を望んでいるかを察して、できるだけ波風が立たない答えを返した。
大人たちは感心した。
同年代の子どもたちは半ば憧れ、半ば遠巻きに見た。
彼は村で愛された。
親にも、村人にも。
彼自身も、それを悪いものだとは思わなかった。
皆の役に立ち、期待され、笑いかけられる日々は、それなりに楽しかった。
祭りの日には年相応にはしゃいだし、収穫の後に皆で食べる焼き菓子も好きだった。
雨の日に父の診療所で薬草を選り分ける時間も、母と一緒に本を読む夜も、何だかんだ気に入っていた。
感情がないわけではなかった。
むしろ、彼はよく笑ったし、よく考え、よく退屈もした。
ただ、その楽しさの奥底には、いつも消えない違和感があった。
皆、灰色なのだ。
父も、母も、優しい村人たちも。
彼を褒めてくれる者も、羨望を向ける者も、面白がる者も。
その奥にあるものは、やはり灰色だった。
それが悪いとは思わない。
そういうものなのだろうとも思う。
けれど、時々考えてしまうことがあった。
自分と本当に並んで歩けるものは、どこにいるのだろう。
自分が見ているこの景色を、同じように見ることのできる存在はいるのだろうか。
あるいは、灰色ではない何かが、この世界のどこかにあるのだろうか。
もちろん、そんなことを誰にも言わなかった。
もし口にしたところで、母は心配するだけだろう。
父は少し黙ってから、難しい顔をするに違いない。
村人たちは理解できず、それでも天才らしい悩みだと勝手に納得するかもしれない。
それでは意味がなかった。
彼が欲しかったのは、慰めでも賞賛でもない。
理解だった。
自分の見ているものを、当然のこととして共有できる誰か。
灰色の世界の中で、ただ一つでも違う色を持つ何か。
それがあるなら、きっと自分はそれに気づける。
なぜか、そう確信していた。
だから彼は待っていた。
焦れていたわけではない。
ただ、日々の暮らしを楽しみながら、心のどこかでずっと探していた。
春が過ぎ、夏が来て、収穫祭が終わり、雪が村を覆う。
また春が来る。
その年の春、村に新しい家族が越してきた。
街道沿いで商いをしていたが事情があって流れてきたらしい、という曖昧な話が大人たちの間で広がった。
父親がいるのか、母親がいるのか、親類なのか、そうした細かなことはすぐに噂に埋もれた。
田舎の村では珍しいことではない。
人は来て、住み着くこともあれば、また去っていくこともある。
彼は、その話を夕食の席で聞いた。
母が、今度うちにも挨拶に来るかもしれないわね、と言った。
父は、子どもがいるなら年も近いかもしれないな、と答えた。
彼は軽くうなずいたが、特に興味は持たなかった。
人が増えること自体は珍しくない。
どうせまた、灰色の誰かが来るのだろうと思っていた。
だが、その数日後。
村の共同井戸の近くで、彼は初めてその少年を見た。
黒髪だった。
まだ幼い。
自分と同じくらいか、少し下か。
白い肌に、整った顔立ち。
けれど印象的だったのは容姿ではない。
彼の目には、その少年だけが、灰色ではなかった。
黒だった。
夜より深く、底の知れない黒。
それなのに濁っていない。重く、美しく、ひどく静かな色だった。
墨を垂らしたような黒ではない。
奈落そのものが形を取って、ただそこに立っているかのような、圧倒的な色。
息が止まった。
本当に、ほんの一瞬、自分が何を見ているのか分からなかった。
見間違いかと思った。
目をこすろうとして、できなかった。
少年は井戸のそばに立ち、村の女たちに何か言われていた。
困ったようにも見えるし、無表情にも見える。
ただ、その身にまとっている黒だけが、周囲のすべてを圧していた。
父の灰色も、母の灰色も。
村人たちの灰色も。
自分がこれまで見てきたすべてが、さらに色褪せた。
違う。
あれは違う。
自分の心のどこかが、ひどく静かに、けれど確かに震えた。
探していた。
ずっと探していたのだ。
言葉にできないまま、諦めたふりをしながら、心の奥ではずっと待っていた。
灰色ではないものを。
自分の理解者になりうる何かを。
少年がふと顔を上げた。
こちらを見る。
目が合った、その瞬間。
背筋に走ったのは恐怖ではなかった。
歓喜ですらない。
もっと根源的で、抗いようのない衝撃だった。
この世界に、いた。
その確信だけが、雷のように全身を貫いた。
村のざわめきも、春の風も、井戸の軋む音も、全部遠くなる。
彼の視界にはもう、黒髪の少年しか映っていなかった。
灰色の世界の中で、ただ一つ。
あまりにも美しく、あまりにも異質な黒が、そこにあった。
彼は生まれて初めて、自分の鼓動が速くなるのを感じた。




