3話 ラディリアスの噂
「ど、どうしたのかしらっ?」
「ソニアの声だわっ……。奥様、お話の途中で申し訳ないのですが、念のために様子を確認して参ります」
「私も一緒に行きます」
使用人のあいだで何かトラブルが起こったのなら、屋敷の責任者である女主人として放置するわけにはいかない。居合わせたのならなおさらだ。
それにソニアは明るく聡明なメイドで、怒鳴るなんて想像もできない子。
だからこそ、私とメリダさんは何事かと慌てながら、廊下の先の角を曲がったところにある食品保管庫へと急ぎ足で向かった。
「面白くもなんともないわ」
「いや、本当にこの目で見たんだって。別に嘘をついてるわけじゃ――」
「公爵様に限って、そんなの有り得ない! ここでの仕事は終わったでしょ。そんなくだらない噂を聞くほど私も暇じゃないの。出て行って!」
怒髪天を衝かんとばかりに怒る、彼女の一際大きな怒鳴り声が聞こえた。
その直後、駆けるような足音が廊下に響いた。恐らく、ソニアを怒らせた人物の足音だろう。
公爵様という言葉が非常に気になり、ソニアを怒らせたその人物を確認しようと私は足を速める。
だがその人物は、私たちが廊下の角を曲がった時には、すでに姿をくらましていた。
「行ってしまったようです。奥様、後を追わせましょうか?」
「いいえ。まずはソニアから話を聴き取りましょう。彼女に訊けば、去った人物が誰かも分かります」
メリダさんは私のこの意見に同意するように頷いた。そんな彼女に私も一度深い頷きを返す。
そして、少し扉が開いたままの食材管理庫へ彼女とともに足を踏み入れた。
「お、奥様! 侍女長様!」
悔しそうに歯を食いしばっていたソニアは、私たちの入室に気づきその表情を驚き顔に変えた。
「ソニア、さきほどあなたの声が聞こえたのだけれど、いったい何があったのかしら?」
単刀直入に訊ねる。すると、彼女は再び悔しさを滲ませた表情になり口を開いた。
「大声を出し申し訳ございません。公爵様の不名誉な噂を聞かされ、つい怒りを制御できませんでした」
「不名誉な噂……? 誰からどんな話を聞いたのか、詳しく教えてくれる?」
リアスの不名誉な噂という言葉に、思わず不愉快が込み上げる。それと同時に、大好きな夫が悪く言われていたと知り胸がズキンと痛んだ。
そんな私の心情を悟ったのか、感情の機微に聡いソニアは私の問いかけに少し気まずそうに目を伏せる。
だが、彼女は勇気を出して打ち明けた。
「私にその話をしてきたのは、この食材保管庫に食材を運んでくる業者のウィリーという青年です」
「まさかウィリーが……?」
きっと顔見知りだったのだろう。メリダさんにとっては衝撃だったのか、彼女は驚きの声を上げた。
「彼に先ほど教えられたのです。公爵様が、その……」
そこまで言うと、ソニアは急に喋れなくなったかのように、続きを言おうとしては口を閉ざすを繰り返した。
「大丈夫よ。ゆっくりでいいから教えてくれる?」
リアスに関することなのだ。何が何でも聞き逃すわけにはいかない。不名誉な噂だというのなら、なおさらだ。
私は彼女を追い詰めないよう意識し、リアスの噂を聞き出す作戦に出た。
すると彼女は少し安心したのか、おずおずと言葉を紡いだ。
「実は、公爵様が……メイーナ通りにいらしたと――」
「メイーナ通りですって!?」
ソニアが言い切る前に、メリダさんがザっと顔を青ざめさせて絶叫した。
その隣にいた私も、冷静を貫こうとしていたのだが、さすがに顔を強張らせてしまった。
――嘘でしょう……。
急激に体温が下がるのを感じる。
メイーナ通りなんて、リアスとはまるで縁もゆかりも無さそうな場所。行ったことがあるなんて話を聞いたことは無いし、行ったと思ったことすら無い。
メイーナ通り――そこはこの国で最大規模の歓楽街という建前のもと、愛人探しのために男性が集まる場所なのだ。
メイーナ通りと言えば、皆がそのイメージを思い浮かべるだろう。
「ウィリーという青年が、そのように言っていたの?」
「はい。ですが公爵様に限って有り得ないと腹が立ち、つい声を荒らげてしまいました」
そんなソニアの説明を聞き、メリダさんが我に返った様子で声をかけてきた。
「奥様。絶対にラディリアス様はそのような場所に行かれる方ではありません。行ったとしても、仕事目的以外では有り得ないでしょう」
「そう、よね……。ありがとう、メリダさん。……ソニア、教えてくれて助かったわ。大丈夫だから心配しないでちょうだいね」
不安そうな彼女にそう声をかけながらも、私の心には一つの気がかりが生じていた。
絶対に絶対に、その噂は嘘だと思う。
……思いたいのだけれど、あんなハンサムを他の誰かと見間違えるとも思えないのだ。
それに、最近のリアスは外出機会が増えるに合わせて、まるで私の目を避けるかのように出かけることもあった。
――でも……いや、あり得ないわ。
しかし、確実に彼ではないという証拠はない。
なら、ありえないということを確認した方が、スッキリするのではないだろうか。
彼のことは信じている。というよりも信じたい。
だからこそ、私は彼の噂が嘘だと確かめるため、あえてメイーナ通りに行くことに決めるのだった。