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勇人と彩人に今朝の出来事を話そうと、朝ご飯を食べ終えると昨日の空き家へ向かった。そこに人はおらず、幸生は川沿いを歩いてみたり方々を彷徨ってみたりして二人の姿を探した。しかし、目的の姿は片割れすら見当たらない。颯人なら知っているかと、牛舎を覗いたがいなかった。今朝の様子では、寝込んでしまったのかもしれない。念のために、スイカ畑に行くと乾司と隆司がいた。
「おう、今朝はえらいもん見ちまったそうじゃねえか」
隆司がよう気に話しかけてきた。
「朝っぱらから、颯人がゲロ吐きながら帰って来やがった。真っ青な顔で、おめぇの心配をしていたぞ。幸生くんも具合を悪くしているかもしれないってな」
そんな颯人の様子が目に浮かぶようだ。
「お前さんは、大丈夫かな。思い詰めた顔をしておる」
乾司に言われて、幸生は自分の表情筋が強張っていることに気が付いた。意識しても、頬の筋肉は動いてくれなかった。
「尚人さん……包丁で刺された跡がありました。それに俺、昨日、戒人さんが尚人さんのこと追いかけているのを見たんです」
この老人はどんな反応をしてくれるのか。二人は、常識のある
気のいいおじいちゃんだ。二人なら幸生が見た事実に沿う意見をくれるのではと思った。
どちらも朗らかな表情を崩さなかった。乾司の細めた目は、黒い線となりどんな感情が含まれているのかわからない。
「幸生。その言い方だと、尚人がまるで誰かに殺されたって言っているようじゃないか」
「じゃあ、乾司さんは、尚人さんが自分で自分の腹を刺したって言うんですか」
「その言い方もいかん。人によっては、お前さんに殺意を向けてしまうぞ」
幸生は、口をつぐんだ。
「郷に入れば郷に従え。尚人の死は、不幸な事故じゃ。お前さんは、なんも疑問に思うことはない」
意志を潰された幸生は、拳を震わせた。どこまでこの老人が知っているのかはわからない。それでも、事実を曲げる側にいることは確かだ。この二人のことは信じていた。裏切られた気分になり、幸生は無言で走り去った。
結局、この日は勇人と彩人に会えなかった。唯一、本音をぶつけられる相手だというのに。一番ぶつけたい時に会えなかったストレスでどうにかなってしまいそうだ。あの女は、尚人が死んだショックで自室に閉じこもっているらしい。憎い顔を見なくていいのは助かるが、千春が「ママは? ママは?」としつこく聞いてくるものだから、声を荒げてしまい泣かせてしまった。
「千春ちゃんに八つ当たりすることないでしょう? 今日の幸生なんだか疲れているみたい。早く休んだ方がいいよ」
泣いている千春は、祥子に任せて幸生は早々と部屋へ戻った。
ここへ来た初日のような閉塞感だった。距離が縮まって来たはずの人たちが、得体の知れない人に変わってしまう。ここでは、殺人が暗黙のうちに行われる。それを咎める人はいない。恐ろしい事実だった。
早く起きたというのに、眠気はやってこない。ベッドの上で、手足を投げ出してぼーっとしていた。頭の中がぱんぱんで、思考することができない。八方ふさがりなこの感じは、両親が死んだ時と似ていた。
扉がノックされた。祥子だろうか。剣呑に開く扉を見ていると、入ってきた人物に心臓が鷲掴みにされる感覚がした。
「幸生くん。少しいいですか?」
返事がない幸生に、戒人は心配そうな表情をした。
「気分は、大丈夫ですか? 颯人はすっかり参ってしまったようです」
戒人はいつも通り優しい。今朝、真っ赤に染まっていた手は、すっかり綺麗になっている。こんな風に、何度もこの人はなかったこととして振る舞ってきたのだろうか。今なら、この人が両親を殺したとしても何の疑問も持たない。
郷に入れば郷に従えなんて、謙虚な振る舞い幸生にはできそうになかった。
幸生は、戒人に牙をむいた。
「昨日、尚人さんのこと追いかけていましたよね」
「ええ。尚人は精神状態がよくありませんでした。そのため、あまり一人で行動しないよう説得をしようとしていました。逃げられてしまいお話しできませんでしたがね」
「戒人さんが怖かったんじゃないですか?」
「立場上、口やかましくなってしまいがちなのは事実です。そこまで怖がられているとなると、私自身の対応に何か問題があったのかもしれません」
戒人は、どこか寂しそうに見えた。そんな様子に、幸生はもう騙されない。
「戒人さんに殺されるんじゃないかって、怖かったんじゃないですか?」
大事な言葉を付け足す。
戒人は、動じていないようだった。
「そういった被害妄想をしていた可能性はあります。挙句、豚小屋に迷い込んでパニックになり死んでしまったようです」
「それ、本気で言っています?」
幸生は、神経を疑うといった目を戒人に向けた。戒人は、小首を傾げた。
「ええ、本気ですよ。なにか気にかかることでもありましたか?」
戒人は、幸生が引き返すポイントを用意してくれたのかもしれない。今ならまだ、これまで通りの関係でいることができる。気づかない振りをしていれば、兄のように頼れる存在でい続けてくれるだろう。少なくとも、幸生を傷つけることはない。そんな安全な道を選べるほど、幸生は大人ではなかった。
「尚人さんには、包丁で刺された跡があった。腕だって、切り取られていた」
目に焼き付いて離れないその光景を、戒人が見たことは間違えがない。現に戒人から、誤魔化すような言葉は出てこなかった。戒人は黙って、幸生が思いを吐き出し終わるのを待っているようだ。その期待に答えて幸生は言った。
「戒人さんは、人殺しだ」
戒人に誰も突きつけない罪状を叩きつけた。戒人の顔から感情が消えた。それでも、なお戒人は優しそうな雰囲気をまとっている。勇人が、戒人は静かに怒る人だと言っていた。幸生は、戒人を怒らせてしまったのかもしれない。幸生の脳裏に、今朝見た死体が浮かぶ。自分もあんな無残ななれの果てにされてしまうのだろうか。この男に。
逃げなければと思った。それなのに、身体が動かない。
戒人は、硬直している幸生に、静かに一つの質問をした。
「私を、殺したいですか?」
それは、優しい声音に似合わない残酷な質問だった。その質問一つで、戒人が犯人だと確定してしまう。
幸生は、人殺しを前に腹を据えた。
「俺は、人を殺したりなんてしない」
幸生なりに皮肉を込めて、戒人に挑んだつもりだった。それなのに、戒人は幸生の言葉に表情を和らげた。
「そうですね。幸生くんは、手を汚すようなことはしてはいけません。私が言えたことではありませんがね。それでは、私は帰りますので、安心して休んでください。おやすみなさい」
戒人は、穏やかな笑みを残して、帰って行った。
幸生は、戒人の考えていることがまるでわからなかった。人殺しだと暴かれたというのに、なぜあんなにものん気な雰囲気を出せるのか。戒人が悪い奴には、違いない。そうわかっていても、幸生は調子が狂うくらい戒人を憎みきれなかった。