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昨日から引っかかる出来事が消化できないせいか、妙に早く幸生は目が覚めた。隣には、いつもいるはずの千春の姿はない。昨晩、千春はママと寝ると言って聞かなかった。千春の言葉に、女は喜んでいた。それでも、幸生が頑なにダメだというので、女は身を引いて幸生と寝るよう説得に加わってくれた。それでも千春は納得せず、最終的に、千春は幸生に対してヘソを曲げてしまい、祥子が千春と一緒に寝るということで収まった。
久しぶりに迎えた一人の朝は、最悪な部類の目覚めだった。変に目の奥が冴えていて、二度寝もできなさそうだ。かといって、このままゴロゴロしていても余計なことを考えてしま気分が晴れない。幸生は、早朝の散歩に出ることにした。
外は、白みがかり、太陽に熱されていない空気はいつもより透明な新鮮さを増しているようだ。木々は、寝ぼけているようでいつもの色を発揮できていない。今なら、誰の目もない。あの山道に続く森を抜けられるのでは。勇人は、許可がないと迷子になると言っていた。父の方位磁石を持ってくるべきだった。痛恨の忘れものだ。
それでもあきらめきれず、食糧庫の方へ歩く。その途中で、遠くから悲鳴のようなものが聞こえてきた。鳥か動物の声で似たようなものもある。幸生は、特に焦ることはなく歩を進めていた。そして、牛舎についた。その裏の小屋から喧騒が聞こえてきた。
小屋の脇で、颯人が真っ青な顔でしゃがみ込んでいた。
「颯人さん、どうしたんですか?」
「……ああ、幸生くん。おはよう」
颯人の声は、弱弱しかった。強い風が吹けば、倒れてしまいそうな颯人を気遣うように、幸生は膝を折って目線を合わせた。
「さっきのって、颯人さんの悲鳴ですか? 何があったんですか」
颯人は、一度、深呼吸をした。
「ごめん、取り乱してしまって。僕は、死体を発見するの初めてなんだ。だから、びっくりしてしまって」
「死体?」
「うん。豚小屋の中に……」
幸生は、豚小屋の中を覗いた。そこには、人が倒れていた。柵の中で仰向けに倒れたその人を、豚が齧っている。顔はだいぶ食べられてしまっているが、幸生にはその人が誰だかわかった。昨日初めて会った尚人だ。右腕が肘から下で切り取られている。真っすぐな断面は、豚の歯ではありえない。腹部の布を染める中心には、はっきりとした切れ込みがあった。
「幸生くんは、死体を見ても大丈夫なタイプなの? やっぱり外の人は、こういうの見慣れているんだね」
そんなわけあるか。冷静に言葉は浮かんでくるのに、喉が凍ってしまったかのように震えてくれなかった。
「幸生くん。そんなに見て気持ちがいいモノじゃないから、こっちで一緒に待っていよう。幹人が戒人とお母さんを呼びに行ったから」
「なぜその二人を?」
「なぜって、いつもそうしているらしいから。よかった、戒人が来たみたい。戒人! こっちだよ」
駆け足で来た戒人は、番重と白い布を手にしていた。幸生に気づいて驚いた表情をしている。それでも、声をかけてくる間もなく豚小屋に入って行った。
「ああ、こらお前たち! なんてことをするんだ!」
中から戒人の声が聞こえてくる。どうやら、豚に言っているようだ。
「お母さん!」
ずっと小さくなっていた颯人が立ち上がった。
真っ白な顔で女が走って来る。早朝だと言うのに、着物も髪の毛もしっかりセットされていた。女を気遣うように寄り添っているのが幹人だろう。明るく活発そうな印象を受ける男だった。
豚小屋に入ろうとする女を中から戒人が出てきて止めた。
「母さんは、外で待っていてください。幹人と颯人は手伝って。豚が邪魔をして、どうにもならないんです」
「わかった」
即答した幹人とは違い、颯人は震えあがっていた。
幸生は、すすり泣く女と一緒に外で待っていた。この女は、尚人の死に関わっているに違いない。そして一番怪しいのは、昨日、尚人を追いかけていた戒人だ。そのことを幸生は、残念に思った。
「ごめんなさいね、こんな悲しい光景を見せてしまって」
女の全てが白々しく感じる。幸生は、なにも答えなかった。
「私が、母親として未熟だから……ううッ」
だから、自分の子どもに手をかけてしまったのだろうか。全く理解ができない。
“お前も殺されるぞ”。その言葉が現実味を帯びる。殺されないために、この女の愛想を買っておかないと。利口な自分が意見を出すが、それを実行する自分はいなかった。
中から、白い布が被せられた番重を持った颯人と幹人が出てきた。白い布はところどころ、血が染みていた。最後に出てきた戒人の手や服は真っ赤な血で汚れていた。
「颯人と幹人に車まで運んでもらいます」
戒人は、女に許可をとった。
「私は、手配することがありますので、先に行っています。……颯人は大丈夫ですか?」
颯人の顔は真っ青だった。颯人は、強がりも言えないようだ。
「途中で、亮人に声をかけておきます。亮人が手伝いに来るまで、頑張ってください」
颯人は、頷いた。最後に、戒人は幸生を見た。
「幸生くんは、このまま母さんと家に帰ってください」
逆らったら、幸生のことも殺すつもりだろうか。戒人の顔を見ることができなかった。幸生は、大人しく頷いた。
女は、帰り道ずっとハンカチを濡らし続け、家に着くと抜け殻のようにふらふらとどこかへ行ってしまった。ちょうど、千春と祥子が階段を下りてきた。
「幸ちゃん、おはよ!」
千春は、昨日の幸生への敵意は忘れてくれたようだ。突進してくる千春を、抱き留めた。
「幸生、今日は早起きだったんだね。なんか疲れた顔しているけど、体調でも悪い?」
「いいや」
千春がいるところでは、話しづらい内容だった。そう思っているのは、幸生だけではないようで、いつもはどこで食事を取るのか聞いて来る明子が、当たり前のように小部屋に幸生たちの食事を用意していた。
「ねえ、今日なにかあったの? なんか家の中、騒がしくない? お母さんもいないし」
祥子は、声をひそめながら、幸生に聞いた。千春は、大好きな鳥のそぼろを一つ一つ口に運ぶのに必死だ。
幸生は、祥子には聞こえるような声量で言った。
「尚人さんが殺された」
「うえっ!?」
「んー?」
「ごめん、千春ちゃん。なんでもないよ」
祥子は、千春がご飯に興味が移ったのを確認してから幸生に聞いた。
「どういうこと?」
「豚小屋で尚人さんが死んでいた。刃物で刺されたみたいだ」
「刺されたって……そう見えただけじゃないの? ここには、家族しか住んでいないもの。外から誰かが来るとも考えられないし、何かの事故じゃないかな」
祥子は、自分の目で確認したわけではない。信じられないのも無理はなかった。まして、戒人や女が殺したなんて言ったら激昂しそうだ。下手に言い争いをしたくなかった幸生は、それ以上、祥子に事実を押し付けることはなかった。
祥子は、寂しそうに目を伏せた。
「みんな突然、死んじゃうんだよね。外でもそうなの?」
「突然って、ここの人はそんな唐突に死ぬのか?」
「うん。昨日まで元気だったのに、朝起きたら死んだって聞かされるんだ。それで、夕方には骨になって帰って来るの」
「そんなの可笑しい。人はそんな簡単には、死なないぞ」
「……そう、なんだ」
祥子は、うつむいたまま千春がこぼしたそぼろを拾っていた。