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翌日は、朝ご飯を食べ終わったあたりから騒がしかった。浩司と乾司が、幸生に勉強を教えてにやって来た。二人で一緒にではなく、たまたまタイミングが被ってしまったらしい。
どうやら、文系担当の浩司と理系担当の乾司は、お互いをライバル視しているらしく、どちらもムキになって幸生に勉強を教えたがった。廊下で二人に挟まれ困っていると、喧騒を聞きつけた明子が仲裁に入った。
「おやめなさい、いい年してみっともない。どちらかが幸生を教えて、どちらかが祥子を教える。そのようになさい」
「だったら、俺がこの坊主だ。馬鹿は早いうちに、どうにかせんといかん」
「幸生は、わしの方がよさそうじゃ。なにせ、一緒にスイカを食った仲じゃ」
「浩司は、幸生。乾司は、祥子。一時間後に交代。なにか文句は?」
明子は、幸生が見たこともないような顔で凄んだ。老人二人は、何も言い返せないようだった。
古文が得意な浩司は、得意げに朗読をしている。滑舌の悪さも相成って、呪文みたいだ。単調なリズムと音程は、眠気を誘う。うるさい蝉の声ですら、子守唄のコーラスのようだ。眠気に必死で抗っていたら、呪文が唐突に途切れた。
「今のを訳せ」
「今のって?」
「今、わしが読んだものを訳せと言っている。これじゃあ、現代文は絶望的だな」
幸生は、閉じていた教科書を開いた。どこのページを指定されたのか覚えていない。この中から、浩司が読んでいた物を見つけられるほど、今の幸生は勘も学力も冴えていないし、勉強に励んでいた高校受験期でも難しいだろう。
「健人は、勉強はできる奴だった」
幸生が顔を上げると、浩司は宙を憎々しげに睨んでいた。幸生の視線に気づくと、元のしかめっ面に戻る。
「勉強しか取り柄のない奴がくれた子が、勉強もできんとなると、なんの役にも立たんな。頭がよければ、戒人の跡を継いで役所勤めもできただろうに。せめて、健人のようにろくでなしにはなるなよ」
「父さんが、ろくでなしってどういう意味ですか」
幸生は、浩司を睨んだ。確かに、幸生自身、父がろくでなしと称される覚えはあった。しかし、人から言われると腹が立つ。
浩司は、年若い幸生を相手にすることはなかった。
「辞書でも引け。馬鹿者が。二十四ページだ。訳してみろ」
幸生は、睨めっこを諦めて、教科書をめくった。浩司の顔は、見ているだけで運が悪くなりそうだ。相性の悪い生徒と先生では、上がる学力も上がらず、空気を悪くするだけで終わった。
対して乾司は、どこまでも緩い雰囲気だった。幸生が適当に自習をしている斜め横で、老人が適当にくつろいでいるだけだ。たぶん、手に持っている参考書を漫画に変えても乾司は気が付かないだろう。
幸生は、勉強をする振りをしながら、胸につっかえていたことを聞いた。
「乾司さんから見て、父さんってどんな人でしたか?」
「幸生、1+1はなんじゃ?」
会話にすらならない。そのことに戦慄しながらも、幸生は真面目に老人の相手をした。
「2です」
間違いのない答えを言う。
「そういう答えをしないのが、健人じゃ」
「は?」
乾司は細い目をさらに細めている。その小さな隙間からは、茶目っ気のある瞳が垣間見られた。
「2って答えているようじゃ、浩司みたいな頭でっかちになる。2じゃなくていい。答えなんて、人それぞれじゃ。わしは、お前さんの父さん好きじゃったわい」
乾司は、そう言ってけほけほと笑った。幸生は、途端にこの老人が好きになった。生徒と先生の相性は抜群だ。それなのに、学力は微塵も上がりそうになかった。
「暇なとき、スイカの収穫手伝いに来てくれるかの。嫌がらせのようにまん丸とどいつも太ってかなわん」
「わかりました。午後に行きます」
「おう、頼んだよ」
乾司が帰り、幸生も部屋を出ると祥子と鉢合わせをした。どうやら、向こうも浩司が帰ったらしい。祥子は、疲れた顔をしていた。
乾司と話し、気分が上向いていた幸生は祥子に話しかけた。
「先生に部屋に来られたら、夏休みが台無しだな。特に浩司には二度と教わりたくない」
祥子は、びっくりした顔をした後、表情を和らげた。
「うん。ひどければ、早朝に来たりもするよ」
「それは、嫌だな」
目が合っても、お互いに睨み合うようなことはなかった。それでも、気恥ずかしい雰囲気にどちらともなく目をそらして一階へ行く。いつもの和室へ行こうとした時、祥子に止められた。
「千春ちゃん、テレビがある大広間にいるんじゃないかな。ビデオ見るって言っていたし」
「大広間?」
「うん。こっち」
祥子に案内された襖の先は、三十六畳ほどの広い畳の部屋だった。長いテーブルの上には、大量のおにぎりやおかずが並んでいる。テレビでは、目的のアニメを見終えたのか、千春が好きな有名なアニメ映画が流れている。その前に、千春と女がいた。千春は、右手で女の手を握っている。女はすぐにこちらに気が付いた。
「二人とも、お勉強お疲れさま。お昼ご飯、こっちのお部屋でいいかしら」
「うん」
祥子は、明るく答えて千春のそばへ行った。女は、祥子と幸生の分の麦茶を用意している。
「子供たちは、ほとんどの子がこの部屋に来てご飯をとっていくんです。色んな子が出入りするから落ち着かないかもしれないけど、今日は時間が早いからまだ誰も来ないと思うわ」
女がそう言ったそばから、誰かが網戸を開けた。
「ああ、颯人。来てくれたのね」
「うん。少し遅かったかな」
「ううん。ちょうどよかったわ。幸生、千春、彼は颯人よ」
「初めまして」
颯人は、いかにも人がよさそうな青年だった。慣れた足取りで室内に入ってきて、幸生の隣に腰かけた。
「いただきます。あれ、幸生くん、食べないの?」
「え? いいえ、食べます」
幸生もおにぎりを手に取る。颯人は、排他的な雰囲気を一切持っていない。調子が狂うくらい毒気を抜かれる。
「幸生、午後は颯人と少し村を回ってみたらいいと思うわ」
「午後は、スイカの収穫を手伝うって乾司さんと約束したんです」
女の思惑通りになってなるものかと思って主張したのに、女は逆に喜んでいた。
「まあ、乾司と仲良くなったのね。乾司、腰の調子が良くないから助かるわ」
「なら、僕も一緒に手伝いに行こうかな」
「ちーちゃんも、行く!」
「スイカの収穫は体力を使うから、千春ちゃん、お昼ご飯たくさん食べておいた方がいいよ」
「うん!」
颯人に言われて、千春は素直におにぎりを頬張った。千春がおにぎり丸々一つ食べきるのは、珍しいことだった。
午後は、幸生と千春と颯人と祥子で出かけた。祥子は千春と一緒にいたかったのだろう。手を繋いで歩いている千春を大切そうに見守っている。
その途中で、視線を感じた。弘人だ。また睨まれたので、睨み返しておいた。
畑には、昨日と同じ位置に乾司と隆司がいた。
「おう、来たんか。大きいスイカをあそこの荷台に置いといてくれ」
乾司は、ざっくりとした説明をした。何事においてもおおざっぱなのかもしれない。
隆司は、からかうように颯人に言った。
「颯人。今日は、勇人と彩人のパシリはいいんか?」
「パシリって言わないでよ。僕の方が年上なんだよ?」
「そうだったか? いつでも経ってもおめぇは、末っ子みてぇな頼りなさだからな」
「そんなことないよ。結構、力持ちなんだから。ほら、幸生くん行こう。これ、ハサミね」
幸生は、ペンチみたいなハサミを受け取った。永遠と隆司にからまれそうな颯人は、幸生を連れて奥の方のスイカ畑に向かった。
「スイカ重たいから、腰を痛めないように気を付けてね。膝を折って持ち上げると、腰に負担がかからないよ」
「はい」
「幸生くんがここに来たのは、一昨日だっけ? 何か不便していることはない? 僕にできることはあんまりないけど、どうすればいいか一緒に考えるから、何かあったら気軽に話してね」
颯人は、屈託なくそう言った。幸生は、颯人にこの場所の異常さを愚痴ろうとして、颯人もここの一員だと気づいて止めた。口にしたところで、また不毛なやり取りになるだけだ。
そこで、当たり障りのないことを話してみることにした。
「ここの人たちって学校どうしているんですか? 車は、戒人さんの車しかないみたいだし、自転車もないし。まさか徒歩で役場があるところまで行くんですか?」
「僕たちは学校に通っていないんだよ」
「まじですか」
「頭のいい子は、外の大学に行ったりもするよ。乾司と浩司と、あと戒人と将人も大学を出たって。乾司と浩司は教員免許も持っているんだ」
二人の老人は、勝手に先生を自称しているわけではなかったらしい。
「他の子たちだって、外と変わらずテストも受けるし、浩司が言うにはそれなりの学力があるんだって」
浩司のそれなりは、かなりの褒め言葉だろう。教養があるのなら、ここが可笑しいということにも気づけるはずだ。幸生は、期待を込めて聞いた。
「颯人さんは、ここを出ていきたいとか思わないんですか?」
「なんで?」
颯人は、目を丸くして純粋に驚いている。
「ここは、何もないじゃないですか。外に出れば、もっと楽しいことも、色んな人もいる。ここに縛られて生きるって窮屈じゃないのかなって思ったんです」
怒られるのを覚悟で、正直に言ってみた。颯人は、怒らなかった。
「そういう考え方もあるんだね」
颯人は、のほほんとした空気のままに言った。
「確かに、外と比べたらここはつまらないのかもしれない。特に、外で生きてきた幸生くんからしたら、ここは異質に見えるのかな」
颯人は、ぼんやりと空を見上げている。幸生は、否定しないことで肯定した。そんな幸生に、颯人は眉を下げた。それでも、迷いなく言った。
「ここには、家族がいる。だから、僕はここが大好きなんだ」
幸生も自分の家族を思い浮かべる。生きている間は、口が裂けても言えなかった。そう思うことすらなかった。死んでしまって、初めて思い知る。幸生も、両親のことが大好きだ。
颯人は、気持ちを切り替えて、表情を引き締めた。
「よし、幸生くんがこの場所を好きになってくれるように、僕は今日からもっと頼れるいい兄になるよ。幸生くん、どんどん僕を頼ってね。あっ、そのスイカ持とうか?」
颯人は、両手をスイカで塞いだままそう申し出た。
「いいや、大丈夫です。一回、スイカ置きに行きましょうか」
颯人も本質は、他の村の人たちと変わらない。それでも、颯人の考えを否定する気にはなれなかった。
颯人は、伸びていた蔦に蹴躓いた。手にしていたスイカが一つ落下する。
「あっ、いけない。割れちゃった」
「颯人がスイカ割ったぞー!」
遠くから、隆司の茶化す声が聞こえてくる。乾司の笑い声も加わった。さらに耳を澄ますと、千春と祥子がはしゃいでいる声が聞こえた。のどかで、平和だ。急に、この場所が嫌いではなくなってしまう。そんな自分を戒めるために、幸生は人知れず下唇を噛んだ。
収穫が終わると、颯人とリヤカーに乗せたスイカを運んだ。すれ違う人と時々、簡単な挨拶と自己紹介を交わす。誰もかれも、幸生に親切だった。
「ここが食糧庫だよ」
戒人と森を抜けた時、一番初めに目についた建物だった。木造の平屋の中には、番重がいくつかあり野菜ごとに重ねて置かれていた。
「スイカは、この板の上に適当に置いてね」
「はい」
「あと、ここにある食料や棚にある雑貨は自由に持って行っていいからね。野菜は番重の一番上の物から、食料品は手前の賞味期限が早い物から取っていってね。消耗品は、その棚でティッシュとか洗剤とか色々入っているから」
幸生が棚を開けると、他にも電池や文房具などもある。業務用の大きな冷蔵庫を開けると、バターやチョコレート、冷凍庫にはアイスや冷凍食品まであった。
「これ、千春が好きなお菓子だ」
「それなら、持って行くといいよ。あと、ここにないものでほしいものがあれば、戒人に言えば買ってきてくれるよ」
「お金はどうするんですか?」
「農作物を売ったお金でやりくりしているみたい。ここで消費しきれない分は、三日に一回くらい何人かで戒人の車まで運ぶんだ。最近、初めてその役回りをやったんだけど、野菜が重すぎて途中で腕がちぎれるかと思ったよ」
森を歩いた十五分間は、普通に歩いていてもしんどいものがあった。それを野菜を持ってだなんて、地獄のようだ。それでもその対価にこの食料や雑貨であれば、十分だとも思える。想像したよりも、ここの人たちは豊かな暮らしをしているのかもしれない。
夕暮れが始まった中を、颯人と並んで歩く。手には、千春が大好きなお菓子がある。自然の音に満たされ、自分の足音がよく響く。普通に生きていたらかき消されてしまう、生きているという感覚に包まれる。誰かに合わせることのない素の自分がそこにいた。幸生は、異常なこの地に、安らぎを見出しつつあった。
勇人と彩人の様子を見に行くという颯人とは途中で別れた。厄介ごとに関わりに行く気はない。母屋に着くと、千春にお菓子をあげた。千春は、想像以上に喜んだ。
「ちーちゃん、これ好き! おねーちゃんにもあげる!」
「ありがとう」
千春は、幸生にお菓子をあげた後、隣にいた祥子にもあげた。そして、包み紙に苦戦しながらもさっそく夢中になって食べている。そこで、千春ははっと何かに気が付いたようだ。
「ママにもあげてくる!」
そう言って、千春はどこかへ走って行く。
幸生の表情をどう勘違いしたのか、祥子は千春がいなくなると慌てて言った。
「千春ちゃんは、あんたの妹だってわかっているから。私の、妹では……ない。勘違いなんてしてないよ」
寂しそうな呟きに、幸生は小さく首を振った。
「いいんだ。姉も兄も何人いたっていい」
幸生の言葉に祥子は、安心したようだ。
「私、配膳手伝ってくる。今日は、大広間で食べようよ。先、行っているね」
一人で残された幸生は、しばらくその場から動けなかった。千春の母親は、ただ一人だ。その事実が、早くも覆されてしまった。
幸生は千春と自室に戻ると、すぐにリュックをあさった。その中から、写真立てを取り出す。リビングに飾ってあるものをそのまま入れてきた。その写真を見て、幸生は目を見張った。
「お写真、汚れてるー。幸ちゃん、いけないんだー!」
千春に咎められる。幸生は、うるさくなった心臓を静めるよう努めながら、写真立てから写真を取り出す。そこに指を滑らせて、修復不可能だと知る。
「千春。お前の母親は、志藤麻奈一人だ。そのウサギのぬいぐるみ買ってくれたママ覚えているだろう?」
「うん! うさちゃんといい子にママが帰って来るの待つの!」
その言葉に安心した。
家族写真の母と父の顔が黒く塗りつぶされている。焼かれてしまったかのように、手で触れると周りよりもへこんでいた。こんなことをする人物は、一人しか思い浮かばなかった。