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千春には、お出かけをすると言っておいた。純粋に喜んだ千春を見るに、千春はまだ両親が死んだという事実を理解できていないのかもしれない。ママとパパのところへ行くの? と質問をしてくる千春に、幸生はなんて答えていいのかわからなかった。
木内さんをはじめとする近所の人たちには、お試しで夏休みの間、親戚のうちにお世話になると話しをした。喜びながら、今生の別れのような挨拶をしてくる人たちに、やはり幸生たちの世話は煩わしかったのかと淡々とした感想を抱いた。
あの女は、戒人が迎えに来る当日に、朝早くからやってきた。
「幸生くん、なんで私に報告してくれなかったの? 昨晩、人づてに聞いてびっくりしたじゃない」
お前に言う義理はない、という言葉を幸生は飲み込んだ。女は、幸生が適当に詰め込んだ千春のリュックを詰め直している。
「親戚の人と連絡とったんでしょう? どんな人だった?」
「優しそうな人でした」
「そう。それなら、何よりなんだけど、実際に暮らしてみないと現状はわからないものだから。これ、何かあったら連絡しなさい。群馬の山奥だろうと、行ってあげるから」
女は、名刺を幸生のバックのポケットにねじ込んだ。一瞬、“NPO法人”と“雪村”という単語が確認できた。そういえば、出会ってすぐに名刺をもらった気がするけど、どこかへやってしまったようだ。
雪村は、千春の髪の毛を梳いている。ずいぶんと、千春はなついているようだ。
「心配しなくても、いい人ですよ。村の人たちも歓迎してくれているらしいです」
それでも、雪村のお節介は解消されなかった。
「子どもが引き取られた先で、辛い目に合うってよくあることなのよ。子どもに必要なのは、親ではなくて、子どもが安心して暮らせる環境だと私は思うの。その環境って、外から見た限りではわからないから、厄介なのよ」
ぶつくさ言いながらも、千春の頭は綺麗な二つ縛りになっていた。どちらにも千春が好きなウサギの髪飾りがついている。
「はい、千春ちゃん。できたわよ」
「わーい! ちーちゃん、これ好きー!」
千春は、ウサギのように跳ねまわっている。それを、雪村さんはうれしそうに見ていた。
「ごめんなさいね。色んな案件を見ているから、過敏になっちゃって。何事もなければ、それでいいの。幸生くんは、準備できた?」
「できてます」
必要最低限でいいと言われていた荷物は、いつのまにかリュックとスポーツバックをいっぱいにしていた。その中には、ガラにもなくリビングに飾ってあった家族写真もあった。千春が寂しがったら見せてあげるためだと、自分に言い訳をした。
十一時ちょうどに家の前に、黒いワゴン車が止まった。十分前から落ち着かず、外で待っていた幸生は背筋を伸ばした。いつの間にか、近所のおばさんたちも見送りに集まっている。その中を、黒いワゴン車から長身の男が下りてきた。十分におじさんと呼べる年齢だが、声のイメージをそのまま体現したような優しく紳士的な雰囲気をまとっている。容姿端麗で、集まったおばさんたちは追っかけをしているファンのようだ。
「お待たせしました。そちらの方が役場に連絡をくださった雪村さんですね。二人のことを気にかけてくださり、ありがとうございます」
「い、いえ、こちらこそ、お早い対応恐れ入ります」
雪村は、戸惑いながら頭を下げている。あんなに向けていた疑いの目は、すっかり別の色に浸食されていた。幸生は、内心あきれ果てておばさんたちを眺めていると、戒人と目が合った。戒人は、感じよく微笑んだ。
「こんにちは。幸生くんの荷物は、これですね」
「あ、はい。すみません」
戒人がスポーツバックを荷台に積んでくれた。千春は、人見知りをしているのか、幸生のひざ裏にしがみついて離れない。
「では、行きましょうか」
幸生は、周りの声に適当に会釈をすると、車に乗り込んだ。二例ある後部座席は後部の一列が取り除かれ荷台に多くの荷物を積み込めるようになっている。千春のために用意してくれたのだろう。真新しいチャイルドシートに千春を座らせた。
戒人は、幸生たちに雑談を強制することはなかった。かといって、沈黙を気まずいと感じさせることもない。人を安心させるような空気に、最初は落ち着きがなかった千春も船をこぎ始めている。途中で昼食をとったサービスエリアで戒人は、ソフトクリームを買ってくれた。それが気に入ったのか、千春はすっかり戒人に気を許したようだ。両親にしたように、ソフトクリームのおすそ分けをしようとしている。
「あげる! 美味しいよ!」
「ありがとう。千春ちゃんは、優しい子ですね」
戒人は、微笑みながらも眉が若干下がっていた。それが、幸生は気にかかった。
「一人で食べていいんですよ。お店に出向かないと食べられないようなものは、向こうでは口にすることが難しいんです。特にソフトクリームは持ち帰ろうにも途中で溶けてしまいますから。どうしてもとなれば、方法を考えますが、とうぶん食べられないと思って、しっかり味わってください」
雪村さんが言っていた通り、相当の田舎らしい。夏休みの間、食べられないとなると好物でもないソフトクリームが、貴重なもののように思えてきた。心持ちを変えてみても、冷たさと甘さに慣れた舌は、今さらその価値を見直してはくれない。最初の一口の美味しさを越えられないままに、幸生はソフトクリームを完食した。隣では、千春がいつも通り溶けていくクリームと格闘している。戒人が、慣れた手つきでそれをサポートしていた。
「戒人さんって、子どもいるんですか?」
「え?」
「子どもの扱い慣れているみたいなので、いるのかなって思って」
思いもよらず、目を丸くして驚いている戒人に、幸生は付け足した。なにか変なことでも言っただろうか。戒人は、なにを考えているのかわからない表情をした後、幸生を安心させるような表情になった。
「弟と妹がいるんですよ。これからは、幸生くんと千春ちゃんも、私にとって大事な弟と妹です。年いってる兄ですが、気軽に頼りにしてください」
ずっと兄が欲しかった。幸生は、頬が緩むのを隠すようにお茶を飲んだ。心の支えがほしい今のタイミングで、そんな存在ができるなんて自分は運がいい。幸生は、そこに社交辞令が含まれていないなんて考えもしなかった。
隣で眠る千春に誘われて、幸生もいつの間にか眠っていた。目が覚めると、窓の外は、木が茂っている。山中に入ったようだ。
「あと、十五分ほどで着きますよ」
戒人にそう言われると、なんとなく緊張してくる。元より、社交的な方ではない。学校ではそれなりにうまく振る舞ってはいるが、それは学校にいる間という期限があるからだ。夏休みの間だけとはいえ、二十四時間、他人と暮らす生活に馴染めるのか、今さらながら不安になってきた。
コンクリートの一本道が長く続いている。その両端をどこまでも自然が広がっていた。この先、コンビニの一件すら望めそうにない。人ではなく、熊や猪とすれ違いそうだ。そんなことを思っていたら、唐突に森が開けた。家や店がある。しかし、どの建物も古めかしく、人の姿は見られない。深刻な過疎化が見て取れた。ここが目的地だろうか。戒人にあと十五分と言われてから、二分ほどしか経っていない。
「あの一番大きな白い建物が、村役場です。私はあそこで勤めています」
「へぇー……、思ったよりも店がありますね。もっと何もないところかと思っていました」
娯楽は皆無でも、生活に不便を感じるほどではなさそうだ。少なくとも、千春はお菓子の一つでも買えるところがあれば、十分だ。
「幸生くんたちがこれから住むところは、この村のはずれにあるんです。期待させてしまいすみません」
「ああ、いえ、大丈夫です」
期待するほどの魅力はないので問題はない。時間を潰すためにゲーム機を持って来てある。幸生は、引きこもっていられる自分のスペースさえあればいい。
「ほしいものがあれば、私が買って持っていきます。この村にないものは、ネットで取り寄せもできますので、何かあれば言ってください」
「こんな山奥でも届けてくれるんですか?」
離島料金にプラスアルファしても、宅配業者から門前払い食らいそうな立地だ。
「私たちが住んでいるのは奥留という地域なのですが、そこまでは配達に来てくれません。ですので、役所で私が受け取りをして持ち帰るという形になります。奥留には、ネットも電波も来ていないので、その点は幸生くんにとって不便かもしれません」
「ネットも電波もですか……」
スマートフォンに依存している現代っ子には、致命的だった。それでも、ゲーム機があると気持ちを持ち直す。幸い、高校に入って頻繁にやり取りするような親しい友人もいない。
「あと、申し訳ありませんが、スマートフォンは預からせてくれませんか」
「え?」
「すみません、これは決まりなんです。他の子に許していないことを幸生くんだけに許可すると示しがつきませんので」
戒人は、申し訳なさそうに言った。なんだか規則の厳しい学校みたいだ。田舎独特の閉鎖的な何かがあるのだろうか。嫌な予感はしつつも、幸生はポケットからスマートフォンを取り出した。時刻は、七時になろうとしている。外はまだ明るいので、まだ夕方だと思っていた。こんな時間まで、寝ていたら千春は夜、眠れなくなってしまう。
幸生は、スマートフォンの電源を切ると、運転席の戒人に差し出した。
「聞き分けてくれてありがとうございます」
戒人は、フロントガラスの先を見ながら、片手でそれを受け取った。
幸生は、千春に呼びかけて起こす。千春は、よく寝たせいかぐずることなく目を開けた。
「ついたの?」
「もうすぐ着く」
「木、いっぱい!」
千春は、物珍しそうに窓ガラスに張り付いている。海好きな父の影響で、引っ越し先は海沿いが多かった。出かけるとなっても、海が見える場所が多く、ここまで山らしい山に来るのは初めてだった。
「千春ちゃんは、山が好きですか?」
「うん!」
「それは、よかった」
コンクリートの道路の終わりに、車が二台ほど止められるスペースがあった。そこに、戒人は慣れた手つきで車を駐車した。
「着きましたよ」
そう言われても、なんの実感も沸かない。どこを見ても、深い森が続いていた。
車を降りると、空気の中に清涼感がある。圧倒的な自然に囲まれていると、自分の存在が希薄になり、悩みも薄らぐ心地がした。
戒人が幸生のスポーツバックを手にした。
「あ、すみません。持ちます」
「では、お願いします。千春ちゃん、背中にどうぞ」
「おんぶー!」
「千春、ちゃんと歩けるんで大丈夫ですよ。意外と重いし」
千春は、抗議するように頬を膨らませた。
「ここから、十五分ほど歩くことになるんです。道は平たんなんですが、足元が悪いですし、千春ちゃんには厳しいかもしれません」
戒人は、千春を軽々と背負った。幸生よりも力がありそうだ。落ち着いた雰囲気だから、年がいっているように見えるだけで、案外、若いのかもしれない。
「戒人さんって、いくつなんですか?」
「今年で五十になります」
「五十!?」
思ったよりもだいぶ上だった。飛び上がるほどに驚いた幸生に、戒人は笑っていた。
「そんなに予想と違いましたか」
「はい。父さんより、五つくらい上なのかなって思ってました」
「なら、相当、若く見てくれていたんですね」
戒人の顔が曇ったようだった。親戚だから、もちろん父とは面識があったのだろう。戒人の人柄を考えると、父も戒人になついていたに違いない。思い出話をするほど、戒人は気持ちを昇華できていないようなので、幸生は、戒人に父の話題を振るのは避けようと思った。
等間隔に並んだ木々の間を歩いていく。踏み慣らされた腐葉土の道もなければ、木々に目印もない。毎日、歩いていても迷ってしまいそうな代り映えのない景色が続いていた。きちんと前に進んでいるのか不安になりながら、幸生は戒人の背中についていく。その背中で、千春はご機嫌に幼児向けアニメの主題歌を歌っている。この無駄に大音量で音痴な歌声のおかげで、自然に取り込まれそうになる焦燥感が遠のく。
いつまでも続く光景が、ようやく終わった。戒人が住む奥留に着いたようだ。平屋の木造家屋がいくつか目に入った。全て同じ造りをしていて、家々を仕切る塀や生け垣はない。家の周りを花で飾っていたり、変な置物が玄関先に置かれてあったり、住人の個性がところどころに見られた。
「戒人、おかえり」
若い男が駆け寄って来る。戒人に似た優しそうな雰囲気をしていた。戒人を迎えながらも、瞳は好奇心でいっぱいだ。
「その子が健人の息子さんと娘さん?」
父の名前に、心臓が飛び跳ねた。
「ええ。幸生くんと千春ちゃんです」
戒人に目配せされ、幸生は軽く会釈しながら言った。
「志藤幸生です。よろしくお願いします」
そっけない物言いなのに、彼が面白そうに目を輝かせたのがわかった。
「はじめまして、勇人です。年は、二十一でこの村の中では年が近い方だと思うよ。一つ年下の彩人ってやつと一緒にいることが多いんだ。明日にでも、彩人と一緒に村を案内するよ」
交友を深めようとする勇人を、戒人が諫めた。
「いけませんよ、勇人。君たち二人は、浩司さん家の修復作業が終わっていないでしょう。三日で修復を終えると浩司さんと約束したのでしょう?」
「大丈夫。浩司は、ボケているから家が壊れていることすら忘れているよ」
「一緒に住んでいる尚人と将人のことを忘れていませんか?」
「すっかり忘れてた。尚人と将人なら、僕たちよりも、うまく修復してくれるだろうから安心だね」
「壊したのは、勇人と彩人でしょう。第一、何をしたらあんな壊れ方をするんですか」
「戒人、客人を前に説教なんて失礼だよ」
戒人は、出そうとした言葉を喉元に戻したようだ。勇人は、朗らかに幸生に微笑んだ。
「残念だけど、予定が立て込んでいるから、手が空き次第、彩人と幸生くんのところへ行くね。それまではつまらないだろうけど、森林浴でもして待っていて。ここって、木なら飽きるほどあるから。むしろ、木しかないともいえるけどね」
戒人が何か言うよりも早く、勇人は駆けて行ってしまった。戒人はため息を一つついた後、幸生にバツが悪そうな表情を向けた。
「勇人は本当に減らず口でして……、勇人と彩人は、特に年が近い兄弟を振り回すことが好きな子たちなので、幸生くんを構ってくると思うのですが、迷惑でしたら言ってください。きちんと私から叱っておきます。いい子たちなのですが、何分やんちゃな側面が強い子たちなので、悪いことを教わらないように気を付けてくださいね」
「はい」
一緒にいたらトラブルに巻き込まれそうだ。刺激よりも平穏がほしい幸生は、二人には出くわさないように気を付けようと思った。
「おうち、まだー?」
「もうすぐですよ」
戒人の背中にあきた千春は、戒人の手を握って弾んだ足取りで歩いている。辺りが、暗くなってきた。街灯がないため、夜、出歩いたら迷子になってしまいそうだ。
「はい、到着です。お疲れさまでした」
「ちーちゃん、疲れた」
「では、今日は夕飯を食べたら早く寝ましょうね」
「うん!」
そこは、二階建てのお屋敷のような建物だった。もしかして、父の実家はとんでもない金持ちだったのだろうか。父がどんな事実を幸生に隠していたのか。尻込みしてしまいそうだ。
戒人が、引き戸を開けた。
「ただいま、母さん。幸生くんと千春ちゃんを連れてきました」
「おかえりなさい」
玄関では、着物を着た女の人が待っていた。母さんと呼ばれたその人は、戒人と同世代に見える。腑に落ちない顔を浮かべる幸生を気にすることなく、女の人は泣き出しそうなくらい喜びに浸っている。
「あなたたちが来るのを、どんなに楽しみにしていたことか。今日から、私があなたたちの母親です。さあ、上がって。夕飯にしましょう」
納得がいかない部分はあるものの、世話になるということで幸生は頭を下げた。
「夏休みの間、よろしくお願いします」
「幸生、顔をあげて」
初対面で呼び捨てにされたことに、幸生は反感を抱いた。それでも、大人しく顔を上げた。
「私のことを本当の母親だと思っていいのよ。遠慮なんてしないで?」
慈愛に満ちた声音と表情が、幸生を温かく迎え入れてくれる。それに気持ちの悪さを感じて、幸生は適当に会釈をしておいた。
案内されたのは十畳ほどの和室だった。そこでは、年配の女性が配膳をしていた。
「あら、いらっしゃい。明子です。どうぞ、座ってくださいな」
「明子。祥子はどうしたんだい?」
「祥子は、先に食べましたよ。もう部屋に行っています」
「あら、お年頃だから恥ずかしかったのかもしれませんね」
女は、困ったように微笑んだ後、幸生に説明した。
「ここには明子の他にも、十七歳の祥子と、四十の享子が一緒に住んでいます。気難しいところがある子たちだけど、みんないい子だから仲良くしてくださいね」
幅広い年齢層だ。この母親を自称する女が家主なのだろうか。今いち人間関係がわからず、幸生は聞かずにはいられなかった。
「みんな父さんの親戚なんですか?」
幸生の発言に女も明子も、虚をつかれたような表情をしていた。聞いてはまずい何か複雑な事情でもあるのだろうか。幸生は、助けを求めて戒人を見た。
「幸生くん、シンプルに考えてください。この女性が母親です。そして、この奥留にいるのはみんな彼女の子供です。そこに今日から幸生くんと千春ちゃんも加わった。家族が増えたと考えれば、うれしいことではありませんか」
「すみません、ちょっと、俺にはよくわからないです」
頭がおかしいような内容を真顔で言われても困る。危ない宗教団体の地に踏み込んでしまったのだろうか。早急に逃げ出さなければ。そう思っても、外部に助けを求める手段も、来た道を戻る自信もない。顔色が悪くなったであろう自覚があった。幸生くん、と戒人が呼ぶ声に返事をする気力もない。
「すみません、幸生くんは外での生活が長いから……、時間をいただけませんか。きっと若いから適応できると思うんです」
これは、戒人が女に向けて言った言葉のようだ。
「わかっていますよ。大丈夫です」
女の手が幸生の頭に乗った。ポンと軽い感覚はしても、温かさは沸いてこない。
「ゆっくりでいいんです。母さんは、幸生が心を開いてくれるのを待っていますから」
女は、優しく微笑んだ。その後、どうやって食事をとったのか覚えていない。いつもならご飯をこぼす千春に手を焼くところだけど、その役目は誰かがやってくれたようだ。
「では、私はこれで帰ります」
食事を終えた戒人が立ち上がった。
「帰るって、戒人さん、ここに住んでいるんじゃないんですか?」
もう何がなんだかわからず、幸生はパニックになりそうだった。そんな幸生に、戒人は目線を合わせるように一度しゃがんでから言った。
「来る途中に平屋があったでしょう。十八を越えたら、あちらに住むんです。一戸に三人で住むのが原則です。他にもわからないことや心配なことが沢山あると思います。一度に多くの情報を入れても、混乱するでしょうし、今日は、母さんは一人、他の者は子供という点だけ頭に入れておいてください」
一番、理解できない部分を押し付けられて、幸生はすでにギブアップしたかった。
「しばらくは、ただのんびりと過ごしてみてください。私も様子を見に来ます」
戒人さんは、丁寧に挨拶をして帰って行った。わけのわからないことを言う戒人だけど、いなくなると寂しさを感じた。あんなに寝たのに眠そうに目をこする千春に、女は風呂に一緒に入ろうと誘うものの断られていた。そのことにちょっと安心して、面倒くさい千春の風呂をすすんで済ませた。母親面した女は、当たり前のように千春と寝ようとしたが、千春はこれも拒否した。
「幸ちゃんと寝るのー」
「ふふ、兄妹仲がいいのね。微笑ましいわ」
どうやら幸生に嫉妬したりという狭量な女ではなさそうだ。千春の手をぎゅっと握る。小さくて柔らかくて頼りない手だった。
あてがわれた部屋は、六畳ほどの板張りの部屋で寝心地よさそうなベッドに、家具など一式が揃えられている。本棚を見れば、幸生の年齢で必要な教科書や教本が並んでいる。エアコンはないものの、置いてある扇風機で十分に凌げそうだ。これなら、引きこもっていられると、幸生はほっと安堵した。
千春は疲れていたのかすぐに眠りについた。窓を開けていても、車の音一つしない。リーリーという虫の音と千春の寝息だけが絶えず聞こえていた。