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交通事故で両親が死んだ。突然の不幸に幸生は、泣きじゃくる妹の千春を他人ごとのように眺めていた。千春は今年、四歳になった。幸生は今年、十六歳になる。幼い二人の行く末を想像し、大人たちは自分勝手に目元を濡らしている。当の幸生の目元はカラッカラだ。身寄りのない二人へ集まる同情のおかげで、やるべきことは周りが率先して片付けてくれる。幸生は、ただ無表情にありとあらゆる慰めの言葉を聞き流していればよかった。
両親の車は、山道で単独の事故を起こし、炎上した。そのため、遺体の損傷が激しく、それが両親だと認識するすべはなかった。骨になった両親は、なおさら生前の面影がない。父がよく自慢していた手の甲に浮き出る骨は、灰になってしまったようだ。遅くなるようなら電話をするから、千春といい子に待っていてね。そう母は言っていた。行ってきますと言って出て行った二人に、自分はなんて声をかけたのか。そして、両親は、なんの用があって出かけて行ったのか。それを答えてくれる口がなくなってしまったことが、ひどく空しかった。
「ええ。親戚はいないようなんですよ」
隣の家の木内さんの声を耳が拾った。内緒話をするような声に、神経を尖らせて聞き耳を立てる。
「なら、やはり施設になりますね。幸生くんが高校に通える範囲の施設で、受け入れられると返答をいただいたところがあります。ですので、二人のことは安心してください」
そう答えたのは、何度か幸生に張り付いた笑顔で馴れ馴れしく話しかけてきた女だった。相手のためと銘打ちながら自分の自尊心を満たそうとする偽善者に、幸生は強い反発を覚えた。その刺激が、数年前の両親の会話を思い起こした。
『今日、健くんの母親だって人から電話があったんだけど……』
夜中にトイレに目覚め階段を下りると、明るいリビングから深刻そうな母の声が聞こえてきた。健くんと呼ばれた父親がどんな返答をしたのかは、尿意と睡魔に負けて聞くことができなかった。
その時の幸生は、この偽善者の世話になりたくないという一心だった。夜中の会話後、すぐに遠くへ引っ越したこととの因果を考えられるほど、不穏な思考回路はしていない。
「お父さんのお母さんは、生きているって聞いたことがある」
突然、口をはさんできた幸生におばさん二人はびっくりしたようだ。それでも、どちらのおばさんも愛想笑いの復活が速い。木内さんは、妹の千春に接するのと同じような物腰で言った。
「あら、おばあちゃんがいたのね。おばあちゃんがどこに住んでいるか知っているかしら?」
「知らない」
「そう、困ったわね……」
木内さんは、眉毛を下げて変な顔をしている。もう一人は、何か当てがあるようで、表情を明るくした。
「役所のネットワークを駆使すれば、見つけられると思うわ。もし、幸生くんのおばあちゃんが見つかって、幸生くんと千春ちゃんを引き取りたいって言ったら、幸生くんはどうしたい?」
見開かれた偽物の光を携えた目に、幸生は冷めた視線を向けた。
「引き取りたいって言ってくれるなら、そっちに行く。千春だって、そっちの方がうれしいだろうから」
千春は、泣き疲れたのか椅子に座って眠っている。何かと幸生の後ろにくっ付いて真似をしたがる千春は、幸生にとって鬱陶しい存在だった。そのため、千春がどう思うかは関係ない。とにかく、幸生はここではないどこかへ行きたかった。
祖母と連絡が取れるかどうか、幸生は期待していなかった。幸生は、一人でもやっていける。むしろ、一人でならやっていける。千春さえいなければ。幸生としては、千春だけ施設に引き取ってもらえればそれでいいのだが、千春がそれを許してはくれなかった。幸生が視界から見えなくなるだけで、泣いてぐずり出す。忌引き休暇のうちに高校が夏休みに入ったので、しばらくべったりと千春がくっ付いて回ると思うと、両親の死以上に気が重くなった。
しばらくは、近所の人たちが家のことを手伝ってくれるということで、幸生たちの今後はいったん保留となっていた。そのまま放置の状態が長く続くのだろうと思っていたら、葬式から二日後には、あの女から家に電話があった。
『残念ながら、おばあちゃんは亡くなっていたようなんだけど、親戚の方が幸生くんたちを引き取りたいって言ってくれているの。群馬県の山の方にある小さな村だから、娯楽は望めないし、学校とか生活環境について詳しいことは直接本人に説明するからって教えてもらえなかったのよね』
電話口で、女は不満そうに話しを続ける。
『若い子が住むには、私はどうかと思うのよ。村役場の方と電話でお話ししたんだけど、どことなく閉鎖的な印象を受けたし……、これはあくまで私の意見なんだけど。幸生くんは、どう思う?』
女からは、ネガティブな情報が多く、幸生もあまりいい印象を抱けなかった。しかし、田舎という点については問題ない。父の気まぐれでやたらと引っ越し回数が多く、その日に釣った魚が日常的に食卓に並ぶ土地に住んだこともある。都会の喧騒より、そっちの方がしっくりくる気さえした。
「幸ちゃん」
リビングで木内さんとおままごとしていたはずの千春がシャツの裾を引っ張りながら見上げてくる。
「千春ちゃん、向こう行っていましょうね。お兄ちゃん、大事なお電話しているところだから」
「やー、幸ちゃんと遊ぶのー!」
千春が足にまとわりついて来る。ここで蹴り飛ばさないあたり、自分はいいお兄ちゃんだと幸生は自負した。金ぎり声を上げる千春を慰めようと大きな声で対応する木内さん。どちらも同じくらい耳障りだ。
幸生は、現状から解放されるために選択した。
「その親戚の人のところへ行きます」
電話口で女が、時間をかけて決めるように留意してきた。自ら選択肢を見つけてきておいて、勝手なものだ。幸生は一蹴し、親戚の元へ行く意思を押し通した。
そこからの展開も早いものだった。その日のうちに、会ったこともない親戚から電話があった。
『初めまして、志藤幸生くんですね。私は、土仔戒人と言います。幸生くんと千春ちゃんを引き取りたいと申し出た親戚の者です』
「は、はじめまして」
戒人は、物腰の柔らかい丁寧な印象を受ける人物だった。大人に対して反抗的な幸生の棘もいくらか丸くなる。
『こちらは、早ければ明日にでも二人を迎えに行くことができます。村のみんなも、二人が来るのを楽しみにしているんですよ。ただ、両親を亡くされて間もないので、心の整理も必要でしょうから、迎えに行く日取りは二人にお任せします』
「は、はあ……」
幸生は、向こうに行くにあたりどんな準備が必要か考える。千春の分も自分がやらないといけないと考えると、憂鬱だ。
戒人は、そんな幸生の心情を察してくれたようだ。
『幸生くん。夏休みの間だけ、こちらに遊びにくる感覚で来てください。現に、こちらの生活が合わないと思ったら申し出てくれれば、その時はこちらも幸生くんにとっての最善を考えます。難しく考える必要はありませんよ』
「……はい」
優しい言葉が、乾いた心に染み入るようだった。肩の力が抜けると、肩甲骨がひどく凝っていることに気が付いた。ここ数日、全身に力が入っていたようで、節々の痛みが今さらになって主張してくる。
『幼い千春ちゃんの面倒、大変でしょう。こちらに来れば、母代わりとなってくれる方がいます。もう幸生くん一人で苦労を背負うことはありません。一人で、辛い思いをさせてしまいましたね。こちらは迎え入れる準備もできていますので、身一つで来ていただいても、問題はありません。田舎ですが、二人が不便を感じないよう努力していきますので、安心してください』
戒人の言葉が幸生の不安を解消していく。この人は、心から親身になってくれていると思えた。肩の荷が下りていくようだった。
空っぽだと思っていた心は、逆に一寸の隙もないほどに満杯だったようだ。溢れ出した感情が、涙となってこぼれてきた。戒人に気づかれないように、顔中の水分を拭おうと努力する。そうすればするほど、涙が出てきて誤魔化しきれない音が漏れてしまう。電話口の戒人は、幸生の涙に気づいているだろうに何も言わなかった。幸生が、話しができる状態になるまで黙って待ってくれる優しさが弱った心に響いた。ようやく、発した声は、自分が思うよりも鼻声だった。
「明日、そっちに行く準備します。明後日、迎えお願いします」
『わかりました。では、明後日の十一時頃、ご自宅前まで迎えに行きます。荷物は、最小限で構いませんからね』
「はい」
電話が終わると、静かにリビングへ戻った。千春は、変わらずウサギのぬいぐるみを手に寝息を立てている。一人で寝られない千春のために、幸生も今はリビングに布団を敷いて寝ている。両親の寝室で、千春と一緒に寝る気にはどうしてもなれなかった。暗いのが嫌だという千春のために、電気はつけたままだ。明るい電気のせいで、思考が働き眠気を妨げる。その端々で、両親が笑っていた。
「……バカ野郎」
勝手に死んだことをどんなに咎めても、両親は消えてくれなかった。こんな生活も明後日になれば、終わる。そう自分に言い聞かせて、無理やり目をつぶり続けた。