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第66回「温かい日々」

 放たれた力は、槍が本来持っていたものに加え、僕の力が継ぎ足されていた。僕自身は解呪についてはほとんど知らないが、その出力を増大させてやることができる。そういう補助術は得意な方だ。

 かくて解き放たれた魔法力の奔流はサマーを包み込み、彼女を「炎上」させていた青白い炎をたちまち小さくさせていった。それは金切り声にも似た悲鳴を伴っていて、彼女にまとわりつく恐ろしい呪いを打ち消していっていることがわかった。


「私がした施術は、サマー・トゥルビアスの体を支配する呪印を無数に刻み込むことだった。これによって、私は依代として自由に活動できるはずだったのだけど、甘かったわね。まあ、今日のところは引き下がっておきましょう。次に会う時は味方同士であることを祈りつつ」


 サマーはついに炎の中から抜け出て、ふらりと倒れ込んだ。僕はそれを優しく抱き止め、彼女が石床へしたたかに頭を打ち付けることを防いだ。彼女は気を失っているようだった。今まで完全に意識、脳波を支配されていたのだ。相当に体力を消耗していることだろう。僕は彼女を受け止めた手に回復魔法を集中し、少しでもその痛みが去るように尽力した。

 だが、本当の痛みは目が覚めてからやってくるのだ。自分の手で友を手に掛けたという負い目は一生残るだろう。かくなる上は、彼女がジャンヌに支配されている間の記憶がまるで抜け落ちていることを願うばかりだ。

 なあに、寝相が悪いくらいだったら、僕だってあしらいに慣れている。思えば、ロジャーのやつもひどい寝相を持っていたものだった。わざわざ別のベッドにまで遠征してくるくらいだ。あれは夢遊病だったのかもしれない。


「彼女の自由を知らぬうちに奪って、それをわざと僕に救出させるとはね。性悪だ」

「だが、神はルテニアに大打撃を与えた。これは計算外なんじゃないか」

「いや、そうとも限らない。あの女、本当にルテニアの味方とは限らないからな。事実、あいつはまるで懐を痛めていない。せいぜいこの大仰な槍と、サマーの支配を失った程度だ。……それより、先にサマーを。チャンドリカ、いるか」


 僕が今や魔力をすっかり失った魔王の槍を見ていると、すぐにチャンドリカの気配が近づいてきた。


「いるっすよ。水、それと果物」


 まるで見舞いでも来たかのように、チャンドリカは水差しと果物の入った籠を持っていた。僕は思わず笑いを漏らす。


「準備がいいことだ」

「隠れて見てたんだ。せめてこれくらいは」

「役割を完全に果たしてくれていることに敬意を表するよ。プラム、彼女のために果物の準備を」


 サイドテーブルに置いたままにしていた僕の小刀を示して、プラムに頼んだ。彼女は不安げな面持ちだった。


「大丈夫なのか」

「僕は回復魔法にはそれなりの自信があってね」

「破壊神のくせに、名前倒れだ」

「次に転職する時は回復神と名乗るとしよう」


 もっとも、癒やしの神などというのは僕にふさわしい名前とは思えなかった。そんなものはマッサージ店にでも任せておけばいいんだ。

 室内を暖かい光が覆った。チャンドリカが天井の照明を強めてくれたようだった。まるで今まさに襲ってきた魔を完全に打ち払うかのように、しつこく居残っていた闇を駆逐していった。


 カタカタカタ、と音がした。部屋の壁に飾ってあった、カラスの頭の人形が動いたのだ。その人形は時計じかけになっていて、時間の区切りが来ると報せてくれるのだった。どうやらちょうど日付をまたいだらしい。

 この世界でもカラスは吉兆と凶兆の二面性を持っているようである。八咫烏的な信仰があるかと思えば、悪魔の使いとして忌み嫌われてもいるという。地域によっては伝承もあって、深い谷へ落ちた子どもを助けただとか、山に老人を連れ去って食い散らかしただとか、何かの隠喩になっているような昔語りにもなっている。シャノンと旅をしていたころ、そういう話に出会って、実際に現場に赴いたこともあった。中には魔王軍からも爪弾きにされたような、ならず者のモンスターの群れが関わっていることもあった。


 あれももう思い出だ。二度と戻らぬ日々だ。

 だが、僕は満足している。今の生活は楽しい。新しい命を与えられたような気分だ。では、他の皆はどうだろう。プラム・レイムンドは、僕との旅をどう考えているのだろうか。喜びか、悲しみか、無関心か。

 そして、このサマー・トゥルビアス。彼女はこれからどうやって生きていくのだろう。できれば、僕のもとに残り、ともに今までと違う未来を創造してほしい。

 そう思って見ていると、サマーの目が開いた。


「私は……生きている」


 彼女はしみじみと、そうつぶやいた。


「やあ、おはよう。君の寝相はどうしたことだい、サマー。部屋の中がめちゃくちゃだよ」


 わざわざよその部屋に押しかける寝相なんてあるのだろうか。横溝正史が書いた金田一耕助シリーズに「夜歩く」というものがあったが、あれだってもう少し淑女的だった。それでも、僕は軽口を彼女に投げかけたかった。たとえ僕の印象が軽薄になってでも、現実の重圧を和らげてやりたかった。


「ちょっと、半年ぐらい、ひどい寝相だったみたいね」


 覚えているか。

 僕はそう直感した。彼女はルテニアで「施術」を受けてからずっと、自分でありながら自分でなかったのだろう。その中で自分が何をしてきたのかも、わかっているのかもしれない。いや、今この瞬間に、わかってしまったのだ。サマー・トゥルビアスという人格はついに脳を、内臓を、魂魄を取り戻し、同時に大切なものを失った。


「チャンドリカ、水」

「はい、サマーさん。飲んで体を冷やすっす」


 僕の声に応じて、チャンドリカがサマーに水の入ったコップを手渡した。ご丁寧に氷まで入っていた。魔法で生成したのかもしれない。

 となると、もう一つの方が準備できているかを確認しよう。


「プラム、果物……すごい皮むくの上手いな。皮むきの天才だな」


 僕は瞠目した。プラムは非常に美しく皮むきを完了させていた。

 彼女に処理してもらっていた果物はリンゴだったが、それにしても驚くべき剥き方の上手さだった。皮ごと食べる派の僕でも、これは一口いただきたいと思えるほどだった。


「褒めるな。照れる」


 プラムはやや照れくさそうに目を背けて、リンゴを食べやすいように切り分け、籠に一緒に入っていた小さめの皿に載せ、傍に近寄ってきた。


「ほら、サマー、見なよ。知ってたかい、こんなに皮むきが上手いって、プラムのやつ。これはもうカワムキストを名乗るべきだ。さあ、お食べお食べ」


 僕はサマーに手ずから食べさせるようにした。僕の手で供するよりは、そちらの方が抵抗がないだろうという配慮だった。詳しいところまでは知らないが、プラムはサマーの昔馴染みのようである。ならば、彼女からの勧めを断ることもないだろうと考えた。

 果たして、サマーはプラムからリンゴを受け取って、食べた。

 もぐもぐもぐ、と口が動く。彼女はまさしく生きていた。それから、またチャンドリカから氷水を受け取って、飲んだ。美味であれば良いんだが、と心から思った。


「知らなかったなぁ」

「だよねえ。僕も知らなかった」


 僕が軽々しく返すと、サマーは涙を流した。


「こんなに誰かに心配されるのが温かいって、知らなかった……」


 彼女は、戦士でありながら、やはり少女だった。

 それがどこか優しく思えて、僕は心の底に安堵を抱いた。

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