モラトリアムな学生には純喫茶のバイトがよく似合う
午後三時を過ぎたけど客がやってきそうな予感さえなかった。
昼をまわってからこっち、店内はがらんとしていた。
まあ、いつものことではある。
客といえば、午前中にやってくる常連客くらいなものなのだ。
『純喫茶 まどろみ』
僕がバイトをするこの店は、根六里駅から伸びる商店街の中にあった。
立地は極めて悪く、メインとなる通りの出口付近に位置している。駅前にでもあれば、電車を待つ旅行客などが暇つぶしに利用するだろうし、サンドイッチのテイクアウトなどの売り上げも見込めただろう。しかし、店主の絶望的に欠けた経営センスの傍証は、なによりこの僕である。
時給九百円もかけて人を雇う必要がどこにあるというのか。
しかも、パートはもう一人いた。
同じ大学の宮里悠介だ。
つまり、客の来ない大半の時間を、店主も入れて都合三人の店員が、たいして広くもない喫茶店で暇を持て余しているのだ。
贅沢だとも言えるし、間が抜けているとも言える。まあ、給与が遅延することもないので文句はない。
一体、人件費をどこから捻出しているのか謎だけれど。
朝から重々しい曇り空だったが、昼過ぎにとうとう雪が舞い始めた。
あるかなきかといったほどの粉雪で、最初は小さな羽虫かと思ったほどだ。雪には秩序がなかった。上下左右の区別なく宙を舞う有り様は、重力から解放されたようだった。通りを歩く人たちも雪を気にしている様子もない。窓枠のあたりは風の吹き溜まりになっているのか、ことさらたくさんの雪が吸い寄せられてくる。それはまるでミクロの世界の天使たちが、店の中を覗こうとわらわらと集まってきているようだった。
店内では、振り子時計が静かに時を刻んでいる。
さらに、ぱったりと客のこないこの時間帯には、カウンターの内側から聞こえる店主のイビキと、悠介が原稿用紙に走らせている鉛筆の音がこの店の通奏低音に加わるのだった。
悠介はほとんどの勤務時間を費やして、テーブルで小説を書いていた。もちろん、誰に頼まれた訳でもない。百パーセント奴の趣味である。
「時給をもらって小説を書けるなんて、実に効率的な仕事場だよ」
悠介は、僕がはじめて出勤した時こううそぶいた。
「さらに君が来てくれたおかげで、ますます執筆環境は充実する。接客はお任せするよ」
驚いたことに、冗談などではなかった。よほど混雑しない限り、悠介は接客を手伝おうとしない。そして混雑することなど、この店ではめったにない。よって、悠介はバイトの時間中、小説を書き続けている。一度、僕は不満を訴えたことがあった。しかし、奴は涼しげな表情を崩さぬままこう答えた。
「たかがコーヒーを運ぶためだけに僕が執筆を止めるなど、収支に合わない文化的損失だよ。そうは思わないかね、一ノ瀬くん」
まったくもって、思わない。思わないが、店主が何も言わないのだから飲み込むしかなかった。ものは考えよう。奴が店員の体をなさないからこそ、僕は雇われたのだ。こんな田舎でバイトを見つけるのは難しい。悠介には、したくもない感謝をしてやろう。
僕は、仰け反りながら大きなあくびをした。このまま横になりたい気分だが、さすがにそれは憚られる。店員がソファーに座ってだらけているだけでも、都会のチェーン店では許されない所業なのだろうから。
「一ノ瀬くん」
隣の席に目をやった。呼びかけておきながら、悠介は原稿用紙に鉛筆を走らせている。鋭角な鼻筋と、引き締まった口元。薄い墨でさっと描いたかのごとき、涼しげな目元。そして、女のように細く長い首。
こいつの性格の奇形さは、その端正なビジュアルからはおよそ想像がつかない。
「なんだよ」
「君は志賀直哉を知っているかね」
「小説家のか?」
読んだことはないが、名前くらいは学校で習った。
「ああ、その志賀直哉だ」
悠介は目を上げることもなく、自動書記のオートマトン(機械仕掛け人形)のように原稿用紙に鉛筆を走らせ続けている。しゃべっている間もずっとそうだ。
「で、それがどうした」
「ある冬の晩、志賀直哉はいつものように小説を書いていた」と何やら悠介は朗読するような口調で話し始めた。
「その日は、ことさら霊感が働いたのか、筆が乗って一晩で短編を書き上げた。その小説には、女が首を吊って自殺するシーンがあった。どうしてそんなストーリーになったのか作者である彼にも理由はわからなかったが、作品の出来に満足して床に着くことにした。夜が明け、外が騒がしいことに気づいて目を覚ました。慌てた様子でやってきた妻に、隣家の娘が自殺したらしいことを告げられた。後でわかったことだが、志賀直哉が自殺するシーンを書いていたのと時を同じくして、隣家では娘が家の梁に紐をかけて首を吊っていたのだ。女の年恰好も、自殺の方法も、奇妙なまでに共通していた。
僕には、これが単なる偶然だとは思えない。この志賀直哉のエピソードは、小説というものの本質を表している。卓越した芸術家の感性は、その時、目に見えない世界を通じて、自殺した女の心情に共鳴していたのだ。ある意味で、小説は呪術である。書くという行為を通じて、小説家は世界の根っこの部分にコネクトし、未来を予言する。一ノ瀬くん。わかるかい? まさに僕が今書いている小説が告げているのだよ。これからここへ女がやってくると。そして、その女は君を冒険へと誘うだろうと」
長々と喋りながら、悠介には何の変化もなかった。目線ひとつこちらへよこさない。
彼が何を語ったのか、僕には理解できなかった。
いや、意味はわかるのだが、
女がやってくる? 冒険?
「一ノ瀬くん。あともう一つ 鈴虫には気をつけたまえ」
「鈴虫だって? 一体、お前はさっきから何を」
その時カウベルの音がした。店に客が入ってきた合図だ。
入ってきたのは、女。黒いスーツを着た女だった。