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眠りの町


 この町の名に神秘的なイメージを抱く人は少なくない。

 かくゆう、この僕もそうだった。

 やがて、正式には「根六里町」と書くらしいと知ったが、それ以前には、伝説のことだけが知識としてあり、なおらさ「眠り町」だと思い込んでいた。


「昔々、冬がやってくる時分になると、村人たちは眠りにつく支度を始めた。一昼夜、お腹いっぱい餅を食べ続けた後、布団に包まる。一度、鼾をかいたら最後、春が来るまで目覚めることはなかった」


 つまるところ、「根六里町」には、冬眠伝説とも言える民間伝承があるのだ。

 この話をしてくれたのは美雪の親父さんで、町の出身者だった。

 美雪が根六里町へ引っ越すのが決まったのは、高校を卒業する直前のことだ。

 肺に異常が見つかり、医者に空気の良いところで養生することを勧められたのだ。僕たちが住んでいた東京荻窪から根六里町へは、電車とバスを乗り継いで十四、五時間はかかった。頻繁に通うことはできないだろう。ところが、調べてみると、町内に市立大学のキャンパスがあることを知った。つまり、その瞬間に僕の進路も決まったわけだ。

 睡眠時間を三時間ほどに削った猛勉強のかいあって無事に大学へ合格し、僕は美雪と一緒にこの町へ引っ越してきた。空気の新鮮さを可視化される形で自覚したのは、その夜のことだった。

 満天の星々が、頭上から迫っていた。それはもう夜空というより、むき出しになった宇宙そのものだった。僕は天の川というものを始めて肉眼で目にした。帯をなして広がる星の層を目の当たりにして、地球が銀河の円盤の一部であることを全身で理解することができた。

 夜空が賑やかなぶんだけ、地上は暗い。実際、郊外に出ればコンビニなどはなく、自販機すらも見かけない。そもそも外灯がないのだ。中心地から離れるほどに家々は分散し、隣家へ行くにも丘を越えなければならない。当然、星が見えないような晩には、漆黒の闇が広がることになる。

 六里町は、丘陵地に建てられた町で、いたるところになだらかな丘があり、ちょっとした散歩でも坂を上ったり下りたりと、けっこういい運動になるのだ。

 町での暮らしになれてきた頃、ちょうど海に潮の流れがあるように、丘には風の通り道があることに僕は気づいた。大学のキャンパスの裏門へ通じる坂は特に顕著で、日によって強弱はあれど風そのものが止むということはなかった。風は地表に痕跡を残していた。頻繁に風が通る場所にはレンゲやタンポポ、ホオヅキやペンペン草といった草花が、サルスベリやウツギ、クチナシやコデマリといった低木はその周囲に、そしてさらに外に、ちょうど瀬戸内海の群島のようにクヌギやケヤキからなる森が点在していた。植物層を通して見ることで、丘陵一帯には風の地図が浮かび上がるのだった。

 講義の最中、開け放った窓からは、絶えず樹木の枝葉がこすれ合う音が聞こえる。それはまるで潮騒のようで、どこまでも広がる海原が目に浮かぶようだった。波にたゆたうように膨らむ白いカーテン。僕は、頬杖をつきながら、砂浜の木陰で涼んでいる自分をイメージする。教授のつまらない講義でさえも子守唄のように心地良くて、僕は眠りの世界へと誘われていく。

 根六里町へやってきてから、僕の睡眠時間は確実に長くなった。田舎はどこも、都会に比べれば時間の流れは緩やかに感じられるものかもしれない。けれど、それだけではなく、この町には一種、独特な静寂が漂っていた。

 町を歩く人たちは、地面に長く伸びた影がそのまま実体化したように存在感が希薄だ。キリコの絵のような感じと言えばわかってもらえるだろうか。もちろん、影そのもののように真っ黒いわけではないけれど、声をかけても素通りされそうな、あるいは作り物のような希薄さがあった。

 一度、そんな印象を、美雪の前で話してみたことがある。

 ベッドに横たわった彼女は、僕の手を握りしめると、微笑んでこう言った。


「前からずっとそうじゃない。この町へ来る前から」

「そうだったかな」


「そうよ」彼女は手に力を込めて言った。

「世界には私とあなたしかいないの。他の人たちはみんな影でしかないの」


 そう。美雪の澄んだ瞳に見つめられると、いつだって世界は二人のためだけに作られたものだと確信できる。

 宇宙の成り立ちに真理があるとするならば、この世で僕と美雪が出会うために世界は仕組まれたのだ。

 なんと、満たされた世界だろうか。

 冬がやってくると、町の人たちはさらに寡黙になり、静寂はいっそう深まった。

 世界はますます灰色に   

 そうして、雪が降る午後、ふと、僕は夢の中に囚われたような気分になる。

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