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美雪。

 美雪はまだ十九歳だった。


 そんな人生最良の時期を、彼女は病室でひたすら死を待つしかないのだ。

 天に愛された神童のように、彼女は産まれながらにして早逝を運命づけられていた。

 物心がついたころから入退院を繰り返していた美雪にとって、病院こそが世間だった。

 血と肉から成る我々の命とは違って、いつしか美雪の命は結晶化したに違いない。


 美しくも繊細な結晶。


 その純度が研ぎ澄まされるほどに彼女は死へと近づいていく。

 いずれ、彼女はその名前の通り、ひとひらの雪となってこの地上から音も立てずに消え去っていくだろう。

 その時、最愛の恋人を失った僕はーーー

 さらに深く物思いにふけるはずだ。

 旅に出るかもしれない。

 北国がいいだろう。南国はだめだ。

 僕はダッフルコートにリュックを背負いながら、自暴自棄になって、その日暮らしの旅を続けるのだ。

 野宿は危険なので、旅館に泊まるだろう。相部屋なんて論外だ。離れの個室がいい。

 僕は雨戸を締め切って、布団に包まりながら美雪との思ひ出を反芻するのだ。


 彼女の体調が良い日に二人で森を散歩したことを、

 コットン製の柔らかいパジャマを、

 ストーブのそばで編み物をする彼女の姿を・・・・・・。


 失われた時を惜しみ、美雪が地球上から消失した事実に打ちのめされながらも、僕はぼんやり暗い天井を見上げながら、こう呟くだろう。


『こんなに悲しいのに、どうして涙が出ないのだろう』と。


 希望がなければ、人は涙さえ流せないのだ!


 それでも、僕は夕食に舌鼓を打つだろう。なんといっても食事は料金に含まれているので食べなきゃ損をする。

 北国ならば、魚介類が美味いはずだ。

 美雪に献杯をして、僕は雲丹やホタテを食べる。

 雲丹は生がいい。貝類は少し焼いたほうが甘みが出て美味しい。酒はむろん日本酒だ。傷心の旅に出ている僕には、ぬる燗がちょうどいいだろう。毛蟹などがあれば完璧だ。甲羅にほぐした身を入れて、蟹味噌をからめつつ、ぬる燗を注ぐ。甲羅の両側をつまんで口元へ運び、キューッと吸う。蟹の出汁の旨味と、日本酒の香り。たまらない。


「一ノ瀬くん!」


 ふいに呼びかけられ、物思いから覚めた。

 僕は、北国の旅館ではなく、枯葉舞い散る森の中にいるのだ。


 まだ、美雪は生きている!


 その事実に、世界が輝きを取り戻すようだ。

 ところが、振り返ってすぐに世界はふたたび暗転した。

 青い顔をした看護師の女性が、僕にむかってこう叫んでいた。


「早く病室へ戻って! 美雪ちゃんの体調が急変したの!」


 矢も盾もたまらず、僕は駆け出した。

 時として自然は、運命に抗おうとする者をあざ笑う。

 この向かい風の勢いはどうだ。まるで、美雪を僕から遠ざけようとするかのように、枯葉が群れをなしてぶつかってくるではないか。


 しかし、僕は走る! 


 美雪は、僕の腕の中で最期を迎えるべきなのだ!


 危機に瀕し、それでも誰かのために走る時、僕は宇宙の座標の起点となる。

 僕は、苦しみからとも、恍惚からともつかない喘ぎをもらした。


 あゝ、物語の躍動を感じるぅ!


 森を抜け、果実園を横切り、芝生が広がる広場へ出た。

 煉瓦造りの病棟は、まるでヨーロッパの由緒ある大学の校舎のような風情があった。真っ青な空の下で、数人の患者たちが闘病中の身の上も忘れて、草を食む羊のようにゆったりとした時を過ごしている。そばを慌ただしく駆け抜けていく僕に、彼らは視線を向けようともしない。うら若き乙女が死につつあるというのに、あいかわらず牧歌的な空気が流れていた。

 しかし、病棟の中は違った。美雪の病室へ近づくに従って、物々しい空気が立ち込めていく。出入りする看護師たちで騒然とする病室の前で、僕はようやく足を止めた。


「美雪・・・・・・」


 少女は目を閉じて、静かにベッドに横たわっていた。面長で、鼻筋の通った美しい顔立ち。肌は限界まで白く、細かな毛細血管まで透き通って見える。まるで微睡んでいるかのように、表情は穏やかだ。


「最善を尽くしたのだが・・・・・・」


 医者が肩を落とした。


 嘘だ! 


 僕は、看護師の制止を振り切り、美雪に飛びかかっていった。


「嘘だろ! 美雪!」


 彼女の体はまだ暖かい。しかし、両肩を揺すっても、物言わぬまま彼女の美しい顎先が無造作に揺れるばかりだ。


「りりりーん! りりりーん!」僕は彼女の耳元で叫んだ。「朝ですよお! いつまで寝てるんだい? 起きる時間ですよお! りりりーん! りりりりーん!」


 病室に、看護師たちのすすり泣きが漏れる。

 たまらず嗚咽を漏らした医者が、僕の肩に手を置いた。


「もう、あきらめるんだ。今度という今度は・・・・・・」

「りりりーん! りりりーん!」


 目覚めてくれ、美雪よ!


 君がいなくなった世界に、僕ひとりを置いてけぼりにしないでくれ!


 風よ吹くな! 月よのぼるな! 鳥よさえずるな!


 僕にとって美雪を失うことは、世界そのものを失うのと等しいのだ!


「・・・・・・一ノ瀬くん?」


 僕はぎょっとした。

 暖かな吐息とともに、鈴の音のような声が聞こえたのだ。抱きしめる美雪の柔らかい体から、脈動が伝わってくる。

 慌てて彼女の表情を確かめた。


「どうしたの一ノ瀬くん?」


 美しい眼が僕をはっきりと捉えていた。僕は夢見心地な気分のまま問いかけた。


「美雪、生きているのかい?」


 なんということだろう! 


 彼女は恥ずかしそうに下唇を噛み締め、こくりと頷いているではないか。


「先生っ! 早く診てください!」


 医者が聴診器を手に心音を確認する。


「うむ。生きている」


 診断が下されたのを潮時に、看護師たちはぞろぞろと病室から出ていった。


「ねえ、どうして、そんなに泣いてるの?」

「安心したら、涙が止まらないんだ」

「馬鹿ね」


 美雪はうっとりとしながら、指先で僕の鼻先をつついた。奪うように彼女の手を握りしめる。指は細く、飴細工のように繊細な手をしていた。


「痛い」

「君を離さない。美雪と永遠に二人きりでいられるのなら、僕は悪魔とだって契約するよ」


 美雪の瞳がうるんだ。


「悪い人・・・・・・」


 二人きりになった病室で、僕たちは何かを確認し合うように、互いの目を見つめ続けた。


 そんな美雪が大量の吐血をしたのは、翌日のことだった。

 待合室で文庫本を読んでいた僕は、看護師に呼び出されて病室へと駆けつけた。目に入った光景に、僕は卒倒しそうになった。彼女が吐いた血で、ベッドの周囲は真っ赤に染まっていたのだ。


「今度こそ、駄目だろう」


 血だまりの中に突っ立った医者が、呆然となりながらそう呟く。


「嘘だ!」


 制止する看護師たちをなぎ倒し、僕はベッドの上の美雪に飛びついていった。白目をむいて横たわる彼女は、体を揺するたびに、口からゴボゴボと血を吐いた。


 瀕死状態だが、かろうじて生きている!


 だが、すでにその命は風前の灯だ。


「ピンポーン! いらっしゃいますか? 美雪さ〜ん、いらっしゃいますか? お届け物でーす! ピンポーン! ピンポーン!」


 僕の必死の声かけに、看護師たちがすすり泣く。


「ピンポーン! ピンポーン!」


 美雪よ、返事をしてくれ!


 人生の喜びを甘受するにはあまりに短い年月!


 君にはまだ受け取るべきものが山ほどある!


 せめて、僕の愛だけは、生きているうちに君へ届けたいのだ!


 一ノ瀬くん? 


 僕は耳を疑った。

 麗しいその声色は、まぎれもなく美雪のものではないか。


「美雪、生きているのかい?」


 ゼイゼイと荒い息を吐きながらも、美雪はにっこりと笑ってくれた。

 一方、僕は真顔になっていたと思う。

 どういう表情を作ればいいのか、わからなかったのだ。


「こんな量の血を吐きながら意識があるなんて信じられないよ。一リットルや、二リットルじゃないんだよ」


「強靭すぎる体力だな」医者も同感のようだ。


 美雪の震える指先が、僕の頬を撫でた。


「うん。だけど、もう駄目・・・・・・」


 力ない彼女の言葉を耳にして、途端に僕は動揺する。

 これまで何百回となく死にかけてきた美雪だが、こんなに弱気な発言をするのはめったにないことだ。

 あるいは今度こそ・・・・・・


「美雪ぃ! しっかりするんだ!」


「ハアハア、一ノ瀬くん、最後にお願いがあるの・・・・・・」

 

 美雪は、苦しげに胸を上下させながら、声を絞り出している。


「私、一度でいいから、ボラボラ島に行きたかった・・・・・・ハアハア、だから必ず私をボラボラ島へ連れて行って」


「ああ、もちろんさ」

 彼女との約束を守ることを固く決心しながら、僕は嗚咽を漏らした。

 南国の砂浜で、彼女の骨を撒く自分の姿を想像したからだ。

 細かなきらめきを放ちながら、風に舞っていく美雪の骨。

 なんと絵になる景色だろうか!


「ハアハア、一ノ瀬くん・・・・・・だったら、すぐに飛行機のチケットを予約しておいて・・・・・・早割といって、半年前から予約をしておけばチケット代が格安で購入できるの・・・・・・ハアハア・・・・・・二人分の往復チケットをお願い」


「二人分? 美雪も行くつもりかい?」


「当たり前じゃない」美雪はムッとしている。


「そうだね。でも、今から予約を入れたところで・・・・・・」


 美雪は、不治の病におかされているのだ。カゲロウのように儚い命を持った彼女にとって、半年先なんてものは、要介護のお婆さんに十年先の命を保証するのと同じことだ。

 しかし、『その頃には、どうせ君は死んでいるんだよ』などと正直に告げられるわけがない。

 一体、どうすればいいのだ!

 僕は助けを求めるように、医者へ顔をむける。

 主治医は沈思黙考し、やがてきっぱりと断言した。


「彼女なら平気だと思う」


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