紫陽花
雨が降る。
今年は空梅雨だと思われていた真夏のような茹だるような暑さの中に、やっとこさ訪れた梅雨の雨は、思いのほか冷たくて気持ちがいい。
色とりどりの傘をさし、道行く人達でちらほらと埋まる道路は曇天で薄暗い世界であっても華やかだ。
「はぁー、やだやだ」
雨は嫌い。そう彼女が朝っぱらから顔を歪めて愚痴をこぼす。
湿気でぺっとりとボリュームを失った髪を気にして、何度も手櫛で梳いてはみるが効果はない。
それどころか、その行為のせいで持っていた傘はバランスを崩して、ゆらゆらフラフラ。
見ているこちらが心配になるほど、傘の庇護からはみ出た肩や腕が濡れていく。
「ほら、ちゃんと支えて? 濡れてるよ」
「うー……」
苛立って下唇を噛む。その癖は小学生の時から変わらない。
可愛い仕草。膨れっ面、眉間の皺、潤んだ瞳。怒っているのか泣いているのか分からない幼い子供のような表情。
幼馴染みと言えるほど、そこまで長くは共にいない。それでも五、六年は一緒にいた。だからこそ、彼女の変化は分かる。体の変化も心の変化も、嫌なほど身に染みて分かる。
「あ、みて」
川辺に咲いた紫陽花の群れに彼女がまた一つ、嫌そうな顔をした。
「わたし、これ嫌い」
「……そうだったっけ?」
「嫌いになったの!」
いつだったか、青い紫陽花が綺麗だって言っていなかったか。
薄い桃色の紫陽花を可愛いと言っていなかったか。
彼女が変わる。自分の知っている彼女が知らない所で変わっていく。
「だってね、彼が言ってたの!」
紫陽花はその土壌のpH(酸性度)によって色を変えるんだ。
アルカリ性なら赤、酸性なら青。そのせいかな、紫陽花の花言葉はね――
「『移り気』なんて浮気じゃん」
なんて不吉な花言葉。そう言って、何故か自慢げに彼女は小さな胸をはる。
「だから嫌いなの。浮気の花なんて縁起悪いでしょ!」
「……そう?」
こんなに綺麗な花なのに、花言葉一つで嫌われるなんて酷い話だ。確かに捉えようによっては縁起の悪い花言葉だろう。だが、花言葉など誰が決めたかも分からない、象徴を文字に興しただけの言葉の羅列にしか過ぎないわけで、そこまで嫌うこともないのではないか……と思ってみる。
「あーっ、もーっ! 雨、やだー!」
空から無数に降る細かな水滴が傘に、木に、葉に、紫陽花に、あの子に、私に、当たって弾ける。
この紫陽花は青い花弁。でもその下の紫陽花は紫色で、その隣は赤い花弁。
同じ土壌でも、それぞれの根が吸い上げる成分によって様々に色が変わるのだろう。
(移り気か)
私の前での貴女と、彼の前での貴女も色々と違う所があるのだろう。ああ、そうね。
紫陽花と同じだ。そう、この花と同じなのだ。
「私は、好きだな」
ころころと色が変わる紫陽花も。その花言葉も。好きで、愛しい。
「えぇ……変わってるなぁ。きみは」
「そうだよ。変わってるんだ、私は」
そうして笑って、傘の下から空を仰ぐ。
ぽつり。一粒、目に当たって、指で拭う。
冷たくて気持ちがいい雨だ。
「ほら、行こう」
「うん」
くるりと傘を回して、水滴を飛ばす彼女の背中を微笑ましく見つめながら、一歩一歩、足を進める。
川辺の紫陽花の群れはこの川の終わりまで続いている。
青、青、赤、紫、赤紫、青紫、青、青、赤――
人の心がもしも紫陽花のように色として変化して見えたなら、貴女の心は今、何色なんだろう。
大好きな彼とは違う色をしているんだろうか。
その彼の前ではどんな色をしているの?
それは私よりも綺麗な色をしているの?
「……移り気、か」
移ろうことが浮気になるなんて安直な考えじゃないか。
移ろえばいい。
赤から青に、青から赤に、紫陽花の花弁が変化するように、
(すきよ)
貴女の心も私に移ろえばいい。