どこにでも、ありふれていて。
「ジュゼッペ、きみもインコなみにばかだな」
ネズミはタバスコをぶっかけながら呆れたように首をふった。
「それはきみ自身が考えるんでなくちゃ!」
【トリツカレ男/いしいしんじ】
「わたし、来週いっぱいでやめちゃうから」
塾の休憩時間、待合室の長椅子の隣の少女はそう切り出した。
「転校するんだ、うんと遠くに」
ぼくは急に話しかけられたことに戸惑い、漫画から目を離して彼女の横顔を見つめた。少女は涼しげな顔で携帯を操作している。ぼくは何と返していいかわからなくて、ただ一言「そうなんだ」とだけ云った。生徒が二十人もいない塾で、ぼくと同じ学年の子供は彼女だけだった。けれど、今、この瞬間まで、ぼくらは一度も話をしたことがなかった。
気に入らないとか、そう云うのではなくて、お互いに違う学校だったし、こう云うと大げさだけど、世界が違うんだって、何となく思っていた。性別も違うし、どっちもそんなに喋る方じゃない。ぼくとは通う日にちがズレているので、週に一度しか顔を会わせなかった。正直、名前もよく知らない。確か、先生がスガノと呼んでいた気がする。
スガノさんは、ぼくの馬鹿みたいな返事をどうとも思っていないような顔で、携帯をいじり続けている。その白い頬に、大きな絆創膏が貼ってあった。僕は縋るような気持ちで、「どうしたの、それ」と訊くと、スガノさんは素気無く「学校で喧嘩したんだ。ムカつく子、いたから」と云った。それから、皮肉っぽく笑って、「もう、後腐れもないじゃない?」と続けた。
時計の針の音がいやに響いて聞こえる。ぼくは段々と居たたまれない気持ちになってきた。
「わたし、中学からお父さんの実家のほうに行くんだ。お父さん、お母さんと別れちゃうの。お母さんはロクデモナイ女だから、わたしはお父さんに着いていくんだ」
スガノさんはさらにとんでもないことを云い出した。ぼくはもう漫画から目を離せなかった。スガノさんは何のつもりで、ぼく何かにそんなことを云うのだろう。ぼくに何を期待しているんだろう。頭の中では色んな言葉が湧いては枯れてをくり返していた。どれをとっても安っぽい気がした。
「大変なんだね、スガノさんちも……」
気づけば間を埋めるための、そんなありきたりな言葉を吐いていた。ぼくは自分に幻滅したが、スガノさんはどこ吹く風で、「そうなんだ、大変なのよ、うち」それがぼくには当て付けみたいにも聞こえたし、もっと切実な意味を含んでいるようにも思えた。
「どんな所なの、お父さんの実家」
「誰もわたしを知らない所」
見も蓋もない云い方だった。その気持ちは想像するのは簡単だ。でも、ぼくは今度こそ何も云えなかった。ぼくは彼女のこれまでを知らない。彼女がどんな思いで生きてきたのかを、知らない。お母さんを本当はどう思っているのか、ぼくには何も知る由がないんだ。
「ねえ、自分がいなくなっちゃったらどうなるかって、考えたことある?」
「え?」
「小さな頃、お祖父さんが死んだの。最初はみんな難しい顔して悲しんでるんだけど、半年も経たずに平気になっちゃうんだ。わたしはお祖父さんのこと、好きだったから、ちょっとふさぎこんじゃって、そしたら、いつまで悲しんでる気だって。……悲しいのにも期限を設けちゃうんだよ、みんな。ある程度ね。日常のさり気ない嘘のひとつみたいに」
生き別れも死んだのと変わんないんだよ、きっと、とスガノさんは浅く溜め息を吐いた。
「みんなわたしを忘れてく。ほんのちょっとの時間でさ」
悲しくて当たり前のことを、確かめるように呟いた。
お母さんと離れることをスガノさんが望んでいたとしても、それは学校や塾や見慣れた景色や親しい人達をおいてけぼりにする価値があるのだろうか。そう云う比重の置き方で、考えてやることは出来なかったのだろうか。
黙ってしまったぼくを横に、スガノさんは相変わらず涼しげな顔をしている。その何もかもを諦めきった目の奥で、スガノさんは何を考えているんだろう。
やがて、休憩時間は終わり、スガノさんは先立って歩き出していく。 「なんかごめんね」通り過ぎ様に、そんな一言を残して。
ぼくは、彼女を身勝手に引きずり回す大人達に怒り、何一つ役にも立てない自分の無力さに怒っていた。ぼくの頭の中はぐしゃぐしゃになっていた。
それから、しばらく経つとぼくの怒りも次第に萎えざるを得なかった。
ぼくはまだ小学生だ。力もないしお金もない。無理なものは無理だ。我が儘を云うぼくを、両親はよくそう云って嗜める。無理なものは無理。
そして、矢のように一週間が過ぎて、またスガノさんと会う日が訪れた。
スガノさんは相変わらず涼しげな顔で、いつもの通りに勉強している。顔にはさらに絆創膏が増えていた。きっと、絆創膏の数だけ色んな人と喧嘩をしたに違いなかった。
ぼくも、何も知らないような顔で机に向かう。ぼくには何も出来ない。スガノさんだって、何も望まなかったはずだ。ぼくは、ただ聞かされただけ。スガノさんは、ただ誰でもいいから、身の上を話したかっただけなんだ。だから、まったく親しくもなく害もないぼくが選ばれた。ただ、それだけなんだ。
生き別れと死を同じだと云って諦めながらも、君は抵抗しないではいられなかったんだ。
自分が確かにここにいたって云う、傷痕を残したかったんだ。
たぶん学校にも、そして塾にも。
やがて、休憩時間が来て、ぼくとスガノさんはまたいつもの長椅子に並んで腰掛けていた。いつもと同じ、沈黙と針の音。
「今日までなんだ」
「うん」
「前はごめんね。親しくもないのに、あんなこと云って。だからさ、はい」
スガノさんの差し出した手には飴玉が一個、ちょこんと乗っていた。
「お詫び」
ぼくはそれを受け取ると、すぐに包みを剥がして口に放り込む。イチゴみたいなウソ臭い甘みが口の中にじわじわと広がった。いっそ吐き出してしまいたかったけれど、ぼくはあえて舐め続けた。この甘さこそ、ぼくの無力の証明だと思った。
休憩時間はすぐに終わった。スガノさんはやっぱりすぐに教室に帰っていく。時間を守れる人なのだ。ぼくは、離れていくその背を呼び止めた。「スガノさん」スガノさんが、こちらを振り向いた。云わなきゃならないことがあると思った。舌にはまだウソのイチゴ味が染み付いている。さらに云うと頭の中も真っ白だった。なにも言葉が浮かばない。こんなぼくに云えることはあるだろうか? 思わず目を閉じてしまう。胸がぎゅっと苦しくなった。でも、目を開けてみると、スガノさんの涼しい目元が飛び込んでくる。その、なんだか寂しい色合いが、ぼくの口から様々な言葉を引き摺りだした。
「ぼくは君に何もしてあげられない。ぼくは小学生で、ガキで、力もないし賢くもない。空っぽの空き箱みたいな奴なんだ。でも、君に云ってあげられることはある。
お元気で。向こうでの君の息災を祈るよ。君の云うとおり、すぐに忘れてしまうかもしれないけれど、今この瞬間は間違いなくほんとうの気持ちなんだ。ウソなんか混じらせない。だからどうか、お元気で。さよなら!」
咄嗟に飛び出したすべての言葉が真実だった。
ほとんど一息に云いきると、ぼくらの間には馴染みの沈黙が居座った。ぼくは口の中がカラカラに乾いていた。スガノさんは、なんだかぼんやりとして、ぼくの顔をじっと見つめていた。
そして、不意に微笑んだ。
「ありがとう」
適切過ぎる程適切な言葉を、スガノさんは云った。その後、ぼくらは教室に戻り、いつもの通り講義を受けて、いつもの通りに別れてしまう。いつもと違ったのは、別れ際、ぼくらは握手をして、互いに手を振りあって、勇ましく別れたことだ。ぼくらは、それから会うことはなかった。でも、僕は今でも彼女のことを覚えている。
去年の夏に、友人宅に泊まった時のこと。ひとりだけ眠れずにいて、ふと思い付いた話。初めてスマホのメモアプリに書いた。途中、眠たくなっても、書き終わらずには眠れなくなったのを覚えています。