目覚め
ゆらゆら、ゆらゆら。
音が遮断された静かな空間。とても静かで心地が良い。
目を開いてるのか閉じてるのかも分からない程、真っ暗闇に包まれたそこは、まるで生暖かい水の中に沈んでいるような、はたまたひんやりとした鍾乳洞の中に横たわっているような、そんな不思議な空間だった。
思考がまとまらない。ぼんやりする。私、えーっと……どうしたんだっけ。
あ、そうそう死んだんだ。そんで自称天使の十字郎が現れて、そいつができる営業マン――じゃなくて。あれ、あれだ。転生コースとやらを勧められたんだ。それで、それで……何だっけ。ダメだ。思い出せない。
でも、最後に聞こえた言葉は、なぜかしっかりと思い出せた。
『きっと、貴女なら救えます。世界も、先輩も』
あれは十字郎の声、だったよな。先輩って誰のことだ。世界を、救うって――?
……ああ、そうだ。やっと思い出した。キャンペーンだ。
世界を救えば願いを一つ叶えてくれるって、条件付きの転生。うんうん、思い出してきたぞ――――……。
(って私、記憶ばっちりあるんですけどおぉおおっ!?)
「あばぶばぶううぅううー!!」
――ん?
ゆっくりと意識が浮上する。
初めに見えたのは、古ぼけたランタンがぶら下がる木目の天井。薄ぼんやりとした灯りが周囲を照らしている。
どうやら自分は何かの上に寝転んでいるらしい。フワフワしたものに覆われていて寝心地は最高なんだけど……。えーっと、ここどこ?
とりあえず起き上がろうと腹筋に力を込めようとしたが、おかしい。体が言うことを聞かない。縛られてるとか……じゃないな、これ。どうも動かし難いというか、感覚がバグっているというか……。
ふと思いたって、自分の手を持ち上げ目の前に持ってくる。これは難なくできた。ついでに手をグーパーと閉じたり開いたりしてみる。うん、これも問題ない。
次に寝返りをうってみる。これは少し手こずったが、なんとか成功。ついでに手足をバタバタ動かしてみる。よし、問題なし。
最後に口をパカリと開け、発声練習。
「あばぶあばあうあー!!」
(私赤ちゃんになってんですけどおぉおおー!?)
……ひっひふぅ。待て待て、落ち着け私。
冷静に考えてみたら、そりゃそうだ。転生って、つまり生まれ変わるってことだし。ひとまず虫や動物じゃなくて、人間に転生できたことに喜んどこう。あ、いや。キャンペーンとかで人間に転生できることは決まってたんだっけ?保証がどうとか説明してた気がする。
だけど、前世の記憶そのまま持ってんのはどういうことだ。記憶は無くなりますって言ってなかったか、あの天使もどき。中身アラサーの赤ちゃんとか、ぞっとするでしょ。笑えないからほんとまじで。
十字郎への苦情をばぶばぶと吐き出しつつ、ひとまず現状を把握しようと視線を動かす。
さっき寝返りをうった拍子に見えたのは木の扉。今もそっちを向いて寝転んでるわけなんだけど、他に見えるものと言ったら木の机と少し大きめの窓。それと机の上に置かれた本やらペンやら何かの毛皮やら……。
見たところ、ここは木造小屋の中らしい。人が住んでる形跡はあるし、今世の私にも家族がいるんだろうけど……。現在、部屋の中に人の気配は感じられない。んー、普通赤ちゃん放置して家空ける?
うぎゃあああー!と喚いてみたところで、誰かが来る気配もないし――――。
ガチャッキィーバタンッ
「……」
「……」
――――だ、誰か来たあぁあああー!!
私の目線の先、扉が開いて入って来た男とバッチリ目が合う。チラリと見えた扉の向こうには、緑の木々が鬱蒼と生えていた。あの扉は玄関だったらしい。
手足をバタバタさせてやるせない気持ちを発散していた私は、突然入ってきた男に対する恐怖と緊張でピタリと動きを止めた。
「*****」
男が口を開いたと思ったら、何やら理解できない言語を呟き……、なんとこっちに近づいてくるではないか!!
まさかの海外ガールに転生しちまったのか。いや、ボーイって可能性も……ってちょっ、お兄さんストップ!ストップぷりーず!!
心の中の叫びも虚しく、男は私を見下ろすように側に立った。同時に遠目で見えなかった男の顔が顕になる。その瞬間、私はカッと目を見開いた。
きっと今、私は赤ちゃんながらにポカーンとした顔をしているだろう。男の顔を見て、警戒心やら恐怖心やらはすっかり霧散していた。
な、なななんて、ダンディーなオジサマなのっ!!
歳は40代後半くらいに見える。鋭い目と短く切られた髪はどっちも焦げ茶。程よく焼けた男らしい体躯は服の上からでも無駄な脂肪なんて感じさせない。彫りの深い整った顔立ちは一見気難しそうだが、そこがまた、イイ……。
思わぬ運命の出会いに、先程までの緊張感も忘れ、目の前の顔をガン見する無垢な赤ん坊、もとい私。
「******」
再び口を開いて何やら言ってくる男前。うーん、やっぱり何て言ってんのか分かんない。明らか日本語ではない言語を話され首を捻るしかない。英語、でもない気がする。このイケオジの見た目だとラテン系か?えーまじかー、英語圏以外だと本当にイチから覚えないとじゃん。私英語のテスト、常に赤点だったけど大丈夫かなぁ?
思案に暮れる私を見下ろしていたイケオジは、不意にピタリと口を閉じ、何やら観察するようにこちらを見遣った後、少し躊躇うように目線を泳がせてから、再び口をゆっくり開いた。
「…………記憶が戻ったのか」
「!!」
理解できる言語。聞こえてきたのは日本語だ。
あまりの衝撃に足をばたつかせる。ついでにタンバリンみたいに手を叩いとく。それをどこか引いたように見ていたイケオジは、ふと天井に視線を向けてから何やら思い付いたようにこちらを見下ろす。
「『はい』だったら右手、『いいえ』だったら左手を上げろ」
流暢な日本語でそう言われた私は、ピタリと動きを止める。それを確認したイケオジはゆっくりと口を開く。
「お前は前世の記憶を覚えているか」
はい。右手を上げる。
「十字郎のことも覚えているか」
はい。
「逆に思い出せない記憶はあるか」
いいえ。
「……今の状況、分かってるか」
いいえ!
元気よく左手を上げた私を見て、イケオジは大きな溜息を吐き出す。そして手元の椅子を引き寄せると私の側にドカリと腰を下ろした。
ついでに机の上に置いてあったパイプのような物を咥え、プカプカ吸い出す。そんな姿も絵になりますね!!でも赤ちゃんの側でタバコは良くないと思います!
しばらく沈黙が流れる。私は喋れるほど舌が発達してないので、向こうが喋り出すのを待つしかない。
何やら考え込むようにパイプを咥えて天井を睨んでいたイケオジは、不意に何かを諦めたように息を吐き、こちらを見遣った。
「……俺の名はギルバードだ。お前の事は十字郎から聞いている。奴にお前の面倒を見ろと頼まれた」
渋いイイ声で話す男前の名前が判明しました!!ギルバード……。名前もカッコいいですね!!
「だが俺は基本、面倒事は嫌いだ。お前が自立するまでは世話してやるが、それからの身の振り方は考えておけ」
眉間にシワを寄せて憮然と言い放つギルバード。十字郎に頼まれたと言う事は、ギルバードと私の間に血の繋がりはなさそうだな。ふむふむ。
了承を伝えるために右手を上げると、なぜか更に眉間のシワが増えた。
「……当分はココにいるといい。欲しい物があれば遠慮なく言え」
その言葉にもう一度右手を上げる。それを横目で確認して、ギルバードは椅子から立ち上がった。そのまま扉の方へ歩いて行く。また外に出るのかな?と思っていたら、クルリとこちらを振り返り「……夕飯をとってくる」と言って、部屋を出て行った。
……何をとってくるって?夕飯?買ってくる、じゃなくて?
バタン、と扉が閉まる。はぁと溜息を吐こうとして、鼻からフンッと息が抜けた。なんでやねん。
はぁ~……。とりあえず、当分はこの不便な身体が成長するのを待つしかないってことか。上にぶら下がるランタンを睨みながら、今後の事について思案する。
保護者のイケメンっぷりに興奮してスルーしてたけど、ギルバードは十字郎のことも転生のことも知ってるみたいだった。一体何者なんだろう。って言うか、私産まれてどのくらいなんだろう。まだ歩けないけど視界ははっきり見えるし、寝返りもうてるが……。そもそも、私は誰の腹から産まれてきたんだ?まさかの孤児?だめだ、分からない事が多すぎる。
とりあえず最低限、言葉を話せないことには情報収集も無理か。第一目標はそこかな。決意を新たに、再びフンッと鼻を鳴らす。
ギルバードは小一時間程で帰ってきた。肩に何か茶色い物を乗っけている。それをドサリと床に下ろすと、玄関とは反対方向にあるドアの方へ歩いて行く。クルリと寝返りをうってギルバードの動向を見守る。部屋はここだけじゃなかったんだ。あー、早く歩けるようになりたい。
ドアの向こうに消えていったギルバードが再びこの部屋に入ってきた時には、先程までの服とは違う服を着ていた。着替えてきたらしい。ジーッと見つめていると、ギルバードがこちらに気づき近付いてきた。
「腹は空いてるか?」
腹?自分の腹をポンポン叩く。うーん、言われてみれば確かに空いてるかも。
右手を上げた私を見て一つ頷いたギルバードは、今度は私の足側の方向に歩いていった。もしかしたらそっちに台所的なものがあるのかもしれない。
数分もしない内に戻ってきたギルバードは、手に小さな皿とスプーンを持っていた。椅子の上にそれ等を置いて、私の背中に手を差し込みグイッと起こす。おかげさまで、この小屋の全貌をようやく見ることができた。
思ったより大きな家のようだ。小屋だと思ってたけどしっかりとした木造一戸建てって感じ。思った通り私の足側に台所があって、カーテンらしきもので区切られている。右側に違う部屋へと続くドアが一つ。左側に玄関。ちなみに、私が寝ていたのは木で作られた揺りかごみたいなもので、布が敷き詰められててフワフワもこもこだ。
キョロキョロと周りを見回す私の横に座ったギルバードが、手に持ったスプーンをズイッと私の目の前に持ってきた。
……ん?
差し出されたのは、ドロドロした白乳色の食べ物。恐らくは離乳食とかいうやつだろう。それはいい。
問題なのは、この体勢だ。こ、これはいわゆる、アレじゃないか……?
「おい?」
怪訝そうにこちらを見るギルバード。いや、分かってます、食べますから。
恐る恐るそのスプーンを咥え、あまり美味しいとは言えないお粥のような物を飲み込む。するとまた新たなドロドロが私の前に運ばれてくる。
……う、うぅうっ。は、はずい!
これは、いわゆるアレだ。「あーん」だ。
くぅううっ!いくら見た目が赤ちゃんでも、中身はアラサーなんですけど!?しかも食べさせているのはワイルドな男前。な、なんのご褒美ですか!?……おっと間違えた。なんのご褒美ですか!?あれれ、また間違えたゲフゲフンッ。
うぉおおおー!!と内心悶えまくる私を知ってか知らずか、淡々と機械のようにご飯を運び続けるギルバード。す、すみません。ちょっとペース早いっす……。うっぷ。
気の遠くなるような羞恥タイムがやっと終わりグッタリと横になる。なにか大切なものが失われた気分だ。
そしてご飯を食べると眠くなるのが赤ん坊というものらしく。ウトウトしてきた私を見て、ギルバードが少しだけ眉を下げた。
「……おやすみ」
小さく呟かれた言葉に何か言おうと口を開いて、しかし何も言えないまま、私は目を閉じた。
朦朧とした夢の狭間、思い出すのは前世の記憶。
それなりに頑張ってきた人生だったと思う。稼ぎ頭の母親を早くに亡くし、生活は常にカツカツだった。体の弱い父親の治療代を稼ぐために、双子の弟の学費を稼ぐために、中学を卒業してすぐ就職して一生懸命働いた。お金のために、他人のために、人生を捧げた。
平凡な人生、と言うには貧乏だったけど。後悔は、全くない。私は幸せだった。伊藤千世の生き方はこれで良かったんだって、自信を持って言える。
だけど、うん。やっぱり私は、疲れていた。
子供を助けて、それで死んだんだって自覚した瞬間、限界まで張っていた糸がプツンと切れたみたいに、気が抜けた。これ以上は頑張れない、もう一回生き直すなんて御免だと、そう思ったんだ。
でも結果、私はもう一度命を与えられた。与えられてしまった。……なら、どうするか。
これから私は、新しいこの体で、転生して良かったと思える人生を歩むのだ。最期に「楽しかった」と笑って死ぬ、そんな人生を。
世界を救うだとかは一旦置いといて、私は今度こそ――“自分のため” に生きる。
今世も、後悔なく死ぬために。