巡る
思考がループしていることに気づくことがある。
回帰といったほうが正しいのかもしれない。もしかしたら、再帰。正直そんなことはどうでもいいのだけれど、言葉の意味を教えてくれるはずの先生は、僕にとって不幸なことに、もうここにはいない。
照明の落とした、出口のない暗い部屋のなかで、僕は白い壁のディスプレイに映し出される映像を眺めていた。鈍色に包まれる高層建造物群の頭上、浮かび上がっていく藍色の風船、音もなく空を舞いあがるそれをしばらく追っていたカメラは、やがてゆっくりと頭上に向かってフェードアウトして、濃紺の空に風船が弾けたのちに、視線はぐらりと傾いで次の瞬間に地面にたたきつけられる。横たわったコンクリートの上に投げ出される左手がぼやけ、ディスプレイは暗転。部屋は暗闇に包まれた。
僕は息を詰める。
再び画面が白く塗りつぶされたかと思うと、再生終了の音声とともに、ビデオデッキが騒々しい音を立てながらテープを巻き戻しはじめた。僕は止めていた息を吐き、けれどなぜだか視線をディスプレイから外すことができない。部屋の中央に置かれたパイプ椅子の上で、僕は微動だにせず、ただ真っ白な画面へ視線を注ぎ続ける。途方もなく長い時間ののち、なにもないはずの白い画面になにか模様を見出しそうな時頃になって、ようやっとテープの巻き戻しが終わり、それからぶつりという音がして、再びディスプレイが暗転する。
*
「サルベージ?」
僕はそう聞き返した。
ゆったりした音楽の流れる喫茶店の隅で、澄ました顔でコーヒーを口にする眼前の少女に、僕はそう訊ね返す。髪を後ろで二つに束ね、紺色のセーラー服のスキンを纏った少女。
普通、という印象が強く脳裏に刻まれる。取り立てて美人というわけではない。ある程度整った顔立ちに、高校生として模範的であろういでたち。印象という印象がそぎ落とされたような、普通、という印象以外があまり頭に残らない……。
そんな彼女は口からカップを離して僕の言葉にこくりと頷くと、それからカップをソーサーに置いて、脇の学生鞄をごそごそと掻きまわし始めた。鞄状の、具象ストレージ。僕は少女のアナログかつ、時代錯誤な趣味に若干の戸惑いを覚える。
「これ、見てもらえますか」
しばらくののち、彼女はそう話しつつテーブルに一つのオブジェクトを置いた。目を落とすと、それは角砂糖大の透明な立方体で、内部にはうっすらと虹のような色染みが浮かんでいる。
「カラーセル」
僕はそう呟く。大昔の記憶媒体だった。バーコード、QRコードのように、空間に配置された色の並びによって情報を保存する記憶媒体。なぜこんなものを見せるのか理解できずに少女へ怪訝な視線を送り、少女は僕の視線をどう勘違いしたのか、神妙な面持ちで頷いた。
二人の間に沈黙が降りた。少女の視線は僕の顔に真っ直ぐに注がれており、僕はついに気まずい空気に耐え切れずに視線を再びカラーセルへ落とす。硬質な材質の面が窓からの陽光を反射して宝石のように輝き、テーブルへは極彩色の影を落としていた。
おそらくかなり古いモデルだ。カラーセル自体が既に衰退した記憶媒体でもあるし、その上わざわざこうして既製品をシミュレートする意図も量れないけれど、僕にはこのモデルが、カラーセルのなかでもひときわ古く、そしてその時代でもっとも普及したものの一つであることを知っていた。
「……これを、どうすればいいんですか」
再び顔を上げて訊ねると、彼女はわずかに考えあぐねるような間を空けたあと、「どう、……すればいいのでしょう」と答える。
「どこから説明したらよいかわかりません。とても大切なものが入っています」
「とても大切なもの……」僕が反芻すると、少女は「ええ」と相槌を打った。
大切なもの、個人識別情報、記憶、通帳などの資産情報、だろうか。少女はどう説明するべきか考え込んでいるようで、大切なもの、という言葉に、僕はとりとめなく内容を思い浮かべる。
流れていた音楽が余韻を残して薄れ、数瞬の沈黙ののちに、再び次の曲が流れ出した。ピアノの独奏、静かな落ち着いた響きに、僕はしばらく黙って聞き入っていた。
やがて、少女は意を決したように口を開く。
「“魂”、です」
僕は首を傾げる。「魂、……?」おうむ返しにそう呟くと、少女は「魂です。それが一番近いと思います」と答える。
「魂という呼び方は適切ではないかもしれません。魂は人間を構成するうちで、唯一データ化することのできないコンポーネントですので、入っている、という呼び方も正確ではありませんし……」
少女はそういってしょんぼりとうつむいた。「どう呼べばよいのかわかりません、けれど、彼は今もそこにいる、それは確かなのです」うつむいたままでそう続け、湯気の立たなくなった彼女のコーヒー、もったいないな、僕はぼんやりと場違いなことを考えていた。
「よくわかりません。……僕は何をすればいいんです?」
しばらくののち、僕の問いに、少女はやはり当惑しきった顔で応じる。
「サルベージです。……彼を復元してほしい。それがあなたへの依頼のすべてです」
「復元……、魂から、人を……?」僕の答えに、彼女は再びこくりと頷く。
僕は困惑して息を吐きながら頭上を仰いだ。つやがかった石の天井は、店内に差し込む陽光をぼんやりと照り返している。天井の石の継ぎ目に視線を這わせながら、サルベージ、僕は彼女がなぜ僕にこのような依頼をするのか考えていた。僕は、別段プロそういう職業というわけではない、そういう作業に秀でているわけでもない、全くただのどこにでもいる取るに足らない高校生、だというのに……。
やがて僕は再び視線を手元に戻し、カップの取っ手を親指でなぞりつつ口を開く。
「……誰なんです、彼って」
僕の質問に、少女は少し考えるような間を開けて、「いえません」と答えた。
「なぜ。復元するのなら、後からどうせわかるはずではないですか?」僕はぬるくなったコーヒーを攪拌しながらそう訊き返す。
「そうですね、後でわかることです。……しかし今は答えられません、今答えると大変なことになるのです」
「…………」
大変なことになる。僕が不信感を込めて目を向けると、少女は僕の視線から顔を逸らすように手元へ目を落とす。
再び降りる沈黙。少女はすっかり冷めきったコーヒーの黒い水面に、ただじっと注視している。それから僕が無遠慮に少女をじろじろ観察しても、彼女は水面になにか面白いものでもあるかのように微動だにせず、僕はやがて観察するのにも飽きて、溜め息をついて窓の外を眺める。
林立する高層ビルと高架街道の合間を、無数の白い鳩の群れが横切っていく。向かいのガラス張りのビルに濃紺の青空が反射して、そこに映り込んだ太陽から差す陽光が僕らのいる喫茶店に届いていた。新都駅ビル二六三階の喫茶店、視線だけ動かして下方を見下ろすと、新都駅前ロータリーを一望でき、高架街道の広場にごま粒ほどに小さな人影が往来しているのが見える。
視界をフォーカスすれば、行き来している人々の一人一人の顔を、それも細部まで見分けることができる。鮮明な、超高解像度の背景情報。僕はしばらく彼らの顔を順に追っていたけれど、やがて一切の表情のないそれらを眺めるのに嫌気が差して、僕は再び眼前の少女に向き直った。ぎこちないけれど、少なくとも感情のあるその顔に、僕はわずかに温もりを見出していた。
「……やります」
やがて僕がそう答えると、少女はかすかに目を見開いて僕の顔を見つめた。「あ、……本当ですか」上の空な表情でそう訊き返し、僕が頷くと、少女は思い出したように、ありがとうございます、と礼を述べた。
「サルベージ、僕でよければ。わざわざこんな深層まで潜ってくださった方を、無下に追い返すのは心苦しいですから」
僕の言葉に、少女は少し戸惑った表情を見せたあと、やがてふわりと照れくさそうな笑顔を浮かべる。「そう、ですね」その表情を見て、――彼女は人間だ、僕は無意識にそんな確信を抱いていた。
*
一面の真っ白い大地を、僕と少女は二人きりで並んで歩いている。
痛いほどの静寂の中、僕と彼女の硬質な足音だけが周囲に響いている。まるで雪が覆い尽くしたような真っ白い空間、頭上には濃紺の空がどこまでも広がり、真上には太陽が眩しく輝いている。
――その必要はない、と少女は告げたのだった。真っ白な大地を、ただ無言で歩いているのにも嫌気が差して、僕はぼんやりと彼女とのやりとりを思い起こす。
「サルベージ、具体的にはどうすればいいのですか」
コーヒーの代金を自動清算して喫茶店を後にしてから、僕らは新都駅ビルをあてどなく歩いていた。僕の問いに、少女は、「……まず、カラーセルの中のデータを展開します」と答える。
「中のデータ……、魂、では?」
僕が問い返すと、少女は横に首を振る。
「先ほども言ったように、魂自体はデータにはできないのです。確かに魂と呼べるものも入っているのですが、セルに記述されたデータ自体は別の物です」
「はぁ……」
僕は首をひねる。カラーセルに魂が入っているという話も、正直にいえばいまひとつ信用できないけれど、それとは別に、入っているデータ自体も展開しなければならないという。「展開……できますよ。一応、カラーセルのデータ読み込み用のアプリなら入れてあるので」僕がそういってアプリのアイコンを可視化して見せると、少女は一瞥して「そのアプリでは展開できません」と即答する。
「なぜ」
僕がそう訊ねると、少女は少し考え込むような仕草を見せる。
「この中のデータは、独自の書式で記述されているのです。あなたが持っているそのアプリや、他のソフトでは読み込むことさえできないような」少女はそれから立ち止まり、セルをつまみあげてこちらにかざして見せる。「見てください、色、……多いとは思いませんか?」
促されるままにセルをよく覗いてみると、先程は気づかなかったけれど、言われてみれば確かに、僕の記憶の中のカラーセルとは色の数が段違いに多いように見える。赤、青、緑、……といったように明快な色相の差ではない、綺麗な虹色のグラデーション。ネットのどこかで見た、オパール、という宝石に近い色合い。
「魂、……霊質というものが実際に存在するという正当性のある証明はいまだになされていません」
新都駅ビルの上層フロア、そう言った少女の背後は一面のガラス張りで、僕が覗くカラーセルに、外から差し込んでくる陽光が透けて、美しい虹色の光彩に、僕は思わず見惚れてしまっていた。
「しかしながら……」
彼女は構わず言葉を続け、虹色の色彩をずっと眺めていたい、僕はその欲求を抑えてセルから視線を離し、彼女はそれを再び懐に仕舞った。
「しかしながら、ほんの一部、わずかに氷山の一角ではありますが、魂の、その特性は解明されているのです。生体情報や、環境情報、安定に魂の存在しうる、すなわち、……いわば“世界”、のようなものが、このセルには記述されています」
「世界……?」
僕が反芻すると、少女は「ええ」と頷き、僕を先導して再び歩き出した。ガラス張りから差す陽光を背に受け、セーラー服の紺色が白に塗りつぶされる。
モールの看板が目につく入口から階段を上りきると、いつしか僕らは人々の行き交う広いロビーに行き当たった。広場から十字に通路が伸び、そこから吐き出されるそれぞれの流れがぶつかり合い、広場は混沌としている。彼女はいつの間にか雑踏に紛れ、それなのになぜだか人混みからひときわ浮き上がって見える紺色の背中を追いながら、微かに聞こえる彼女の言葉を聞き漏らすまいと必死に努める。
「世界、正確にはその一場面を切り取ったもの、さらに言えばその種というべき情報に過ぎないのですが。……実際にその世界の中で活動するには、専用のシミュレータで環境情報から世界という枠組みを再現しなければならないので、彼にいま意識はありません」
少女は僕の数歩前方を歩きながら、かと思えば時折くるりとこちらを向いて後ろ歩きをしたり、雑踏の中をくるくると、まるで話しながら踊っているようにも見える。
「疑似体――人間の機能を限りなく再現した疑似体のサイズをあなたは知っていますか?」
広場をせわしなく往来する人々の間を縫って、僕は彼女の姿を見失わないように必死に追いかける。疑似体のサイズ……、いま僕が纏っているものも疑似体のひとつではあるけれど、彼女が言ったような、それほど高級なものではない。「知らない……」僕がそう答えると、雑踏を抜けた先、十字の通路のなかでも新都駅ビルから抜ける連絡橋のひとつ、その手前で少女は再び立ち止まってこちらを振り返る。僕がようやく追いついたのを認めて、少女はいたずらっぽく微笑んでから、「ふふっ、実は私も知らないんです」と答えた。
「私たちが使っているこの疑似体はもちろん、電脳化した私たち自身のデータさえ、現実の私たちと比較すれば、圧倒的に情報を落とされているのです」
雑踏を脇に、僕らは並んで連絡橋を歩きだした。彼女の言葉を耳に入れながら、僕は連絡橋の窓から林立するビル群を眺めていた。日はいくばくか傾き、橙みがかった太陽が向かいのオフィスビルの頭上に差し掛かっている。
ふと、少女は立ち止まった。僕は少し遅れて立ち止まり、振り返ると、彼女は窓の外へ視線を向けていた。視線はどこか遠くの方に注がれている。
「……けれど、このカラーセルに関して言えば、彼と、彼の世界を再現するために必要な環境の規模は、この新都駅西区画サーバーで見積もっても、それこそいくつあっても再現しきれないほどでしょう」
僕は絶句する。あの小さなカラーセルの中に、それだけの情報が詰まっているというのか。僕が顔をひきつらせていると、彼女は微笑みながらこちらを向いて、「そう、……仮にあなたのアプリで展開できたとしても、とてもあなたの個人用ストレージに納まりきるほどの規模ではありませんね」そう冗談めかして言った。
「なら……」僕は唾液を飲み込む。「なら、どうするんだ?」
僕は口でそういいながら、それだけの規模の環境を整えることなど到底できはしない、そんなことは不可能だということを知っていた。新都駅西区画サーバー、この巨大な空間をシミュレートしているサーバーさえどれだけのものか知れないのに、けた違いのオーダーの環境など、準備できるはずがない。
「問題ありません」
少女は短く言った。「なんだって?」僕が思わずそう訊ね返す、彼女は再び「そのことについて懸念する必要はありません」と答える。
「私が所有している空間を使います」
少女はそれから僕の怪訝な視線を意に介さず、連絡橋の終端、非常用扉の前に立ち止まる。
「このあたりでいいでしょう、……少し待っていてください」
火災などの非常時にのみ閉じるはずで、さらにいうと、仮想現実空間であるこの世界では不要なはずの非常用扉は、今やなぜだか固く閉ざされている。巨大な扉の片方に設えられた等身大の通用扉の前で、少女は眼前にコンソールを呼び出し、「『あい』」と短く呟いた。
――あい。僕は口の中で小さく反芻する。愛、亜衣、……それとも藍、だろうか。彼女が行ったのは、名乗り――ずいぶんと古い時代の認証行為だった。あい、それが彼女の名前なのだ。僕は少女から依頼を受けてから、今になって、初めて彼女の名前を聞いたことに気が付く。
認証が完了してから、少女はそれからコンソールを操作しながら、しばらくぶつぶつとコマンドを呟いていた。中空には見慣れない画面をいくつか展開し、僕がそれに口を挟もうとする少し前に、彼女は操作を終えてこちらを振り返った。
彼女は右手を差しのべる。
「手を」
半ば無意識に彼女の手を取ると、もう一方の手で彼女は扉に触れた。音もなく扉が開く。
そして次には、照りつける陽光。
僕は思索をやめ、意識を戻す。
真っ白い地面からの照り返しで、僕は頭がくらくらするような感じを覚えていた。別段暑いというわけでもない、地面を覆っているのは雪ではなくただの白いテクスチャではあるけれど、感覚自体はまさに雪原を歩いているような――。
「雪、見たことはありますか?」
唐突に、少女がそう切り出した。それまで全く無言だったことに加えて、まるで僕の思考を読んだような文言に、僕は少し面食らって、少女の顔をまじまじと見つめる。
「見たことはあるのですか? 雪」
再び繰り返す彼女の問いに、僕はしばらく逡巡して、「あ、……いや」と言葉を濁した。
雪、僕は思い起こす。
……雪、見たことはあっただろうか。この白いテクスチャの大地を、まるで雪原のようだ、僕は自然にそう感じた。大地を真っ白に覆う雪。けれど、そう、明確に雪原というものを、僕は自分ではっきりと目にしたことがあっただろうか。
「えぇと」
自分の目で、もしくは、仮想現実の疑似体験で。
僕が答えあぐねていると、少女はふいと目を逸らし、「そろそろです」ぽつりとそう呟く。
彼女の視線の先へ目を向けると、白い地面の上に、携帯端末ほどの大きさで、赤い色の模様が描かれているのを認めた。少女はすたすたとその模様へと歩み寄り、「ここです」と告げる。
少女は懐からカラーセルを取り出し、ひとことコマンドを呟いて、セルを中空に差し伸べる。彼女がカラーセルからゆっくりと指を離すと、カラーセルはそのままの位置で中空に固定される。
――浮いてる。
思わずそれに触れようとすると、横から少女の手が伸びて、僕の指を掴んだ。
「始めましょう」
そのまま彼女がもう一方の手とともに僕の右手を包み、「な、何を」僕の戸惑いの声を全く意に介さず自身の右手を持ち上げ、人差し指を僕の額へと据える。
衝撃が走った。
彼女の唇が僅かに動いたけれど、彼女の言葉が耳に届く前に、僕の意識は吹き飛ばされた。
*
雨。
窓、ガラス。に、雨が伝っている。
雨が、窓ガラスをたたき、雨滴が窓ガラスを伝って下方へと滑っていく。
自覚を取り戻すとともに、僕は弾けるように立ち上がった。椅子が後方に滑る。
咄嗟に腕時計を見る。四時四十二分。
窓の外は明るい、……から、おそらく午後だろう。
節々に走る痛み。僕はどうやら微動だにせず窓に張り付く雨滴を見つめ続けていたようだ。自覚とともに、記憶を取り戻していく。
――記憶?
誰の?
手元を見やると、冷たくなったコーヒーの乗ったトレーがテーブルに置かれていた。脇にはレシートがあり、値段を日時を見ると、一時五十分。五月七日。
順当に考えれば……およそ三時間弱、僕はこの喫茶店にいたようだ。それとともに思い出す。午後二時少し前、僕は確かにコーヒーを注文し、このトレーを受け取った。自覚のない記憶が僕の脳裏に蘇っていく。
ゆったりとした音楽が周囲を満たしている。
なんとなしに、僕は視線を窓際の四人席に向けた。向けた、というよりも、無意識に視線が吸い寄せられた、というべきか。けれど、駅前のロータリーが良く見えるその席には、今は誰も座っていない。
視線をさらにずらしていくと、どうやら喫茶店は無人のようだった。誰もいない、閑散とした店内に、ただ柔らかいピアノの音だけが響いている。
無人の店内に、僕はなんとない嫌な感覚を覚えて、僕は店を出ることにした。冷たいコーヒーを一気に呷り、トレーを片づけて店を出る。視界にポップアップした退店時メッセージを払いのけ、行き当たった通路を僕はあてどなく歩き始める。
新都駅ビルは静寂に包まれていた。
閑散とした駅ビルのなかに、ただ僕の焦った足音だけが響き渡り続ける。完全に遮断され切らない雨音が完全な静寂を防いでおり、心細さを幾分紛らせてくれる。
縦横に延びる連絡橋と、モール、広場、まるで迷路のようだ。良く知る新都駅だけれど、人がいないだけでさえ、まるで別世界のように感じる。
雨脚が強くなっていく。