きみだけに 上
「…………千鶴姉さん、起きてる?」
彼は月明かりの下でそっと千鶴の名を呼んだ。彼女は長い髪を耳に掛けると、顔を埋めていた毛布から顔を上げる。
「うん。起きてるよ」
「俺が起きてる内に頼み事……いい?」
掠れた小さな彼の声。
意識が戻ったりなくなったりを繰り返す彼の世話を彼の兄と分担する千鶴はただ愛しい子の髪を指で鋤いた。
「いいよ」
千鶴が翡翠を揺らすと、彼は微笑する。
「ありがとう。頼み事はね…………―」
彼の頼み事は沢山あった。
どれも他人のことで、けれど、たった一つだけ自分のことだった。
静かに泣きながら彼は私に頼んだ。
「秋!」
千鶴が秋の衣服を畳んでいると、美少女風美少年が病室に飛び込んできた。そして、フンフンと鼻を鳴らしながら髪型を手鏡の前で整えていた秋に飛び付く。
「!!!?」
腰掛けていたベッドに倒れた秋はぐぇと喉を蛙のように響かせる。千鶴は畳む手を止めると、幼なじみの下で伸びている秋の手から危なくないようにと鏡を取った。
「なん、で…お前…が」
「秋が好きだからだよぉ」
ぼろぼろと涙を流す秋の幼なじみの修一郎は秋のパーカーの胸に顔を押し付ける。秋はそれを怒るどころか、むすっとした表情で修一郎の背中をぽんぽんと叩いていた。
「秋いいいぃぃ」
「あーもう、泣き虫が」
「あっちゃんのツンデレえええぇぇ」
「おい!然り気無く『あっちゃん』言うな!」
いやそこは“ツンデレ”の方にツッコムべきでは?
と、大欠伸の冬が騒がしい秘書を外に置いて現れる。
「秋、千鶴ちゃんに自分のパンツ畳ませて恥ずかしくないのか?」
「は?俺のパンツ…………いーっ!!!!!?」
やっと正常な判断ができるようになったらしい秋は目を剥いて千鶴の手からパンツを奪った。
「秋のパンツぐらい僕が畳むよ!秋は一応安静に…―」
「畳むな!変態が!!!!安静にできるかってんだ!」
秋のパンツ柄ににやける修一郎が、びしばし鳴る秋の平手打ちで秋に重なって更にベッドに崩れる。秋は再び喉の奥から絞り出すような声になり、修一郎は本当に嬉しそうな顔で秋に抱き付いていた。
千鶴はちゃっかり秋のベッドに無造作に捨てられたパンツを畳むと、大きな鞄に全てを入れきる。
「秋君、修一郎君、私は先に帰るからね。先生にちゃんと挨拶するんだよ」
「ああ、千鶴ちゃん!俺が持つよ」
そして、ぷるぷると手首を震わせる千鶴から鞄を持った冬も、そのまま病室を出て行った。
「本当は退院なんてさせたくねぇ」
口悪っ!
ボサボサの染めた金髪を掻き回してコーヒーを啜るのは秋の担当医であり、秋と妙に仲のいい医者。
「秋君はあんなに元気なのにですか?」
「だっておかしいだろ?あいつは死ぬかもってとこまで衰弱していた。それが昨日今日で10代の若者だ。ちっ、羨ましいぜ。俺も若くなりてぇ」
「………………」
パッと見、俺より若そうな顔してムカつくこと言いやがる。
俺は何とも言えずに顔がひきつるだけだ。
「あの、秋君の具合が少しでも悪くなったら直ぐにここに連れてきます。だから…―」
「退院オッケーだ。あんたが秋の傍にいるんなら」
「ありがとうございます!」
千鶴ちゃんの花咲くような笑顔。綺麗な笑顔。
医者ってのはきっとこれを生き甲斐にしているのだろうなと思った。こんなに溢れんばかりの笑顔を貰って医者になって良かったと思わないやつはいない。
「薬は続けて飲ませてくれ。あと、暫くは週一で検査をするから」
「はい」
千鶴ちゃんがしっかりと頷いた。
「アダルトなカンバセーションですね」
なんだそれは。
ジャパニーズイングリッシュか?
「サムライイングリッシュと呼んでくださいよ」
「俺の心情にツッコミをいれるな!てか、俺の弟と弟の親友のあれこれを怪しくすんな」
「あれこれってなんですか!知ってるんですか!」
「煩い。黙ってろ」
「アダルトな盗み聞きですね。ヒドゥンヒヤリング?」
「うぜぇ!」
一々出来立ての英語を披露しなくていいわ!
そう、この小五月蝿い阿呆は俺、琴原冬の秘書だ。秘書という役職だが、まぁ、腐れ縁の悪友とでも言っておく。
俺と警視庁に所属するインテリメガネエリート様の鳥飼総祐と、その部下で無口で強気美人の榛葉結子。
そして、この阿呆の落合一喜は大学時代の同期で毒草研究会のメンバーだ。
そんなことはどうでもよくて、今、俺と落合は俺の弟の秋の病室だった病室の前にいる。
病室“だった”のは今日で秋が退院だからだ。
約半年の入院生活。その間に秋は誕生日を迎えて18となった。
大学受験はというと…………また来年だ。卒業証書はどうにか貰えるらしいが、そのことを訊ねに学校に行けば秋の元カノとやらから花やら菓子やらをどっさり渡された。
序でに俺に告白してきた子もいた。あくまで序でにらしい。勿論、俺は断った。千鶴ちゃん一筋だからな。
てか、“序で”ってなんだ。
『秋、胸とか苦しくない?』
『お前がのし掛かってて重いんだけど』
『秋を堪能中なだけ』
『シャツ捲るな!てか、顔が近い!』
『退院祝いに』
『お前、「自分からはしない」みたいなこと言ってただろ!』
『僕は秋のファーストキスが欲しいの!他の人に取られないように一分一秒も待てないよ!』
何て男前なんだ。
しかし、相手が男だ。
それも、俺の弟だ。
『ちょっ!!!?近いって……………んっ…』
“んっ”!!!!!?
「琴原、ヤバい!」
「琴原じゃなくて琴原先生だ……じゃなくてヤバいな」
ファーストキスが奪われたようだ。ま、敢えて言うなら本当のファーストキスは海で溺れた4歳の秋を助けて意識不明だったから拙く人工呼吸をしてみた俺が相手だ。
よく考えれば春も夏も俺がファーストキスの相手か。
すまんな、弟達。
因みに、俺のファーストキスの相手は妹だ。かつ、妹のファーストキスの相手も俺だ。
すまんな、慎君。
『あっ……修一郎…』
『秋……』
「ぎゃーエロい!」
「エロいどころか……」
ベッドがギシギシ鳴っている。
これはセカンドステージ突入かも。
「いいんですか!?お兄さん!男同士ですよ!?」
「それも我が弟が修一郎の股に敷かれている」
「股言うな!キモい!」
落合がマジで五月蝿い。
俺は秋の蜜月が修一郎とでも構わない。寧ろ、麗しの乙女だった秋がイケメンの夏と『禁断の双子』みたいな展開をしなくて安心しているぐらいだ。
いや、男同士は駄目か。
「助けるべきか助けないべきか」
「兄が助けないを考えるなよ!」
「じゃあ、お前が助けてこい」
「え?いいんですか!」
「そこで何でお前は嬉しそうなんだよ」
「だって俺が学校に送る度にぴっちぴちの女子高生に囲まれてるんですよ!?それに、その女の子達を下の名前をちゃん付けで一人一人呼んでるとか許せない!」
東京では秋を学校まで車で送る落合はかなり真剣な表情をしているが、俺にはモテない男のうざったい嫉妬にしか聞こえない。
『しゅうっ……ちょ……』
『秋、もっと先を見たい』
『俺はっ……』
“俺は”?
「俺はまだ見終わってないんだよ!!」
落合が興奮気味に開け放したドアからは、弟の友達を殴る姿が見えた。
どうしてあんな暴力馬鹿に育ったのだろうか……。
修一郎に人気少年マンガを大人買いさせていた秋は黙々と一巻から読み始め、修一郎は暇そうに他の巻を拾い読みしていた。が、重要な一巻が読めてない彼は秋を押し倒したらしい。
そして、結局、修一郎はキスはできていなかったようだ。
「盗聴とはいい度胸だよな?落合サン」
「イヤだなぁ、秋クン」
バチバチと火花が散る錯覚を思わせる二人。今にも互いに掴み掛からん勢いだ。
「秋、暫くは週一で検査あるからここだが、その後はどうしたいんだ?」
「………………俺、働く」
「今のお前じゃアルバイトだな」
「それでいい。俺、大学行くための金は自分で作る」
「お前なあ、大学行く金くらい我が家から出す」
「兄貴、いらない。もう俺の為に十分使ったから」
冗談なんて欠片もない真剣な表情で冬ではないどこか遠くを真っ直ぐ見詰める秋。修一郎がじっとそんな秋を見ていた。
「医者になりたい。命救える医者になりたい」
「医者になりたいなら勉強に集中しろ。バイトなんてしてる暇があるなら勉強だ」
「兄貴!」
納得したくないらしい秋が声を荒げる。
「それだと気に食わないなら、俺が用意するバイトなら許す」
あくまで冷静な冬は先を促す秋に背中の落合を摘まんだ。
「おおお!」
「バイトって何?落合サン?」
訝しげな秋の目。
「“落合サン”ってどんなバイトだ。いいか。バイトってのは俺の手伝い。手伝いとまではいかないな。雑用係だ。どうだ?バイト代も出すぞ?」
「それって意味ないし!家の金を循環させてるだけじゃん!」
「よく気付いたな」
「なんだよそれ!」
秋のツッコミに冬は冷静に対処する。
「そこで“落合サン”だ。お前が俺の手伝いをすることで得られるメリットは、この頭脳明晰の兄と“落合サン”に勉強のご教授をいただけるぞ。塾代に家庭教師代、はたまた冷暖房代の削減に繋がる」
「兄貴はともかく、落合に勉強なんて……」
「残念だが、落合は俺より大学卒業時の成績は上だ。体育でたった1の差だがな」
「は!?兄貴より!?」
「思い知ったかな?弟クン」
「ただし、俺が寝ていた英語の成績も、真面目にジャパニーズイングリッシュを追求していた落合と同じだ」
「サムライイングリッシュだ!」
真面目に訂正を入れる落合。
「つまり、英語は聞くなという意味だ」
そして、冬が締め括った。
08/08、10:00頃に(下)の投稿をする予定です。m(__)m