「旅路の極意」
草原を二時間歩いた。
マップの灰色はかなり埋まった。東西南北を一通り歩き、主要なランドマーク──枯れた巨木、湖のほとり、風車の廃墟──を発見し、宝箱を三つ開け、旅人の石碑を五つ回収した。
銀月の鹿にも七回会った。友好度は7/100。あと九十三回。気長にやればいい。
フィールドの南端に、崖があった。その先は霧に覆われていて、進入不可の表示が出る。まだ解放されていないエリアだ。
崖の縁に立って、下を覗き込む。霧の切れ間から、遥か下方に別の地形が見えた。森のようだ。いずれ行けるようになるのだろう。
──楽しみだ。
崖の縁に腰を下ろした。足を投げ出して、二つの月を見上げる。
こういう時間が好きだった。目的地もなく、誰にも急かされず、ただ世界を眺めている時間。
ステータス画面を開いた。普段は見ない。数字に興味がないからだ。だが、今日は少しだけ気になった。あのレイドの後、自分の数字がどうなっているのか。
【プレイヤー:トワ】
【Lv1 / 職業:旅人】
【HP:120 / MP:80】
【ATK:48(基礎値)+ 8,924(旅路の極意)= 8,972】
【DEF:31(基礎値)+ 8,924(旅路の極意)= 8,955】
ATKとDEFの大半を占めている「旅路の極意」の数値。この8,924という固定値が、トワの強さの根幹だった。
スキル名:【旅路の極意】
公式説明文:──(説明文なし)
このスキルには、説明文が存在しない。スキル欄に表示される名前の横には、ただダッシュが一本引かれているだけだ。
解放条件:旅人として累計1,000時間プレイすること。
BCOのサービス開始から二年。旅人の平均プレイ時間は約三時間。1,000時間という条件を満たしたプレイヤーは、トワ以外に一人も存在しない。だから、このスキルの存在自体を知る者がいなかった。
真の効果:ゲーム内での総移動距離を固定値としてATK/DEFに加算する。
七千時間、歩き続けた。エルディアスの全マップを踏破した。山を越え、海を渡り、砂漠を横断し、地下迷宮を歩き通した。
その全ての距離が、数値になっている。
Lv1の基礎ATKはたったの48。だがそこに8,924が加算される。合計8,972。
参考までに、Lv90の剣士──BCOのトッププレイヤーの平均ATKは約7,500。
Lv1の旅人が、最前線の剣士を上回っている。
しかも、この数値は歩けば歩くほど増え続ける。レベルキャップに縛られない、青天井のステータス。
──冬夜はこの数字を見ても、特に何も感じなかった。
強さに興味がないからだ。この数字は旅の結果であって、目的ではない。
ステータス画面を閉じた。
立ち上がり、崖を離れ、まだ歩いていない方角へ向かう。北西の端にまだ灰色が残っている。
◇
草原の北西部は、雰囲気が変わっていた。
銀色の草が減り、代わりに青い花が群生している。花弁が淡い光を放っており、草原とはまた違う幻想的な風景だった。
【見聞録】が新しい環境効果を検出した。
【環境効果:夜咲きの花園 ─ このエリアでは夜間のMP回復速度が上昇します】
MP回復速度の上昇。ここで、まだ使っていないアイテムの出番が来る。
アイテム名:【星読みのランタン】
種別:アクセサリ。装備条件:Lv1〜3限定。
公式説明文:星の光を集め、魔力に変える小さなランタン。
効果:夜間フィールドでMP自動回復速度5倍。
入手方法:初心者クエスト「星空の観測」報酬。
初心者クエストの報酬。Lv3までしか装備できないため、受け取った直後にストレージの肥やしになるアイテムの筆頭だ。
だが、Lv1のままプレイし続けているトワには、まだ装備できる。
そしてこのエリアの環境効果「夜間MP回復速度上昇」と組み合わせると──
【星読みのランタン】のMP回復5倍 × 環境効果の回復上昇 = MP回復速度が常時約10倍。
さらに、【道具通】はアクセサリの数値効果にも適用される。
MP回復速度、実質20倍。
これが何を意味するか。
トワはこれまで、MPを消費するスキルをほとんど使ってこなかった。Lv1の素のMP量は80。旅人スキルの中にはMP消費型のものもあるが、MPが少なすぎてすぐにガス欠になる。だから物理攻撃中心で戦ってきた。
だがこの花園では、MPがほぼ無限に回復する。つまり──
アイテムストレージから杖を取り出した。
旅の途中で拾った古い杖。熟練度はMAX。【万象の構え】によって魔法使いの「詠唱」モーションがコピー済み。そして今は【万象の腕輪】がある。
杖を構えた。
コピーされた魔法使いの詠唱モーション。腕輪の強化効果で、属性強化の付随効果が追加される。
──初めて、魔法を使う。
トワの周囲に魔法陣が浮かんだ。
MP消費:40。残りMP:40。
だが、1秒後にはMPが全回復していた。20倍速の回復が、消費を即座に補填する。
放った。
氷の槍が花園の向こうにいたモンスター──【夜咲きの花蟲 Lv80】に突き刺さる。
5,100──属性弱点クリティカル。
【初心の心得】。CTゼロ。
二発目。三発目。四発目。
MPが尽きない。魔法が途切れない。
物理も、魔法も、遠距離も。全てをCTゼロで、無限に打ち続ける旅人。
──それがトワの、完成形だった。
◇
花蟲を倒し終えた後、トワはふと空を見上げた。
二つの月の位置が変わっている。BCOのゲーム内時間で数時間が経過した。現実時間ではそろそろ日付が変わる頃だろう。
明日も講義がある。そろそろログアウトすべきだ。
メッセージボックスを確認した。未読が──さらに増えている。五百件を超えていた。
その中に、オーレンからのメッセージがあった。
オーレン:「おいトワ。終夜の回廊のエリアボス、誰かがもう倒したって情報が流れてるんだが」
オーレン:「お前か?」
オーレン:「お前だな?」
オーレン:「フォーラムに『回廊の先駆者』って称号持ってるやつがいるって騒ぎになってる。称号持ちの名前は非公開だけど、状況証拠で全員お前だと思ってるぞ」
トワは短く返した。
トワ:「散歩してただけだ」
オーレン:「お前の散歩は一般人の大冒険なんだよ」
それからもう一通。ミコトからの返信があった。
ミコト:「お返事ありがとうございます! 配信見てないのに、あの立ち回りができるのがすごいです。あの、もし迷惑でなければ、一つだけ聞いてもいいですか。トワさんは、なんで旅人を続けてるんですか?」
冬夜は少し考えた。
なんで、と聞かれても困る。理由を言語化したことがない。強いて言えば──
チャット欄に文字を打った。
「歩くのが好きだから」
送信した。
ログアウトしようとして、ふと草原を振り返った。銀色の草原。青い花園。二つの月。
明日また来よう。まだ北東の端を歩いていない。
ログアウトした。




