《名前》
トワは影の中を移動している。ゼクスの影から根の影を通って、原初の観測者の真下まで。
「三秒後に放り出す、そこから先はお前一人だ」
「ああ」
「……帰ってこいよ、トワ」
「心配するな、必ず帰ってくる」
トワは影から放り出された。
空中――白金色の光が全方向から降り注いでいる。
原初の観測者の表面。直径百メートルの目のすぐ傍。
《確定視》がすかさずトワの全身に降りかかった。
身体が固まる——が、見聞録が光った。同じベクトルの力で、確定視を相殺している。
それでも、原初の観測者の力の方が強い――このままでは身体が硬直する。
だが今は……完全に動けなくなる前に、観測者の元に到達さえできればいい。
トワは【果ての道標】を剣に切り替えた。白金色の表面を斬った。亀裂が入った。
亀裂から中に入った。
◇
白金色の光に満ちた空間。
原初の観測者の内部。外から見た時よりも広い。無限に広がっているように見える。光以外に何もない。上下左右がわからない。
だが足の裏に集中した。
振動がある……根脈の脈動が、ここまで届いている。下がわかる。方向がわかる。
歩いた。光の中を。
奥に——金色の光がある。白金色とは違う、温かい金色。一人目の旅人の光。
近づいた。
……一人目の旅人がいた。
この空間にいる男は、目の形……ではなかった。
人の形をしていた。
年老いた男だ、杖を持っている。目を閉じている。身体の周囲を白金色の光の鎖が縛っている。原初の観測者が一人目を離さないために、鎖で繋いでいる。
「いまのお前が……本当の姿か」
一人目の旅人が目を開けた。金色の瞳には、泣いた跡がある。
「本当に来たのか……三人目の旅人よ」
「ああ、グランとそう約束したからな。今からお前を、連れて帰る」
「ダメだ……帰れない。この鎖が……名前のない存在は、ここから出られない。わたしには、名前がない。だから縛られている……《見ることだけ》に囚われている」
「分かっている。だから――お前に、名前をつける」
「……何?」
「お前に、名前をつける。名前があれば、存在が固定されるのだろう。固定された存在は、観測者に取り込まれない。この鎖も外れるはずだ」
一人目の旅人の目が大きくなった。
「名前を……わたしに……。わたしは誰にも名前をつけてもらったことがない。名前をつける側で……つけてもらう側ではなかった」
「俺がつける。お前が嫌でも、必ずつける」
「ははっ……嫌じゃないさ。ああ……嫌じゃない」
トワは見聞録を【片鱗モード】に切り替えた。
一人目の旅人の内側が見えた。
鎖の奥に……【核】がある。
温かい金色、好奇心の色、全てを見たいと願った旅人の、一番最初の感情の色。
見ることが道だった人の色。
見聞録を通常モードに戻した。
彼の名前が浮かんだ。
【望見】
入力した。
【命名が完了しました!】
【一人目の旅人「望見」が命名されました】
【命名者:トワ】
白金色の鎖が——バギン、と砕けた。
名前で存在が固定された。固定された存在は取り込めない。鎖の意味がなくなった。
望見の身体から白金色の光が剥がれていく。原初の観測者の力が分離していく。人の形が確かになっていく。杖を持った年老いた男……金色の瞳。
「鎖が……外れた」
「名前があれば、お前はお前だ。もう、こいつの一部じゃない」
原初の観測者が——叫んだ。声はない、ただの振動だ。それでもこの内部空間全体が揺れた。きっと、一人目の旅人を再び支配下に置こうとしているのだろう。
――白金色の光が、壁のように迫ってくる。二人を押しつぶそうとしている。
「ボウケン、逃げるぞ」
「……逃げられるのか。わたしはここに、何千年もいた……到底、逃げられるとは思えない」
「いいから、今は走れ! 足がついてるなら走れる。お前の旅だって、最初は一歩を踏み出すことだっただろ!」
トワはボウケンの手を掴んだ。
走った、光の中を。来た道を……亀裂に向かって。
原初の観測者が閉じようとしている。亀裂が狭くなっていく。
「レクト——!」
その瞬間、亀裂から糸が放り込まれた。
レクトの釣り糸だ。
トワは手を伸ばしで、釣り糸を掴む――糸が二人を手繰り寄せる。
そうして亀裂が閉じる寸前に——二人が飛び出した。
白金色の外殻から、空中に放り出された。落ちていく。
しかし、セレスが二人の落下を受け止めた。
ノーダメージだ。
「釣れましたよ! 二人分!」
レクトが糸を巻き取りながら叫んでいた。
◇
花の台地に倒れ込んだ。
隣にボウケンがいる。
人の形で目は二つ。金色の瞳を持った、年老いた男。
「出た……。出れた、本当に、外に……」
「ああ、出てきた。約束通りな」
原初の観測者が空で暴れている。
一人目の旅人を失ったのだ。
白金色の光が不規則に点滅している。《確定視》が乱れている。
そして——
【原初の観測者の出力が急速に低下しています】
【一人目の旅人の分離により、観測者の力の一部が喪失しました】
弱くなっている。一人目を失って、力の大部分を失っている。
「さて、ここからどうしたものかと思ったが……諦めてくれるようだな」
原初の観測者が、沈み始めた。
ゆっくりと、天蓋の穴を通って。下へ、下へ、……世界の底へ。
退いていく。
力を失って、退いていく。
◇
残る問題は一つ。
グランだ。
一人目はもう帰ってきた、グランの力は必要ない。
だが、グラン自身が力の流出の止め方を知らない。流し始めた力が止まらない。
そして……名前がない。名前がないから、消えていく。
トワはグランの前に立った。
「グラン。一人目の旅人は帰ってきた。お前の力はもう必要ない」
「……帰って、きたのか」
「帰ってきた。名前をつけた。望見。遥かを望み見る者、と書いて、ぼうけん」
「望見……いい名前だな。お前がつけたのか」
「ああ。次はお前だ」
「わたしに……名前を……」
「お前が拒否した理由はもうない。一人目は帰ってきた。力を流す必要もない。名前をつければ、お前は消えない」
グランの透けた目から涙がこぼれた。
「……頼む」
トワは【片鱗モード】に切り替えた。
グランの内側を見た。透けかけた身体の奥に、核がある。
温かい色……草原の色、大地の色。触れたもの全てを守ってきた力。裸足で世界を歩いて、場所を作り、場所を守り、何千年も待ち続けた者。
通常モードに戻した。
名前が浮かんだ。
【巌路】
入力した。
【命名が完了しました!】
【二人目の旅人「巌路」が命名されました】
【命名者:トワ】
グランの——巌路の身体が光った。透けていた部分が戻っていく。足から、膝から、腰から、胸から、首から、顔が戻った。涙の跡がまだ残っている。でも消えない……名前があるから。
「巌路……」
グランは自分の名前を呟いた。
「巌の路。揺るがぬ路で、もう一人を待ち続けた者。ああ……私にふさわしい」
原初の世界全体が呼応した。
命名の瞬間に、草原が揺れた、大きい木が揺れた、鏡の湖が光った、万獣が吠えた、渡空魚が全員で金色に発光した。命名された全ての存在が呼応した。
◇
ボウケンが——ガンロを見た。
トワがつけた名前……巌路。
巌のように動かず、何千年も道を守り続けた旅人の名前。
これでようやく、記憶が戻った。
一緒に歩いた草原。分岐点のベンチ。「また会おう」と刻んだ文字。裸足の足跡。セレスが生まれた時の泣き笑い。うるさいやつ。うるさいのは嫌いじゃない。
「——ガンロ」
ボウケンが、ガンロの名前を初めて呼んだ。
ガンロが声を出して泣いた。何千年と生きてきて、初めて名前を呼ばれた。
「グラン。いや、ボウケン……本当に、思い出したのか」
「これまでは、全部忘れていた。でも——今、思い出した。お前の足跡を、裸足の足跡を」
「ああ……待っていたさ、ずっと」
「知ってる。——今は、知ってる」
ボウケンがガンロの手を取った。
「——待たせたな」
◇
【「原初の観測者」が退却しました】
【世界の根の安定性が回復しています】
【一人目の旅人「望見」の帰還が確認されました】
【二人目の旅人「巌路」の存在が固定されました】
プレイヤーたちの歓声が上がった。
花の台地から、地上から、BCO全域から。
セレスがトワの肩に戻ってきた。メブキがセレスの頭に乗った。
「トワ。おわった?」
「ああ。終わった」
「ふたりとも、なまえもらえた?」
「もらえた。巌路と望見」
「がんろと、ぼーけん。……いいなまえ」
「ああ、いい名前だ」
花の台地に、虹色の光が戻り始めていた。
天蓋のひびが、自然に修復されていく。
二人の旅人が、花畑の中で手を繋いでいる。
何千年ぶりの再会。何千年ぶりの名前。
いまようやく、二人の約束が果たされた。




