【逆さまの空】
四度目の突入。
深度1から深度10まで。五十分。もう上層は通勤路みたいになってきた。
残影を避け、捕食者を一撃で仕留め、道標を踏んで浸蝕度を回復する。
深度15の壁画を通過。深度23の休息所で小休止。深度28の道標で浸蝕度を回復。
深度25以降の通路は——また変わっていた。三度目とも違う。だがアルヴァの道標だけは変わらない。道標を繋いで歩けば、道がなくても進める。
深度34の休息所で最後の補給をした。浸蝕度を下げ、装備を確認し、『深淵の露』を飲み直した。
そして——深度40。
【沈降門】の前に立った。
黒い石。旅人の紋章。前回は触れるだけで、通らなかった門。
「今日は、ここを越える」
「はい」
全員の顔を見た。緊張しているが——怖がってはいない。三度の突入で、全員が深淵に慣れた。慣れたことを油断とは呼ばない。経験と呼ぶ。
門に手を当てた。
【旅人の祝福を認証しました。沈降門を通過します】
【警告:混濁層に入ります。環境の変化が沈殿層より大幅に激しくなります】
【警告:見聞録の信頼性がさらに低下します】
【警告:自身の複製体が出現する可能性があります】
三つの警告。複製体の警告がまた出た。——まだ何のことかわからない。
「行くぞ」
門を——くぐった。
◇
最初の一歩を踏み出して——足が、止まった。
止まったのではない。止まってしまった。
目の前に広がっている光景が——理解できなかった。
通路がない。壁がない。天井がない。
——空がある。
頭上に、空が広がっていた。
星が瞬いている……無数の星。天の川のような光が、頭上を横切っている。青白い光、金色の光、淡い紫の光。星々が——動いている。ゆっくり回転している。プラネタリウムのように。
でも、こんなのはおかしいだろう。
空が、上にある。
上に空がある。当たり前だ。空は上にあるものだ。
——だが、足元を見た。
足元にも——空がある。
下に、星空が広がっている。自分の足が——星の上に立っている。見えない地面の下に、上と全く同じ星空が広がっている。
上にも下にも星空。
自分が——星空の間に浮いている。
「……なんですか、これは」
「空だ」ゼクスが呟いた。「——逆さまの空、とでも呼ぶべきか」
上の星空と下の星空は、鏡のようだった。上で光った星が、下でも同じ位置で光る。でも微妙にタイミングがずれている。上の星が光った零コンマ数秒後に、下の星が光る。
鏡ではなく——残響。上の空の【記憶】が、下に映っている。
「師匠——これ、どこまで広がってるんですか」
【深読み】でスキャンした。
——測定不能。
範囲が広すぎる。少なくとも数キロメートル。あるいはそれ以上。深度10までの狭い通路とは比較にならない広大な空間だ。
【混濁層に入りました】
【深度:41】
【属性エネルギー:地上比2%】
【回復アイテム効果:地上比28%】
【見聞録精度:地上比62%】
「回復効果28%……ですか」
「精度62%か、四割がノイズな」
「トワ」セレスが肩の上で角を光らせた。月光が星空に溶けていく。「ここ——きれい」
「ああ……きれいだな」
「でも、こわい」
「何が怖い?」
「うえもしたもそら。——じめんがない。じめんがないのに、たってる。なんでたてるの」
「分からないが……足の裏が覚えているからだろう。【地面の記憶】が、俺たちを立たせているのかもしれない」
「でも、セレスのあしには、きおくがない」
「お前は俺の肩の上にいる。俺の足が覚えていれば、お前も立てる」
「……うん」
セレスがトワの肩にぎゅっとしがみついた。いつもより力が強い。
「ルーナ。お前はどうだ」
影の中から——声が返ってきた。
「ここの影は——深い。どこまでも深い。地上の影とも、沈殿層の影とも違う。底がない影。——怖い。でも——」
「でも?」
「きれい。影から見上げる星空は……これまでで一番きれい」
暗殺者と聖騎士と薬師と導師が、星空の間に立っている。月の精霊が肩の上で震えている。夜の精霊が影の中で星を見上げている。
深淵の底で、こんな景色に出会うとは思わなかった。
「師匠。——これが【混濁層】ですか」
「ああ」
「【沈殿層】とは……全然違いますね」
「そうだな……全然違う」
暗い通路はもうない。歪んだ街並みもない。ここには——空しかない。星しかない。
美しい。
だが——美しいものほど、危険なものだ。
「足元に気をつけろ。地面がない。見えない床の上を歩いている。——踏み外したら、下の星空に落ちるかもしれない」
「落ちたら、どうなるんですか」
「わからない。——試したくない」
「わたしも、試したくないです」
慎重に一歩を踏み出した。見えない地面がある。足裏に感触がある。だが目で見ると——星空の上を歩いている。脳が混乱する。目が「地面がない」と言い、足が「地面がある」と言う。どちらを信じるか。
「足を信じろ。目を信じるな」
「VRMMOで、目を信じるなって——」
「深淵では、足の裏が最後の武器だ。文字通り、【記憶】と戦う場所なんだろう」
歩き始めた、星空の間を。
星巡りの靴、その足跡が新しい光を残していく。
「トワのあしあとが——ほしになってる」セレスが呟いた。
足跡が——星に見えた。上の星空と下の星空の間に、トワの足跡が新しい星座を描いていく。
「星巡りの靴、か。——この場所のための名前だったのかもしれないな」
「星を巡る靴。ラシードの靴が深淵のために作られたんだとしたら、ラシードはここを知っていたのか」
◇
星空の間を歩く。
方向感覚がない。コンパスは沈殿層の時点で使えなくなっていたが、ここではさらに酷い。上下左右が全て星空なので、「前」がどちらかすらわからない。
頼れるのは【深読み】のスキャン——だが精度62%、四割がノイズ。
「ハル。お前の導師スキルのスキャンではどうだ」
「——ダメです。方角がわかりません。上下すら怪しいです。今立っている場所が、本当に水平なのかどうなのかもすら……」
「だが、俺たちの足の裏は水平だな」
「つまり、師匠の足の裏を信じるしかないんですね」
「お前たちでもできるだろう。ただ立って、真っ直ぐかどうか確かめるだけだ」
「無理ですよ、わたしたちにはできません」タマキが困った顔をする。
「ええ、騎士の矜持でもこればかりは難しい」アストレアも続く。
「七人の命がお前の足の裏に乗ってるとは……とんでもない話だ」ゼクスも同意する。
「やめろお前ら、プレッシャーをかけるな」
トワが突っ込むと、みんなが笑った。緊張が少しほどけたみたいだ。
歩いていると——星空の色が変わった。
青白かった星が、淡い金色に変わった。天の川の光の帯が——赤みを帯びた。夕焼けのような星空。
「色が変わった——」
「夕暮れの時間か? それとも——場所が変わったのか?」
どちらもあり得る。混濁層では空間と時間の感覚が歪む。沈降門の警告に「環境の変化が大幅に激しくなる」と書いてあった。
色が変わっただけではなかった。
星が——落ちてきた。
一つ。上の星空から、光の粒が——ゆっくりと降ってきた。流れ星のように。だが流れ星は横に流れる。これは——真下に落ちてくる。
自分たちに向かって。
「避けろ——!」
全員が横に跳んだ。星の粒が——足元を通過して、下の星空に吸い込まれた。
着弾地点——見えない地面に、小さな穴が開いた。穴の向こうに、下の星空が見える。
「地面に、穴が——!」
「星が地面を貫通した——!?」
【環境現象「流星」が発生しました】
【流星は不定期に落下します。直撃を受けると浸蝕度が大幅に上昇します】
「浸蝕度が、直撃で上がる……」
また一つ。星が落ちてきた。今度は二つ同時に。
「走れ——! 星の間を!」
星が降ってくる空の下を走った。地面に穴が開いていく。穴を避けて走る。穴を踏んだら——下の星空に落ちる。
「アストレア! 鎧が重くても、遅れるなよ!」
「遅れません! 騎士の矜持にかけて!」
鎧がガチャガチャ鳴りながら走るアストレア。深淵で一番うるさい存在だが、今に限っては、その一定の鎧鳴りがパーティーの足並みを揃えるメトロノームのように響いていた。
ゼクスが影に潜って高速移動した。ハルがタマキの手を引いて走る。セレスがトワの肩にしがみついている。ルーナが影の中で全員の足元の影を監視し、穴の位置を報告する。
「師匠! 左……三メートル先に穴!」
「全員、右に回れ!」
流星が止まった。不定期。いつまた降ってくるかわからない。
全員が足を止めた。息が荒い。
【浸蝕度:38%(流星回避により上昇なし)】
「全弾、避けた——!」
「足元に穴が——五つ開いてます。このままだと、帰り道が——」
「俺の足跡を迂回すればいい。穴の位置は覚えた」
「もう覚えたんですか!?」
「旅人の記憶力なら、この程度は余裕だ」
流星が降る星空。地面に穴が開く。穴を踏んだら落ちる——が、穴の向こうに見える下の星空は綺麗だった。
「師匠、ここ——すごいですね」
「何がだ?」
「怖いのに——きれいです。深淵に入ってから一番きれい。一番怖いのに、一番きれい」
「ああ——そういう場所だな、ここは」
◇
流星を避けながら進んだ。
星空の色がまた変わった。金色から——紫に。深い紫。夜明け前の空の色に似ている。だが、夜明けは来ない。ここには太陽がない。
前方に——何かが見えた。
星空の中に——浮かんでいる。巨大な構造物。
「……何だ、あれは」
建物だ。
しかし……深度3の歪んだ民家とは比較にならない。巨大な建造物が、星空の中に浮いている。
塔だった。
白い塔。螺旋状に伸びている。——ただし上にではなく、下に向かって伸びている。天井の星空から下の星空に向かって、逆さまに突き刺さっている巨大な白い塔。
「逆さまの塔——」
「上から、下に向かって建ってるな」
「建ってる、というか——刺さってますね」
【深読み】でスキャンした。精度62%――ノイズは多いが、塔の構造は読み取れた。
「塔の高さ——下方向に三百メートル以上。内部に空間がある。通路がある。——人工物だ」
「三百メートルの塔が逆さまに——誰が建てたんですか」
「わからない。アルヴァの手記にもこんな記述はなかった」
「アルヴァさんは、ここまで来なかったんですかね」
「来たはずだ。深度100まで行ったと書いていた。——だが、手記に全てを書いたとは限らない」
塔の入口——つまり一番上に、扉があった。星空の床と同じ高さに扉がある。入れる。
「入るか?」
全員が顔を見合わせた。
「浸蝕度は」
「41%です」タマキが答えた。
「まだ余裕がある。——入ろう」
扉を開けた。
中は——白かった。壁が白い。床が白い。天井が白い。これまでの深淵が暗闇だったのに対して、塔の中は眩しいほどに白い。
「白いな……」
「暗闇の中に白い空間ですか」
「目が痛いです。ずっと暗闘にいたから、白が眩しくて……」
【「逆さまの塔」に入りました】
【このエリア内では浸蝕度の蓄積速度が半減します】
【塔の最下部にアルヴァの遺構があります】
「アルヴァの遺構——! やっぱり、アルヴァさんもここに来ていたんですね!」
「浸蝕度の蓄積が半減する。——ここは、安全寄りの場所だな」
白い通路を下りていく。螺旋階段。逆さまの塔だから、下に向かって降りていく。壁に窓がある。窓の外に——星空が見える。逆さまの塔の窓から見る星空は——額縁に入った絵のようだった。
「きれい——」セレスが窓に顔を押しつけた。「ほしが、まどからみえる」
「ルーナも見て」
ルーナが影から手だけ出して、窓に触れた。
「……うん。きれい」
塔の中は静かだった。深淵の無音とは違う、音がないのではなく穏やかな静けさ。
降りていく。十メートル。五十メートル。百メートル。
壁に——壁画があった。
深度15で見た壁画と同じタッチ。同じ画家。旅人が歩いている絵。
でも、こちらの壁画には旅人が二人いた。
一人は杖を持っている。もう一人は——何も持っていない。二人が並んで歩いている。足元に光の道がある。
「二人——」
「深度15の壁画は一人だった。こっちは二人」
「二人の旅人が、並んで歩いていますね」
壁画はそれ以上の情報を持っていなかった。二人の旅人……片方は杖を持ち、片方は素手。
アルヴァとカレンか。あるいは——もっと前の、知らない旅人たちか。
塔の最下部に——小さな部屋があった。
【「アルヴァの遺構・逆さまの塔」を発見しました】
部屋の中央に——石碑があった。アルヴァの文字が刻まれている。
【「この塔は、深淵が覚えている最も古い建造物だ。誰が建てたかはわからない。だが——世界が一つだった頃に建てられたものだと、わたしは思う。塔が逆さまなのは、上に向かって建てたものが、世界が分かれた時に引っくり返ったからだ。この塔から見る星空は——かつての世界の空だ。今はもう見ることのできない、分かれる前の空」】
「分かれる前の空——」
窓の外の星空を、もう一度見た。
あれが——かつての世界の空なのか。光も影も夜もなかった頃の、原初の世界の空。
「きれいだけど……さみしい」
セレスがまた言った。記憶の断片で見た草原と同じ感想。きれいで、さみしい。
「ああ。——さみしい空だな」
石碑の裏に——アルヴァの薬瓶が三本と、もう一つ。
【「アルヴァの薬瓶」×3を入手しました】
【「深淵の地図・断片2」を入手しました! 深度41〜80のマップが解放されます】
「地図——! 【混濁層】のマップだ——!」
マップを開いた。逆さまの塔の位置。そして塔から先に続く道。星空のフィールドを抜けた先に——何かがある。
「この先に——大きな空間がある。マップに名前がついている」
マップに表示された名前を読んだ。
「——『忘却の海』」
「海——? 深淵に海が……?」
「マップにそう書いてある。——行ってみないとわからない」
だが今日は——ここまでだ。
【浸蝕度:48%】
「帰ろう。——次に来た時に、海を見に行く」
塔を出た。星空のフィールドに戻った。流星の穴を避けて、沈降門まで戻る。沈殿層を通過して、門から出た。
光と音が戻った。
【深淵探索を終了します】
【今回の到達深度:逆さまの塔(深度55相当)】
【新発見:混濁層、逆さまの塔、アルヴァの遺構】
【次回目標:忘却の海】




