【準備】
帰還した夜。始まりの町の酒場で、深淵の情報を整理した。
「まず、地図だな」
トワは深淵の宝箱から手に入れた地図の断片を広げた。深度1〜10のマップ。通路の構造、分岐点、アルヴァの道標の位置が描かれている。
「この地図、トワの足跡と照らし合わせると——道標は全部で四つ。深度3、5、7、9にある」
ハルが手帳と地図を見比べながら記録している。
「次に入った時、道標の場所を覚えていれば直行できます。浸蝕度の回復ポイントとして計算に入れると——」
「滞在時間が伸びる。道標一つで5%回復だから、四つ全部踏めば20%。実質的な滞在限界が——」
「五時間から六時間に延びますね」
タマキが薬瓶を並べていた。通常の回復薬と、アルヴァの薬瓶三本。
「通常の薬は、深淵だと効果が減衰します。でも、アルヴァさんの薬瓶は減衰なしのHP全回復。——これは切り札中の切り札です。深度10より、先で使います」
「問題は、捕食者だな。あいつらは戦闘中にスキャンデータを吸い取る。一体目で深度3のマップデータを食われた」
「一撃で倒せば、吸収が間に合わないんですよね。口の中の核を突けば——」
「そうだ。だが、毎回口の中に剣を突っ込むのは——ギリギリだ。歯が三列ある。タイミングを間違えたら剣ごと噛み砕かれる」
「師匠の剣が折れたら、終わりですよね」
「終わりだ。——もう少し、安全な方法を考える必要がある」
ゼクスが腕を組んだまま言った。
「口が開いた瞬間に、影から直接核を突けないか。正面から突っ込むより、口の中の影から潜入する方が安全だ」
「ゼクスの影潜りで口の内側に入れるか?」
「試してみないとわからん。——だが、深淵の影は深い。潜りやすいのは確かだ」
「次の突入で試す。——ゼクスの口内侵入作戦」
「名前をつけるな。気持ち悪い」
「しんえんいぬの、くちのなか」セレスが呟いた。
「深淵犬はやめろと言ったはずだが」
「セレスのてーりでは、しんえんいぬ。かわいいから、つづける」
「かわいいの意味をわかっているのか……?」
「わかってる。かわいい、セレスのこと」
妙に納得して反論できないゼクスだった。
◇
翌日。聖都ルクスに転送した。カレンに報告するためだ。
大聖堂の書斎。カレンがパンを齧りながら待っていた。朝のパンはエリーの店で買っている。
「深淵から帰ってきた。深度10まで潜ったぞ。そして深淵で……お前の【師匠】の足跡を見つけた。千年前の足跡が、石畳にまだ残っていた」
「師匠の、足跡が——」
「それと、アルヴァの道標か。壁に金色の鉱石を埋め込んで、安全地帯を作っていた。後から来る旅人のために、工夫してくれたのだろう」
カレンがパンを置いて、目を閉じた。
「師匠らしい。——あの人はいつも、後から来る者のことを考えていた。地図を作り、道標を残し、助言を刻んだ。旅人とは——そういうものだと教わった」
「お前の師匠は、いい旅人だったんだな」
「最高の旅人だった。——だからこそ、深淵に行ってしまった。全てを知りたかった。全てを歩きたかった。旅人の本能が——あの人を深淵に引きずり込んだ」
カレンがトワを見た。
「お前も——同じだろう。全てを歩きたい。全てを知りたい。深淵の底まで行きたい」
「ああ……」
「怖くないのか?」
「怖くない——いや、少し怖い。だが、その怖さよりも——」
「好奇心が勝つ、か」
「そういうことだ」
「師匠と同じだ。——頼むから、帰ってきてくれ」
「帰るさ、必ず」
カレンがまた、パンを手に取った。一口齧った。
「……次に行く時、師匠に伝えてくれ」
「何をだ?」
「パンが美味い街を見つけた、と。——エリーのパンは、師匠の好みだと思う」
「必ず伝える」
◇
ナハルの武器屋。ガルドの店。
「深淵で拾った素材だ」
深淵の塵と、深淵の牙をカウンターに並べた。
ガルドが分厚い指で摘まんで、顔に近づけて睨みつけた。
「……見たことのない素材だ。属性がない。温度もない。重さだけがある」
「深淵のモンスターから落ちた。何か作れるか」
「作れるかどうかは——叩いてみないとわからん。だがまあ……面白い素材だ。普通の鍛造では加工できんだろう。属性が『???』……つまり『ない』ということは、属性の炉では熱が通らない」
「じゃあ、どうやって作るんだ」
「物理だ。——純粋な打撃で形を変える。属性に頼らず、ただ叩いて、叩いて、叩き続ける。鍛冶の原点だな!」
ガルドが笑った。職人の笑みだ。
「面白い、久しぶりに腕が鳴る。——次に来る時には、何か形にしておく」
「頼む」
「それと——いや待て、少しアイデアがある」
ガルドは炉の方に行き、何かを叩いて直ぐに戻ってきた。
「できたぞ、持っていけ」
ガルドがカウンターの下から小さな金具を取り出した。
「星巡りの靴に取り付ける金具だ。深淵の塵を、少量混ぜて打ってみたんだ。——足跡の光の持続時間が延びるはずだ」
「すぎな、もう作ったのか」
「鍛冶師だからな。お前が深淵に行くと聞いた時から、何でも打てる準備はしていた」
【アクセサリー:沈まない靴紐を入手しました!】
【星巡りの靴に装着可能。深淵内での足跡の持続時間が2倍になります】
「足跡の持続時間が倍——! これ、帰り道が消えにくくなります!」タマキが声を上げた。
「ガルド、ありがとう」
「礼はいらん。鍛冶師は旅人の足元を支えるのが仕事だ。——行ってこい」
◇
準備が整った。
タマキが対策薬の調合を終えた。『深淵の露』——浸蝕度の蓄積速度を20%抑制する薬。マーサのレシピを応用して、深淵の塵を触媒にした新薬。
「深淵の素材で深淵の対策薬を作る。——毒を以て毒を制す、ってやつですね」
「薬師的に言うと?」
「抗体を作ってるんです。深淵の成分に少しずつ体を慣れさせる。予防接種みたいなものです」
星巡りの靴に『沈まない靴紐』を装着した。『深淵の露』を全員に配った。アルヴァの薬瓶三本はタマキのカバンの一番奥に。
「行くぞ。二度目の深淵だ。今度は深度10を通過して、その先へ。行けるところまで行く」
「行けるところまで、ですか」
「道は覚えているし、道標の場所も覚えている。捕食者の倒し方を知っている。——一度目より簡単に進めるだろう」
◇
グランの扉。地下。門の前。
「グラン、また行ってくる」
「ああ——よい旅を」
門が開いた。冷たい空気が流れ込んでくる。
二度目の深淵。
一歩目を踏み出した。足跡が光を残す。前回より——長く光っている。『沈まない靴紐』の効果だ。
音が消えた。深淵の無音が、また始まった。
深度1。もう知っている道だ。
残影が立っている場所も覚えている。スキャンせずに通り過ぎるべき個体と、戦って排除すべき個体の区別がつく。一度歩いた道は——二度目には地図になる。
深度3の歪んだ街並みを通過する。パン屋のNPCは、まだ立っていた。
「いらっしゃい。パンはいかがですか」
同じ台詞。同じ声。
セレスが手を振った。
「また、きたよ」
NPCは反応しなかった。
でも、セレスは手を振った。毎回、振るつもりらしい。
深度5。道標に触れて浸蝕度を回復。深度7。アルヴァの足跡を辿る。深度8の分岐を右に。残影二体を三十秒で処理。
深度10。捕食者。
「一撃で倒す。——口の中の核だ」
弓で引きつけて、突進してくる口の中に剣を突き刺した。
【隠し弱点クリティカルダメージ:32,500】
一撃。データ損失ゼロ。
初回は深度10まで五時間近くかかった。二度目は——一時間半。
「速い……初回の三分の一です!」ハルが手帳に記録した。
「道を知っているからだ。——ここから先が、未踏の領域になる」
◇
深度11。
石畳が——なくなった。
道がない。アルヴァの道標もない。地図もない。
足元は岩だ。濡れている。苔が生えている。天井から水が滴っている。ぽたり、ぽたり。
深淵に入ってから初めて——自分の足音以外の音が聞こえた。
「……音がする」タマキが囁いた。
「水だ。天井から、滴っている」
「深淵に、水源があるんですか」
「どうやらあるらしいな」
ただの水かどうかはわからなかった。見聞録でスキャンすると——成分不明。温度は地上の水と同じ。だが、属性反応がない。水であって、水でない【何か】。
「飲まない方がいいですよね」
「飲むな。絶対に」
「飲みません。——飲みたくもないです」
深度12。13。14。道がない分、深読みで地形をスキャンしながら進む。速度が落ちる。
壁の発光鉱石がほとんどなくなった。セレスの月光と光る足跡だけが光源だ。
そして深度15で——足が止まった。
通路の壁に——絵が描いてあった。
壁画だ。
色が褪せている。千年前のアルヴァの手記よりもはるかに古い。だが何が描かれているかは——わかった。
人が歩いている。
一人の人間が、暗い道を歩いている。手に杖を持っている。そしてその足元に——光の線が延びている。
「……これ」
「壁画だ」
「誰が描いたんですか。やっぱり、アルヴァさんが……?」
「違う……もっと古い。アルヴァの手記にも壁画の記述はなかった。——アルヴァよりも前に、ここを歩いた者がいるのかもしれない」
壁画の人物は旅人に見えた。杖を持ち、一人で歩いている。足元に光の道を残しながら。
「師匠。この人の足元の光——『星巡りの靴』と同じに見えるんですけど」
「……ああ」
星巡りの靴の光と——同じ光。
それ以上は、今はわからなかった。
だが壁画の存在は、深淵がただのダンジョンではないことを——改めて突きつけていた。ここには歴史がある。アルヴァよりも、遥かに前の歴史が。
「進もう。——まだ先がある」
浸蝕度——31%。まだ余裕がある。
深度15の先へ。未踏の深淵へ。




