支度
深淵の章の実装まで二週間。
BCOの世界が──ざわついていた。プレイヤー全体が「次に来る大型コンテンツ」への準備に入っている。MMOにおいて大型アップデート前の二週間は、一年で最も忙しい期間だ。やることが山ほどある。
まず、タマキ。
タマキの露店が大変なことになっていた。
「トワさん、助けてください! 注文が──!」
「そんなに慌てて、どうしたんだ?」
「深淵用の耐性薬の注文が三百件入ってます。一日に作れるのは二十本です。十五日かかります。実装日に間に合いません!」
「量産体制を組んでくれ、素材は俺が集めてくる」
「素材の問題じゃないんです。調合の工程が複雑で、手を抜くと品質が下がるんです。タマキ印の薬は、品質保証が売りなんです!」
「タマキ印の薬……? よく分からないが、まあ──だったら、弟子を取ってみるのはどうだ」
「弟子、ですか?」
「調合を手伝えるプレイヤーを育ててみるんだ。全工程を一人でやる必要はない。下準備と仕上げを分業すればいい」
タマキが目を丸くした。
「分業──。薬師ギルドのメンバーの方に、声をかけてみます!」
翌日、タマキの露店に五人の薬師プレイヤーが集まっていた。全員女性プレイヤーだ。タマキが調合のレクチャーをしている。まるで先生と生徒さながらだ。
「この工程では温度を六十二度に保ちます。六十三度だと成分が変質します。一度の差が品質を分けます」
「タマキさん、それはちょっと厳しいというか──」
「薬は、命を預かるものです。厳しくて当然です」
タマキ先生、意外と厳しかった。BCOの薬師ギルドに「タマキ塾」が誕生した瞬間だった。
次に、ガルド。
ナハルの武器屋ガルドが、深淵用の装備を鍛造し始めていた。星虚晶を使った特殊装備。闇耐性と虚空耐性を兼ね備えた新シリーズ。
ガルドの店に行列ができていた。プレイヤーが深淵用の武器を注文しに来ている。
「ガルド。忙しそうだな」
「忙しいが──その分、腕が鳴る」
ガルドは嬉しそうだった。武器屋にとって、大量注文は職人冥利に尽きる。
「お前の分も鍛えてある。──【果ての道標】の追加コーティング。星虚晶の被膜を、全形態に施した。深淵で属性が侵蝕されても、被膜が守る」
「ありがとう、ガルド」
「礼はいらん。──お前が使う武器を鍛えるのが、俺の仕事だ」
【果ての道標に「星虚晶被膜」が追加されました! 深淵での属性侵蝕耐性+30%】
ゼクスの短剣にも星虚晶のコーティング。アストレアの聖剣にも。ハルの導師の杖にも。全員の武器が深淵仕様にアップグレードされた。
ダリオは航海士ギルドに号令をかけていた。
「深淵に水があるかは知らねえが、航海士が行かない海はねえ! 深淵が海なら泳ぐ! 海じゃなくても泳ぐぞ!」
「深淵は、海ではないと思うぞ」
「こまけえことはいい、もう気持ちの問題だ!」
ヴェノムは旅人の集いのメンバーを率いて、灰色平原の虚空エリアで訓練をしていた。深淵は虚空に似た環境の可能性が高い。属性が通じない環境での戦闘訓練。
ヴェノム:「旅人の集い、全員が虚空のエリアで三日間耐久訓練を完了した。見聞録なし、属性なしの環境で動ける」
トワ:「さすがだの用意だな」
ヴェノム:「元PKギルドのマスターだし、この程度の訓練は朝飯前だよ。──あと、Lv1でもメンバーの半分がついてこれた。旅人ってのは、案外頑丈な職業だな」
フォーラムでは「深淵準備スレッド」が乱立していた。
──「深淵に持っていくべきアイテムリスト(暫定版)」
──「回復薬は何本必要? タマキさんの露店が売り切れてるんだが」
──「タマキ塾の卒業生が作った薬でも品質は保証されてるらしい。タマキ印のシールが貼ってある」
──「タマキ印って何だよ。ブランド化してるじゃん」
──「薬師のブランド戦略。BCOでも資本主義は健在……か」
──「ガルドの武器注文、三週間待ちだって。早く頼めばよかった」
──「トワのパーティはもう装備完了してるらしいぞ。さすが最前線攻略組だ」
──「最前線組と一般プレイヤーの装備格差が──」
──「格差じゃなくて、準備の差じゃね。トワはだいぶ前から深淵の準備をしてたって聞いた」
──「前から準備してる旅人と、告知見てから慌てる俺ら。そりゃ差がつくわ」
準備は着々と進んでいる。
だが──一つだけ、足りないものがある。
グランが言っていた。「四つ目の光は自分で灯すもの。お前の旅の中に答えはもうある」
三つの祝福はほぼ揃った。星の祝福。月の祝福。太陽の祝福はカレンから受ける必要があるだろう。だが、最後の鍵がまだ見つかっていない。深淵の扉を開けるための、最後のピース。
『お前の旅の中に答えはもうある』
グランの言葉……旅の中に、七千時間の旅の中に。
答えは──どこにあるのだろう。




