霧の底で
ギルド対抗戦まで、あと十日。
練習日以外の夜は、すべて霧底の森の探索に充てていた。
霧底の森。常時濃霧。視界三メートル。MP毎秒減少。推奨レベル90以上。
だがトワにとってここは、興味深い場所だった。
何も見えないからこそ、歩く意味がある。地図を塗る速度は遅い。一歩ずつ確かめながら進まなければならない。【見聞録】の温度センサーと魔力感知を駆使して、霧の中に潜むモンスターや隠しオブジェクトを探っていく。
ゼクス戦のために磨いた技術が、そのまま探索に活きている。五感のうち三つを封じられた状態で世界を進む。
今夜も崖下りの道を降りて、霧の中に入った。
踏破率は68%。残り三割。森の南東部がまだ灰色のままだ。
南東へ向かって歩く。足元の地面が変わった。土から苔に。湿度が上がり、空気がさらに重くなる。
【見聞録】が環境効果を検出した。
【環境効果:深淵の苔原 ── このエリアでは移動速度が30%低下します】
移動速度低下。厄介だが──【冒険のお守り】の移動速度20%上昇と相殺すれば、低下は実質10%。歩ける。
苔原を進む。足元が柔らかい。一歩ごとに苔が沈み、ぐちゃりと水が滲む。フルダイブVRの触覚が、靴底の不快な感触をリアルに伝えてくる。
──こういう場所は他のプレイヤーが来たがらない。だからいい。
五分ほど歩いたところで、【見聞録】が特殊な反応を捉えた。
モンスターでもオブジェクトでもない。NPC反応。
霧の中に、NPCがいる。
近づいた。温度センサーで輪郭を見る。小柄な人影。座り込んでいる。
視覚センサーをONに切り替えた。霧の中に、ぼんやりと姿が見えた。
──小さな老婆が、苔の上に座って何かを煮ていた。
焚き火の上に鍋。鍋からは白い湯気が立ち上り、霧に溶けていく。
NPCの名前が表示された。
【流浪の料理人マーサ】
隠しNPC。ここにいることを知るプレイヤーは、おそらくいない。霧底の森の、さらに奥の苔原。
わざわざここまで来る人間なんて、俺以外にいないだろう。
「おやおや。お客さんかい」
マーサが顔を上げた。皺だらけの顔に、人懐こい笑み。
「こんな霧の中まで来るなんて、よっぽどの物好きだねえ。──お腹、空いてないかい?」
選択肢が表示された。
【「はい」/「いいえ」】
冬夜は「はい」を選んだ。ゲーム内でお腹が空いているわけではないが、NPCの会話は最後まで聞く主義だ。
「はいはい。じゃあ、少し待っておくれ」
マーサが鍋をかき混ぜた。しばらくすると、木の器に白い液体──スープを注いでくれた。
【マーサの霧底スープを入手しました】
【隠しNPC「流浪の料理人マーサ」の友好度が上昇しました:1/10】
友好度。NPCとの交流で上がるパラメータだ。始まりの町のNPCは全員MAXにしてきたが、こんな場所にも友好度のあるNPCがいるとは。
スープの効果を確認した。
アイテム名:【マーサの霧底スープ】
種別:消耗品(料理)。使用制限なし。
公式説明文:霧底の森で生まれた、素朴なスープ。
効果:使用後10分間、環境効果「深霧」のMP減少を完全に無効化する。
※【道具通】の対象外(料理アイテムは道具通の効果が適用されない)。
MP減少無効化。【星読みのランタン】のMP回復で黒字にはなっているが、回復量の余裕が増える。特に戦闘中は助かる。
そしてもう一つ、重要なことがある。【道具通】が適用されない代わりに──料理アイテムには「重ねがけ」が可能だ。通常の消耗品バフとは別枠で効果が乗る。
つまり、【駆け出しの霊薬】のATKバフと、マーサのスープのMP減少無効化を同時に使える。
小さな発見だが、こういう積み重ねが旅の面白さだ。
「美味しかったかい?」
トワはチャットを打った。
「美味い」
「ふふ、嬉しいねえ。こんなところまで来てくれるお客さんは滅多にいないから。──また来ておくれね。来てくれるたびに、新しい料理を教えてあげるよ」
友好度で解放されるレシピがあるらしい。始まりの町の料理NPCと同じ仕組みだ。
「また来る」
「待ってるよ。──ああ、そうだ。お客さん、旅人だね?」
トワのネームプレートを見たのだろう。
「旅人がここまで来たのは、初めてだよ。──もし森の奥に行くなら、気をつけておくれ。あの子がいるから」
「あの子?」
「霧を食べる大きな獣さ。あの子が霧を食べると、代わりにもっと深い霧を吐き出す。普通のやり方じゃ、倒せないよ」
──霧を食べる獣。【霧喰いのベヘモル】のことだ。
「倒し方を知っているか」
「知らないよ。あの子はもう何百年もあそこにいるんだから。──でも、一つだけ教えてあげられる。あの子は、霧がないと弱い。霧があの子の力の源なのさ」
霧がないと弱い。霧を晴らす手段が必要──だが、霧底の森の霧は環境効果で常時発動している。通常の手段では晴らせない。
ヒントだけ得て、先に進む。マーサに手を振って、南東の奥へ。
【友好度が上昇しました(マーサ):2/10】
会話だけで友好度が上がった。また来よう。新しいレシピが楽しみだ。
◇
苔原を抜けると、地形が変わった。
巨木の根が地面を覆って、枝は自然の天井みたいに広がっている。霧は相変わらず濃いが、木の幹に苔の燐光が灯っていて、ぼんやりとした緑色の光がある。
──綺麗な場所だ。
冬夜は足を止めて、しばらく景色を見ていた。
霧底の森は暗くて怖い場所──ではない。確かに視界は悪いし、モンスターは強い。だが、それを超えた先にある景色は、銀月の草原とは別の意味で息を呑む美しさがある。
巨木の根の間に、何かが光っていた
。
近づく。宝箱。未開封。
【古びた釣り竿を入手しました】
【ファーストオープンボーナス:追加効果「霧中の釣り師」が付与されました】
アイテム名:【古びた釣り竿】
種別:ツールアイテム(戦闘用ではない)。
公式説明文:誰かが置き忘れた釣り竿。
効果:水辺で使用すると釣りができる。釣れる魚はエリアごとに異なる。
ファーストオープンボーナス「霧中の釣り師」:霧底の森限定で、釣果のレア度が上昇。
釣り竿。
BCOに釣りシステムがあること自体は知っていた。だが、戦闘にも探索にも関係のない「遊び」のコンテンツだったので、触れたことがなかった。
近くに水辺があるか。【見聞録】で周囲を探る。巨木の根の向こう側に──小さな泉がある。
泉に行った。苔に囲まれた、直径五メートルほどの小さな水溜まり。水は透明で、底に光る小石が見える。
霧の中の隠れた泉。こんな場所があったのか。
釣り竿を構えた。
糸を垂らす。しばらく待つ。
──静かだ。
霧底の森の環境音だけが聞こえる。木の葉が擦れる音、遠くの水滴の音、苔の上を何かが這う微かな音。
BCOをこんな過ごし方をしたのは初めてだった。歩きもせず、戦いもせず、ただ座って待つ。
竿が引いた。
【霧底の光魚を釣り上げました】
アイテム名:【霧底の光魚】
種別:素材アイテム。
公式説明文:霧底の森にだけ棲む、淡く光る魚。
効果:料理NPCに渡すと特殊料理を作ってもらえる(未検証)。
光る魚。手の中で、淡い青白い光を放っている。
──マーサに渡したらどうなるだろう。
こういう「試してみたら面白いかもしれない」の積み重ねが、冬夜のプレイスタイルだった。効率を求めるのではなく、目の前にあるものを一つずつ触ってみる。
もう一度糸を垂らした。
二匹目。三匹目。種類が変わった。
【霧底のヌシ鯰を釣り上げました】
【希少個体です。この魚は「霧底の森」の固有NPC獣として登録可能です】
ヌシ鯰。銀月の鹿と同じ「固有NPC獣」。友好度で騎乗──は無理だろう、鯰だ。だが、何かの機能があるはずだ。
確認する。
【霧底のヌシ鯰を「泉の番人」として登録しますか?】
【効果:この泉が「旅人の休憩所」として登録され、以降HP/MPの全回復ポイントとして利用可能になります】
回復ポイント。始まりの町に戻らなくても、ここでHP/MPを全回復できる。霧底の森の探索拠点として機能する。
登録した。
【「霧底の隠れ泉」が休憩所として登録されました】
泉の水面が淡く光った。ヌシ鯰が泉の底でゆったりと泳いでいるのが見える。
──いい場所を見つけた。
冬夜は泉の縁に座って、もうしばらく釣りを続けた。対抗戦の練習もしばらく忘れて。
ただ霧の中で、糸を垂らして、待つ。
こういう時間も、旅の一部だ。




