知名度よりも旅がしたい
目を開けると、天井があった。
VRゴーグルを外す。薄暗い六畳一間のワンルーム。デスクの上にはペットボトルの水と、食べかけのカロリーメイト。壁掛け時計は午前二時を指していた。
久坂冬夜、二十歳。大学二年生。
レイドの疲労感が、現実の身体にもじんわりと残っている。フルダイブ型VRは脳への負荷が大きい。七時間ぶっ通しは、さすがに堪えた。
スマホを手に取る。
通知が、二百件を超えていた。
BCOのフレンドチャット、ギルド勧誘、ダイレクトメッセージ。それだけじゃない。SNSの通知まで来ている。
──何だこれ。
BCOの公式フォーラムを開いた。トップページに目を通した瞬間、冬夜の指が止まった。
【速報】深淵竜グラオザーム初クリア MVPはLv1の旅人
閲覧数──47万。レス数──1万2千。
【検証】旅人スキル「初心の心得」「旅路の極意」の性能がヤバすぎる件
閲覧数──18万。レス数──3千。
【動画】Lv1の旅人、虚無のブレスを千人バフで耐えた瞬間【ミコトch切り抜き】
閲覧数──82万再生。
……八十二万。
冬夜はスマホを伏せて、天井を見上げた。
──ただ、オーレンに頼まれただけなんだが。
幼馴染のオーレンこと岡野蓮に「どうしても人数が足りない、頭数でいいから来てくれ」と懇願されたのが三日前。頭数なら別にいいか、と思って参加しただけだった。
まさか目立つとは思っていなかった。配信者がいることすら知らなかった。
カロリーメイトの残りを齧り、水で流し込んで、ベッドに倒れた。
明日も朝から講義がある。
考えるのは、明日にしよう。
◇
考える暇は、なかった。
翌朝、大学に向かう電車の中でスマホを開いた冬夜は、状況が昨夜よりさらに悪化していることを知った。
ミコトの配信アーカイブが再生数200万を突破。「Lv1旅人」がSNSのトレンド入り。BCO公式アカウントまでもが「深淵竜グラオザーム初討伐おめでとうございます」とポストしており、リプライ欄は「トワって誰」「旅人ビルド解説求む」「運営はこれ想定してたのか」で埋まっている。
ゲーム系のまとめサイトにも記事が出ていた。
「最弱初期職で最強──VRMMORPG『BCO』で起きた前代未聞の事件まとめ」
冬夜は電車の吊り革を握りながら、小さくため息をついた。
BCOにログインしたくない。
だが、ログインしなければならない理由があった。昨日のレイドでドロップした報酬を受け取っていない。それに──旅を再開するには、ログインするしかない。
深淵竜を倒した先に、まだ見ていないエリアがあるはずだ。
大型レイドボスの討伐は、新マップ解放の条件でもある。冬夜がレイドに参加した本当の理由は、オーレンの頼みでも戦闘でもない。その先の【地図】を、自分の足で埋めることだった。
◇
午後六時。講義を終え、帰宅し、カップ麺を啜ってから、VRゴーグルを被った。
ログイン。
接続先は、前回のログアウト地点──レイドフィールド跡地の【竜墓の広場】。
白い光の中から世界が描画される。石畳の広場。崩れかけた竜の骨。夕焼けに染まる空──。
そして、大量のプレイヤーの姿。
冬夜の視界に、無数のネームプレートが映った。
──五十人はいる。
いや、百人近い。全員がこちらを向いている。
画面の端に、システムメッセージが点滅した。
【フレンド申請:89件】
【ギルド勧誘:34件】
【ダイレクトメッセージ:未読412件】
「あっ、来た! トワだ!」
誰かがそう叫んだ瞬間、プレイヤーたちが一斉に動き出す。
「トワさんフレンドお願いします!」
「ギルド入りませんか!? うち上位ギルドです!」
「旅人のスキル構成教えてください!」
「インタビューいいですか!? 攻略サイトの者なんですが!」
「サインください!」
「サインってこのゲームにあんの?」
「ない! でも気持ちの問題!」
冬夜──トワは、一歩も動けなかった。
別に怖いわけではない。ただ、こういう状況への対処法を持っていなかった。
二年間、ほぼソロでプレイしてきた。NPCとの会話すら最低限。パーティを組んだ記憶は片手で数えられる。それが突然、百人に囲まれている。
チャット欄に文字を打った。
「……すまない。少し待ってくれ」
トワの一言で、群衆が静かになる。
その隙に、トワはアイテムストレージから一つのアイテムを取り出し、足元に叩きつけた。
アイテム名:【旅人の広域煙幕】
種別:旅人専用消耗品。
公式説明文:旅人の身を守る、緊急離脱用の煙幕。
入手方法:初心者の町のNPCショップで50ゴールド。
白い煙が広場を覆った。
「あっ、消えた!」
「煙幕!? 旅人そんなアイテム持ってんのかよ!」
「逃げたぞ追え!」
「追えねえよ、マップに表示されてないぞこいつ!」
公式説明文には書かれていないが、この煙幕にはもう一つの効果がある。使用者の位置情報をミニマップから十分間消去するのだ。
本来は初心者がPK──プレイヤーキルから逃げるための救済アイテム。転職すれば上位職の離脱スキルを覚えるため、誰もこんなものは使わない。初心者ショップの棚で埃を被っている商品だ。
今は、ファンから逃げるために使っている。なんとも皮肉な話だった。
◇
広場を離れ、人気のない森の中まで走って、ようやく足を止めた。
深い森だ。木漏れ日が差し込み、どこかで川の音がする。モンスターの気配は薄い。
──静かだ。
この静けさが、冬夜がBCOに求めていたものだった。
知らない場所を歩く。誰もいない道を行く。マップの灰色が、自分の足で色に変わっていく。
それだけでよかった。
フレンドリストを開いた。オーレンの名前をタップする。
トワ:「新マップ、もう入れるか」
数秒で返信が来た。
オーレン:「おお生きてたかお前」
オーレン:「大変なことになってるぞ知ってるか」
トワ:「知ってる」
オーレン:「フォーラム見たか?お前専用スレが三つ立ってる」
トワ:「見てない。新マップの話だが」
オーレン:「切り替え早すぎだろ」
オーレン:「グラオザーム倒したから、【竜墓】の先が解放された。『終夜の回廊』ってエリアらしい。推奨Lv85。まだ誰も行ってない」
トワ:「行く」
オーレン:「Lv1で?」
トワ:「Lv1で」
オーレン:「……まあお前はそういうやつだよな」
オーレン:「気をつけろよ。っていうか、お前に気をつけろって言うのも変な話だが」
トワはフレンドリストを閉じ、マップを開いた。
竜墓の広場の北側に、昨日までなかったルートが表示されている。灰色の未踏エリア。名前だけが浮かんでいる。
『終夜の回廊』
世界が広がった。
まだ知らない地図がある。それだけで、足が動く理由になる。
トワは【旅立ちの剣】の柄に手を置いて、未踏の道へと歩き出した。




