「知らない場所」
翌日の夜、ログイン。
まずはPvPのことは置いて、羅針盤の指す方角へ向かう。銀月の草原の南端、あの崖だ。
草原を歩く。夜の草原はいつ見ても美しい。プレイヤーの数はさらに増えていたが、南端の崖まで来る者はまだ少ない。
崖の縁に立った。眼下には霧。通常のマップには「進入不可」と表示される。
だが、【旅人の羅針盤】は真っ直ぐに崖の下を指している。
崖の縁に沿って歩いた。東へ、西へ。通常のプレイヤーが見落とすような岩の裂け目や、草に隠れた段差を一つずつ確認していく。
西に十分ほど歩いたところで、羅針盤の針が急に振れた。真下を指している。
足元を見た。草の中に──石碑がある。旅人の石碑だ。
だが、通常の石碑とは刻印が違う。旅人のマークの下に、もう一つの紋様がある。羅針盤と同じ意匠。
石碑に触れた。
【旅人の隠し道を発見しました】
【「崖下りの道」が解放されました】
崖の岩肌に、細い足場が浮かび上がった。通常は完全に透明で、旅人が石碑を起動しない限り視認できない。
細い道だ。一人がやっと通れる幅。落ちたら即死だろう。
──面白い。
トワは一歩目を踏み出した。
足場はしっかりしている。ただし、下を見ると霧しか見えない。高さがわからないのが恐ろしい。フルダイブVRの五感再現が、足裏のわずかな振動と、上昇する風の冷たさを伝えてくる。
慎重に降りていく。崖の途中で足場が消え、代わりにツタが垂れ下がっている場所があった。掴んで降りるしかない。
五分かけて崖を下りきった。
霧の中に入った瞬間、世界が変わった。
【「霧底の森」に進入しました】
【このエリアはあなたが最初の踏破者です】
【警告:このエリアでは環境効果「深霧」が常時発動しています。MP毎秒-2】
視界が極端に狭い。三メートル先が見えない。白い霧が全方位を覆い、方向感覚が失われる。
そしてMPが毎秒減っていく。Lv1のトワの最大MPは80。このままでは40秒で枯渇する。
だが──【星読みのランタン】の効果を思い出す。夜間フィールドでMP自動回復速度5倍。さらに【道具通】で10倍。
霧底の森のフィールド設定を確認する。ここは常時「夜間」判定だ。太陽が届かない崖の下だから当然だ。
MP回復10倍で毎秒+10。消費が毎秒-2。差し引き毎秒+8。
──問題ない。MPは減らない。
環境効果「深霧」は、MP管理ができないプレイヤーを追い返すための門番だった。だがLv1の旅人専用装備が、その門番を無効化する。
【見聞録】を起動した。霧の向こうに、モンスターの反応が複数。
【霧底の朽木兵 Lv88】
【霧底の朽木兵 Lv88】
【霧底の朽木兵 Lv88】
三体。しかも密集している。視界が悪い中で三体同時は厳しい。
だが、【見聞録】があれば視界は関係ない。攻撃パターン、位置、弱点──すべてが情報レイヤーで見えている。
【駆け出しの霊薬】を飲む。ATK+100%。
霧の中へ踏み込んだ。
一体目。右から横薙ぎ──屈んで回避、三連斬。二体目が背後から突き。振り向かず半歩横にずれ、返す刀で斬る。三体目のブレス──射線を読み、霧の中を滑るように移動し、側面から三連斬。
十二秒で三体。
霧の中で、トワだけが正確に動いていた。見えない敵を、見えない場所で、正確に斬る。
──ここは【見聞録】がなければ探索不可能なエリアだ。
つまり、旅人のために作られたエリアとも言える。
羅針盤がさらに奥を指している。森の最深部に何があるのか。
歩く。灰色の地図を、霧の中で塗り始めた。
◇
一時間ほど探索して、ログアウトした。
霧底の森は広大だった。一日では回りきれない。モンスターの密度も高く、消耗品の管理がシビアだ。だが、それがいい。手応えのある旅だ。
VRゴーグルを外して時計を見ると、午前零時を回っていた。明日は一限がある。
歯を磨いてベッドに入った。スマホの通知が光っている。
ミコトからのメッセージ。
ミコト:「ゼクスとの対戦、受けたんですね。フォーラム見ました」
ミコト:「あの一行の返事、めちゃくちゃかっこよかったです」
ミコト:「一つだけ聞いてもいいですか。勝てそうですか?」
冬夜は天井を見ながら、少し考えてから返した。
トワ:「わからない。対人戦はやったことがない」
ミコト:「……正直ですね」
トワ:「嘘をつく理由がない」
ミコト:「トワさんらしい」
ミコト:「あの……もし練習相手が必要だったら、私でよければ」
ミコト:「Lv83の弓使いなので、大したことないですけど……」
弓使い。ミコトの職業を初めて知った。配信者だから非戦闘系だと思い込んでいたが、弓使いか。
トワ:「考えておく」
ミコト:「はい! おやすみなさい!」
スマホを置いた。
天井を見る。
──対人戦。知らない場所。知らない相手の攻撃パターン。
地図と同じだ。灰色の領域が目の前にある。
それだけで、少し楽しみになっている自分がいた。




