逃避空
今日も、飽きるまで天井を眺めていた。
どうせカーテンをめくっても景色は変わらない。そう思っていた。
私の家は、団地の4号棟、ボロアパートである。家とは言っても、水道・ガス・電気は通っておらず、雨風を凌げる屋根のついた建物に過ぎなかった。廃墟に等しい場所で、即身仏が如く、私は寿命が尽きるのを待っていた。
いつのことだったか、私は突然腹が減らなくなった。おかしいとは思いつつも、無気力を通り越した悟りの境地に達していた私の体はその状況を受け入れてしまっていた。どれだけの時間が経ったのであろうか。普通の人間であれば、とっくに絶命しているはずなのだが、意識は未だ消えていないようだ。その証拠に、カーテン越しに映る天井の陽光の移ろいから、時間の経過を把握することができた。どうやら世界は動いているようである。ゆえに私も生きているようである。
ある日の朝、私は一つの異変に気がついた。普段ならけたたましく鳴いているはずの鳥たちの気配が感じられないのである。2日、3日経ってもその状況は変わらず、日が昇っても鳥たちの声は聞こえない。とうの昔に世界への関心は無くなったと思っていたが、なぜかこの些細な変化が気になってしまった。さらには、この変化を見過ごしてはならないという脅迫感までも感じていた。
ふと、思いたったようにカーテンを開けて外を見てみた。
絶句した。見渡す限り青い空の中にいる。下を見ても永遠に部屋と青い空が続いており、陸が見えない
正面には団地の3号等が見えた。
アパートの端の部屋なので、窓から顔を出して右を見ても部屋は続いていないが、左を見ると、これまた信じられないくらいに永遠に建物が伸びており、部屋が続いている様子が確認できた。
よく目を凝らすと左のとある部屋から隣の3号等に向かってロープが伸びており、そのロープには様々な吹き流しがくくりつけられていた。
一度窓から顔を引っ込め、窓とは反対にある玄関に向かった。不思議なことに玄関は草や藻で覆われており、開けるとフサフサとしたやわらかい音を鳴らした。
はたまた絶句した。ドアの前に広がっていた光景は見渡す限りの青。空の中であった。ほのかに懐かしい海の香りも感じることができた。しかしあまりの高さに足がすくむ。
ドアを閉め、すくむ足を勇気づけながら共用廊下を進む。左をなるべく見ないように足元の床を確かめるように進んだ。しかし建物の中心に設置されているはずの階段が見当たらない。これでは降りれない。高さに慣れることもなく、足の震えが止まらないため、仕方がなく自分の部屋に戻ろうかと引き返した瞬間、アパートの下の方から、大勢の人が唸るような声が聞こえてきた。あまりに恐ろしい音であったため、壁側に尻餅をつくようにのけぞってしまった。いったいなんなんだ。恐る恐る手すりに手をかけ、下をのぞいてみる。下からは生ぬるい風がカビ臭い臭いと共に噴き上がってきており、耐えず呻き声が聞こえていた。耳を澄ますと「返せ」「休ませろ」「どうして」という悲痛な声が混じっていることに気づいた。なんだか不思議な気がしてしばらく下から聞こえる音に耳を傾けていると、音はだんだんと上に登ってきていることに気づいた。これはまずいと思った。
ふと右を見ると一部屋だけ表札が掲げられた部屋があることに気づいた。
表札には汚れた文字で「時間」と書いてあった。
先ほど見たロープの部屋はここだろう、直感的にわかった。しかし今はそんなことはどうでも良く、とにかくすぐここから逃げなければならないと思ったため、私はインターホンを鳴らしてみることにした。
古いインターホンの音がしてから、しばらくすると、「はい。」という、女の声が聞こえた。こどもの声であった。
子供に助けを求めるのは如何なものかと一瞬躊躇したが、今はそうも言っていられない。この状況を説明するにはどうしたらいいのかと考えをまとめる暇もなく私は助けを求めた。
「助けてください。得体の知れないものが階の下から登ってきています。おまけにこのアパートはとんでもない空の中にあります。一瞬でいいので匿ってください。」
そう言ってから、完全におかしい人の発言であったことを後悔した。なんとか言い訳をしようと次の言葉を考えていると、チェーンの幅だけドアが少しだけ開き、私の胸より下から怪訝そうに私を見上げる少女の目が合った。
「来てしまいましたね。」
彼女はそう言うと、ドアを一度締め、チェーンを外してからドアを開けてくれた。
私が事情を説明しようとあたふたしていると、
「お入りなさいな。つぶされますよ。」
とだけ言い、少女は私を家の中に招き入れてくれた。
つぶされる、、とはなんとも不気味だ、と思いながら、慌てるように家の中に入った。




