01
この世界には神が存在するという。神は手始めに空間と海を創った。それだけではまだ物足りなかった為、大地を創造した。それに伴って動物を、そして最後に人と魔を創ったのだ。これらを成し遂げようやく神は満足げに笑ったという。
そう、ここは人と魔が共存する世界。
大陸は果てしなく広く、海は真珠のように輝いている。神の決めた9人の大王が地を治め、4人の海王が海に浮かぶ島々を治めることで世界は秩序を保ち、その上に立つ天帝が13人の王と大地、海、民の全てを統べている。そんな世界である。
最も、天帝はよもや世界を築いたとされる神を拝見した者はこの時代には滅多に無く、民達にとってそれらは文献や大人たちの口によって語り継がれる伝説でしかない。
そんな世界にひとつの小さな小さな生命は産み落とされた。大国、玲神国で生まれた赤子は親の顔も分からない内に捨てられ、玲神国を囲む明海に木製の小箱に入れられ、へその緒がついたまま流された。その時点で彼は死ぬはずだった。海の上を永久に漂い誰からも知れられる事無く死ぬはずだったのだ。
運命とでも言うのだろうか。赤子はある人物によって救い出されてしまった。人里を捨てた世捨て人に。そして、赤子は生を得た。名を貰った。住むところ、着るもの、そしてたったひとつの命を。運命の赤子の名は濫陽。世捨て人を月詠という。唯ふたりだけの家族だった。社会の理から外れ、誰にも知られずひっそりと生き、お互いだけが存在を認め合う。
このときから既にもう彼等の途方もない旅のときは既に始まっていたのかもしれない……。
「慧彗!!」
まだ幼い少年の声が大空を舞った。
少年は小さな細い腕を思い切り伸ばし、自由に空を飛び廻る翼を掴み取ると宙へと上昇する。孔雀の様な美しい羽根、鷲の様な大きな身体を持つその生き物にきつくしがみ付きながら少年は頬で風を感じた。翼を羽ばたかせるそれは普通の鳥よりも数倍大きく、人間が豆粒ほどに見える。か細い背中を震わせながら手の甲で目頭を押さえつけた。奇怪な生物を慣れた様子で羽根を優しく撫でる様は愛おしそうに、まるで最後の別れだとでも思いそうなほど悲壮感に溢れていた。
「慧彗、ごめんよ。ずっと一緒に居てあげられなくて。」
翼の温かな感触が身体の内側へと浸透していく。奇怪な生き物、慧彗は少年の温い涙を嘴で掬い、喉を鳴らす。慰めてくれるの、と少年が悲しそうな瞳で問うと鳥は鋭い目じりを垂れてわが子の向かってほほ笑むような優しい表情を見せた。言葉が通じなくても、ふたりがつながっている事が良く分かる。
「濫陽、慧彗。時間だ、降りて来な。」
遠くなった地上からよく通る男の声が届く。そこには小さな人影が有り、綺麗な美しい顔立ちをしたまだ20代後半くらいの男だ。少年は彼を目にとめると哀しげな声音で叫ぶ。
「月詠……、お願いだよ。慧彗を売らないで……!!」
「駄目だ。」
懇願に迷う風も無くきっぱりと強い口調で拒まれるが、濫陽は必死に何度も頼み込む。しかし彼の答えは変わらなかった。
慧彗を見つめ、少年は力ない表情を浮かべながら申し訳なさそうな顔を見せて、地上へと戻るように指示をする。本当は離れたくない、だがそれは言えない。言う事が出来ないのだ、月詠も慧彗も大切だから。
「濫、ごめん。辛い思いをさせて。」
屈み込み状態を低くする慧彗の背から小さな彼を持ち上げ、足を地に付けてあげる。まだ幼い少年だが、聡明そうな瞳の奥では、自分の置かれている状況も、事情も全てを知っている。
彼等は大陸からみて東に浮かぶ大きな島国、槞遥国の下民と呼ばれる最下層の民だ。人世を捨て、明海の面した崖の上であり深い森林の入り口で暮らす月詠は、玲神国から流され海上を漂う捨て子の赤子を見つけた。それが濫陽だ。
人など育てられる人間でない事を男は自覚していたが、哀れな赤子を見捨てられなかった。人の良かったところもあって、放置して殺す事が出来なかった。せめて、人の温もりを感じさせてやりたかったのかもしれない。
「俺は慧彗等、妖魔を手懐けて人に慣れさせ、金持ちや武人に売ってやるのが仕事だから……、それでしか生活できない。お前は、慧彗と仲が良かったからな、ごめんよ……。」
首を左右に激しく振り謝罪を述べる養父を否定する。彼は自分を育ててくれた大切な人だ。他人に育てて貰って謝ってもらう自分など図々しい。それに、月詠の仕事についてだって理解している。養い子が口を出していいはずがない。
所謂、妖魔の調教師が養父の仕事で何年もかけて妖魔と呼ばれる人畜有害な生き物を育てあげ、一般人でも扱えるようにする事が彼の務めである。
それは常に危険が付きまとう。もともと人に慣れない生き物を調教するには技術、経験、そして何よりも肝が据わってなければならない。その為妖魔の調教師はこの世界に数多くは居ない。誰でも生れるそんな容易なものでないわけだ。
下民の彼であるが妖魔を手懐けられるという事から珍しいものを好む傾向のある金持ちからは希少価値として見られていることは確かである。
月詠は遠くから少しずつ此方へと地響きが近づいてくるのを感じ取る。それは別れへのカウントダウンのようにゆっくり、だが確実にこちらへと迫ってくる。慧彗の肢を鎖で繋ぎとめながら、少年に家へと帰るように言う。背中に友の視線を感じながら、とぼとぼと歩く。何度も何度も振り返り、友の姿が遠くなり始めた所で暫く立ちすくむと、雑念を振り払うかのようにがむしゃらに走りだした。頰を伝った涙は儚く消えてゆく。
「さよなら、慧彗。」
妖魔の丸い黒目は走り去っていく背中に喉を鳴らし、小さく唸り声をあげ、視線を反らすとともに閉じた。