夜の女帝ーー鏡の私は本当の魅力、本当の私ーー
夜の新宿、雑居ビルの五階にそのキャバクラはあった。
ネオン看板には煌びやかな女のシルエットと、金色の文字で「Club LUCIA」と書かれている。
私は二十五歳。名前は美佳。
大学を中退してから定職に就けず、借金が膨らみ、とうとう夜の仕事に手を出した。最初は怖かったが、金払いの良さと、女としてチヤホヤされる空気に、次第に慣れていった。
けれど、ある晩から、店に不思議な客が現れるようになった。
彼は四十代後半くらいに見える、スーツ姿の男だった。
髪は不自然に黒々と染められており、肌はどこか蝋細工めいて白い。笑顔は常に口元だけが動き、目が笑っていない。
「君、初めて見るね」
「は、はい……」
私は緊張して笑顔を作った。彼は私の名を聞き、グラスを傾けながら、じっと私を見つめた。その瞳には、妙な粘着質の光が宿っていた。
その日から、男は毎晩のようにやってきた。
他のホステスには目もくれず、必ず私を指名する。話す内容は取り留めがないが、ときおり妙なことを言った。
「君の姿、鏡に映ると少し違うね」
「え?」
「首の角度とか、口の開き方とか。まるで別人みたいだ」
私は鳥肌が立った。けれど客の言葉をいちいち気にしていては、夜職は続かない。作り笑いをして流すことにした。
ただ、店内にある大きな鏡が、妙に気になるようになった。
それはフロアの奥の壁いっぱいに取り付けられた装飾鏡で、客とホステスが座るソファ席を映し出している。そこにはいつも、光の反射と喧騒の揺らめきが映っていた。
だが、ある日、私は気づいた。
――私の鏡像だけが、タイミングをずらして動いているのだ。
他のホステスや客は、鏡の中で自然に同じ動きをしている。グラスを持ち上げれば映像も同時に持ち上がる。
けれど、私の鏡像だけが、ほんのコンマ数秒遅れて、動いていた。
目を細めて鏡を凝視すると、その「遅れ」は次第に大きくなっていた。笑顔を作っても、鏡の中の私はしばらく無表情のまま、やがて遅れて口角を引き上げる。
そしてある瞬間、鏡の中の「私」が、外の私とは違う方向を向いた。
――鏡の中の私は、背後の男に笑いかけていたのだ。
「ね、違うだろう?」
男がささやいた。
「鏡は正直なんだよ。本当の君を、よく映してくれる」
心臓が喉から飛び出しそうになった。私は慌てて視線を逸らしたが、それ以来、鏡を避けて通ることができなくなった。
その晩、閉店後にロッカールームで着替えていると、ママが近づいてきた。
「美佳、あの人に深入りしないほうがいいよ」
「え?」
「あの常連……この辺りの裏社会に深く関わってる。女を“抜けられなくする”のが趣味らしいの」
ぞっとした。私はすぐにでも店を辞めようと考えたが、借金がまだ残っている。辞めることはできない。
数日後の夜、決定的なことが起きた。
男の隣に座って接客していると、鏡の中の私が――突如、グラスを握り潰したのだ。
実際の私の手には何の異変もない。なのに鏡像の手からは赤黒い血が噴き出し、笑みを浮かべながら私を見ている。
「見えたろ?」
男が耳元で囁いた。
「もう、こっち側の君が、出たがってる」
その瞬間、強烈な吐き気に襲われ、私はトイレに駆け込んだ。洗面台の鏡に映った自分を見て、絶叫した。
――鏡の中の私は、私よりも先に動き、にやりと笑っていたのだ。
それからというもの、私は昼夜を問わず鏡が恐ろしくなった。家の姿見は布で覆い、スマホのインカメラすら直視できない。
けれどどうしても逃れられない。店の大鏡に近づくたび、あの「もう一人の私」が、じわじわと現実ににじみ出してきているのを感じる。
ある夜、男がグラスを傾けながら言った。
「そろそろだな。こっちに来なさい。君の本当の居場所は、鏡の中だ」
私が恐怖で硬直していると、鏡の中の私は立ち上がり、こちら側に歩み寄ってきた。
ガラスの表面が波打ち、液体のように揺れる。その中から、血まみれの手が突き出された。
私は叫び声を上げて逃げようとした。だが腕を掴まれた感触があった。冷たく、ぬめりのある指先。
次の瞬間、私は――鏡の中に引きずり込まれていた。
そこは暗闇と反射だけの世界。外の店内が霞んで見える。ソファに座っているのは「もう一人の私」で、彼女はにこやかに客と談笑していた。
私の存在は、誰にも気づかれない。叫んでも声は響かない。
ただ一人、男だけが、こちらを見ていた。
鏡の向こうの彼は、グラスを掲げて微笑んでいる。
「ようこそ。本当の夜の世界へ」
私はその言葉を最後に、永遠にガラスの奥に閉じ込められた。