プロローグ
『悲劇を喜劇に置き換えて、コンプレックスの解消か?』
その言葉は、冷え切った僕の心を動かした。
『仕事=やりたい事』
それは夢や理想でしかなくて。
『生きていく=仕事』
これが現実だった。
だからといって不満があった訳じゃない。
仕事があるから、早く寝る。
仕事に行くから、起きなければならない。
時間ばかりが気になっている仕事基準の生活ルーティン。
ただ……退屈を感じていた。
決まりきった生活を乱すかのように立ち寄ったバー。
賑やかな場所は正直苦手だと思いながらもドアを開け、躊躇わずに中へと入ったのは、客が誰もいなかったからだ。
だからといって、寂れた店ではない。
曇りのないグラスはキラリと光り、バックバーには様々な酒瓶が整然と並んでいる。明るくも暗くもない照明に似合う、静かに流れるBGM。自然と目と耳に馴染んだ。
だけど、真っ先に目が向いたのは、カウンターの中にいるバーテンダーだった。
中へと足を踏み入れた僕に気づいているだろう。だが、バーテンダーは声も掛けず、目線も向けなかった。
客に干渉しない無口なバーテンダー。それが却って時を急かされる事のない穏やかさを僕に感じさせた。気を臆する事なく、自然にこの場に馴染める空間……そんな雰囲気がここにはあった。
僕は、バーテンダーから少し離れたカウンター席に座る。
この少しの距離感が自分の場所を見つけた気がして、なんだか心地がいい。
一息つき、何を飲もうかと様々な酒のボトルが並ぶバックバーに目を向ける。
カクテルにそう詳しい訳でもないが。
どうせなら、強い酒が飲みたい。胸を焼くような、強い酒を。
それが僕の心に響いて、充実して生きているという実感を得る……いや、それは幻想であり、僕自身の理由づけだ。
だけど。
それでもいいと……それが欲しかった。
虚しくも感じる心は、自分は何の為に生きているのかと、自他共に答えられない問いを生む。
バックバーの酒瓶を見つめ続ける僕は、オーダーに迷っていた。
『明日も仕事』
つい、朝、起きる事を考えてしまう。
つまらない、くだらない、だからなんだと払い除けるように頭を振る。
ああ……溜息、だ。
カランと氷がグラスに触れる音に、バーテンダーへと目が向く。
客は僕一人……まさか、自分が飲む訳じゃないよな……?
バーテンダーがスピリッツの瓶を手にしたと同時に、ドアが開いた。
四十代くらいだろうか、落ち着いた雰囲気の男が一人入って来た。
男は、僕の座るカウンター席の椅子を二つ開けて座る。
バーテンダーは来る事が分かっていたのだろう、男が座ったと同時にカウンターにグラスを置いた。
バーテンダーも男も何も話さない。
オーダーせずとも酒が出てくる……。
常連か。
他人を詮索するつもりはないが、悪い癖だ、自分以外の事に目を向けようとすると、比較するようにも他人を見てしまう。
なにやってんだ、僕は。
目線をバックバーに戻したが、口から出るのは溜息だ。
「まだ若いのに、随分と人生知ったふうな顔をしているね」
え……?
僕と男の他に客はいない。
声を掛けているのは僕かと、驚きながら男を振り向くと目線が合った。
穏やかな笑みを僕に向けている。
僕は苦笑を漏らした。
「あなたに……僕の何が分かるっていうんですか」
「人の器ってね……自分が自分で決めた大きさになるんだよ。それは他人から見ても分かるんだ。君はまだ、器の大きさを決める時期ではないんじゃないかな」
「別に……僕は何も思っていませんよ」
なんで……こんな話をされなくてはならないんだ。
不愉快にも思ったが、向けられる穏やかな笑みが揶揄っている訳ではない事を信じさせた。
「そうかもしれないね。君の目は、未来を見ていないように見えるから」
「未来……?」
僕は眉を顰め、怪訝な顔をする。
「信仰まがいの勧誘ならお断りしますよ」
「いや……」
男はグラスの酒を飲み干すと、席を立つ。
そして、僕に近づき、カウンターに名刺を置いた。
「やり甲斐を求めたいと思っているなら、待っているよ」
そう言って男は店を後にした。
なんなんだ、一体……。
僕は、名刺を手に取る。
なんで僕を……。
僕は男を振り向いたが、もう姿はなかった。
『katharsis』
オーナー 北川 ショウ
やり甲斐?
待っているってここ……。
探偵事務所だって???