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わたがし

作者: さば缶

 蝉の声がそろそろ聞こえなくなり始めた八月の終わり。

空はまだ茜色を残しながら、辺りは次第に薄闇へ沈み込む。

夜の縁日は、その移り変わりの時刻に独特の熱気と活気を帯びる。

通りを見下ろすように並んだ提灯がゆらゆらと揺れ、赤と金の灯りが夜道を照らしていた。

兄の修介は、薄藍色の甚平を着ている。

背中にはさざ波のような模様が走り、肩の部分にだけ小さく白い帆の意匠が施されていた。

対して妹の咲は、淡い水色の生地に金魚をあしらった柄の浴衣を着ている。

金魚の尾びれが大きく揺れ動くように描かれており、その鮮やかな赤と白が水面を思わせる質感で美しかった。


 縁日はいつものように多くの店が軒を連ねている。

焼きそばやお好み焼きの甘いソースの香り、金魚すくいの水が跳ねる音、そして何より鮮烈な屋台の明かり。

いつもなら咲は目を輝かせてあれもこれもと手を伸ばすのに、今日は控えめに兄の後ろをついてきていた。

「修ちゃん、今日は人が多いね。」

そう呟いた咲の声はどこか不安げに聞こえるが、修介は大丈夫だろうと考えていた。

人混みには慣れているし、妹を守るつもりで一緒に来ている。


 ただ、咲の浴衣は特別気に入っているものだと聞いていたので、汚さないように気を遣っているのだろうとも思っていた。

彼女がこの浴衣を選んだのは「ふわりと泳ぐ金魚が可愛いから」という単純な理由だったが、実際に袖を通した姿は、屋台の光にも相まって儚げに映っていた。

「暑いね、何か飲み物でも買おうか。」

そう声をかけると、咲は少し気分が和らいだように微笑んだ。


 ところが、修介が飲み物を探して少し離れた瞬間に、咲の姿が見えなくなってしまう。

人波の向こう側にいるのかと思い、すぐに近くを探したがいない。

「咲。」

辺りを見回しても、あの鮮やかな金魚柄の浴衣はどこにも見当たらない。

提灯の光がまたたき、遠目には誰が誰やらわからないほど混み合った縁日。

それでもあの浴衣は人目を引くはずなのに、見つからない。

「咲、どこにいるんだよ…」

修介は焦る気持ちを押し殺すように何度も妹の名を呼ぶ。


 だが、周囲の人々は楽しげに笑いながら夜店を見て回るばかりで、修介の声など届いていないかのようだった。

仕方なく大通りから一つ路地を外れた場所まで探しに行く。

多少暗くなってはいるが、露店が続く道の奥にも人の姿はある。

ふと鼻をくすぐる甘い匂いに修介は気づいた。

「綿菓子の屋台か…」

明かりの乏しい場所に、ぽつんと提灯を揺らす屋台が立っている。

そこだけ異様に静かな空気が漂っていた。


 綿菓子の屋台など、縁日では珍しくもない。

だが、ここは人通りが少ないにもかかわらず開いていて、しかも売り子の姿が見えない。

修介は少しためらいながらも、咲の姿を探すという目的で、その屋台に近づいてみた。

のれんの裏側を覗いてみると、誰もいないように思われる。

でも、屋台の前には大小さまざまな袋に入った綿菓子がずらりと並んでいた。

「なにこれ…」

修介は違和感を覚える。


 見上げると、吊るされている綿菓子の袋はどれも風変わりな柄をしている。

金魚が跳ねる模様や、紫陽花の柄、あるいは花火や蝶の図案まで。

まるで浴衣や甚平の柄を真似たようなバリエーションだった。

その中の一つに、見覚えのある模様がある。

水色の地に、赤と白の金魚が大きく尾びれを翻している。

「咲の浴衣…?」

修介は息を飲む。

どう考えても、妹の浴衣によく似た――というより、まったく同じ柄に見える。


 なぜこんなところに、あれほど特徴的な金魚柄の袋があるのか。

しかも綿菓子が詰まった袋になっているのは、まるで誰かが作った悪趣味な模造品のようでもあり、あるいは本物を切り取って縫い合わせたかのようでもあった。

気味が悪いとは思いつつ、修介はその袋に手を伸ばしてしまう。

ほかにも似た柄はないかと周囲を見回しても、咲の浴衣柄と同じものは一つだけ。

彼は足元の冷たい汗に気づきながらも、思わずその綿菓子を買おうと屋台の台に小銭を置いた。

「すみません…誰か、いませんか?」

呼びかけても応じる声はなく、屋台の隅にある古びた金箱が小銭を受け取るように口を開けているだけだった。


 不審に思いながらも、小銭を金箱に入れると、まるで報酬を受け取ったかのようにキィと硬い音が響く。

修介は袋を手に取り、そのまま来た道を戻ろうとした。

夜道に戻ったとたん、再び賑やかな人々の声と祭囃子が耳に飛び込んでくる。

あの屋台が本当にあったのかと思うほど、先ほどまでの静寂は嘘のようにかき消されていた。

しかし手にしているこの綿菓子だけは、確かな存在感を放っている。

どうしても気になり、咲がいないままではあるが、まずはこの袋の中身を確かめたいと思った。


 脇道に移動し、袋の口をほどいてみると、中の綿菓子は白くふわふわとして、ごく普通に見える。

だが、その白い繊維の隙間から妙なものが覗いていた。

「髪の毛…?」

ごく細い茶色の毛が、まるで絡みつくように綿菓子の繊維に混ざっている。

嫌な予感がして、修介は指先でそっとそれをつまみ出す。

引き抜こうとした瞬間、耳の奥で女の子の悲鳴にも似た声が微かに響いた気がした。


 空耳か、それとも遠くの祭り客の声か。

そう思おうとしたが、その声が耳を離れない。

「…おにいちゃん…」

確かに、妹の声だ。

まるで袋の中から聞こえてくるように小さな声が響き、次の瞬間には痛みをこらえるような泣き声がこだました。

あまりの不気味さに、修介はぞっとして綿菓子を強く掴んだ。


 すると、綿菓子を引き裂くように手が動いてしまう。

ぷつりという繊維の裂ける感触と同時に、「痛いよう…」という咲の声がしっかりと耳に届く。

「咲…? どこだ、咲っ!」

修介は半狂乱になって袋の中を探すが、そこにはただ甘い砂糖の固まりがほの白く広がるだけで、妹の姿などあるはずもない。

なのに、確かに声はする。

それも苦しげに、助けを求めるように。


 息が上がり、汗がだらだらと流れる。

綿菓子の中から漂ってくる匂いは甘いはずなのに、吐き気を催すような生臭ささえ感じ始めていた。

「嘘だろ…こんなの…」

呟きながらも綿菓子をかき分けるように探り、咲らしき声に応えようとする。

だが、一欠片取り除くたびに「ああ、やめて…痛い…」と、声が頭に直接突き刺さるように聞こえてくる。

修介は恐怖と混乱に支配されながらも、何か確証が欲しくてやめられなかった。


 ふと我に返ると、周囲にはもう誰もいない。

先ほどまで溢れていた人々の姿はどこへ行ったのか。

祭囃子さえも遠くから聞こえるだけで、まるで暗い底に沈んだようだった。

修介は目の前の袋から手を放し、足をふらつかせながら大通りへ向かおうとする。

後ろを振り返りたくはなかったが、どこかに咲が倒れているのではないかという恐怖心から、何度も辺りを見回した。


 そのまま夜が更け、縁日の賑わいが静まっていく頃になっても、修介の姿を見かけた者は誰もいなかった。


 翌日。

まだ薄明るい夕刻にもかかわらず、再び提灯が連なり、祭囃子が流れ始める。

縁日の二日目が始まり、近所の人々も昨日と同じように店を回る。

他の屋台に混じって、綿菓子屋の屋台があった。

様々な柄の綿菓子の袋の中に、一つだけ薄藍色でさざ波の模様が入った袋があったという。

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