第54話 帝国と共和国の思惑
北西の砦に向かって、逃避行を開始して丸二日が経過した。
途中の町で糧食や水、回復薬などを補充しつつ、俺たちはヨッテンソーム王国からの脱出を目指した。
立ち寄った町では、まだパニックは起きていない。
帝国軍が移動しているのは、ネプストル帝国とヨッテンソーム王国を結ぶ街道だ。
その街道から大きく外れた町にも、すでに帝国軍の噂は届いている。
しかし、帝国軍は真っ直ぐに南下しているため、遠く離れた町ではあまり危機感が無いようだ。
大条約を破ったオランジェス王国、それに乗じたネプストル帝国に対して、罵る声があちこちで聞かれはしたが。
立ち寄った町では、戦火を逃れようと、逃げ出す人もあまりいないようだ。
と言うより、戦火から遠いこれらの町こそが、疎開先であろう。
西の隣国、ホルスカイト共和国まで逃げようという動きは、まだ起きていなかった。
ただ、経済には顕著に影響が出始めている。
糧食や回復薬の値段が、明らかに値上がりしていた。
まあ、砦奪還作戦の間に、ヨッテンソーム軍から買った時ほどではないが。
それでも、背に腹は代えられない。
冬の山脈越えに備え、薪や食材を多めに確保し、防寒仕様の防塵ローブなども買い込み、俺たちはひたすら北西に進んだ。
砦を避け、迂回するように大きく回り込みながら、山脈越えルートの入り口を目指す。
新たに購入した防塵ローブのフードを目深に被り、冷たい風の吹きすさぶ荒野を移動する。
そうして歩きながら、俺は大条約のことや、今後の大陸の情勢のことなどを考えていた。
(……条約は、武力と国益が調和している限り守られる、か。)
元の世界で、一士官から皇帝まで上り詰めた、とある英雄が言ったとされる言葉が思い浮かぶ。
条約など、守った方が利がある時しか守られん、といった感じか。
似たような言葉に「条約が有効なのは、私にとって有益な間だけだ」というのもある。
どちらも、一代で軍国主義的な独裁政権を樹立した人物だ。
片や英雄と名高く、片や世紀の大悪人、とされている。
法、政治、軍事に非凡な才を持ったこの英雄は、様々な方面に近代的な考えを持っていた。
彼によって整備された多くの制度は、その後の世界に大きな影響を与える。
もっとも、彼によってもたらされた様々な変革や価値観が、自身の失脚、帝国の崩壊にも繋がってしまったことは、皮肉としか言いようがないが。
戦争によってあまりに多くの自国民を死なせ過ぎたため、その国では他国籍の外国人を傭兵としてではなく、正式に軍に採用するようになった。
生産年齢人口の激減、男女比の歪みが、その後の人口増加を著しく鈍化させたことを考えれば、この流れは仕方のないことだろう。
そんな、被害は甚大ながらも連戦連勝を飾った政治や軍事における天才ですら、条約に対する考えはその程度のものなのだ。
絶対不変のものではない。
利があるうちくらいしか、役に立たん。
他にも、条約というものについて言及した人物は多い。
その中でとりわけひどいものが、「条約は破るために結ぶ」と豪語した例だろう。
ここまでくると、そもそも条約を結ぶ意味がまったく無いではないか、と思ってしまう。
こうした相手とは、話し合い自体が無駄なのではないだろうか、とさえ思える。
とは言え、大条約が締結されてから、一応六十年近くは守られていた。
無駄だった、と断じてしまうには、六十年という年月は長い。
まったく無駄だった訳ではないのだ。
現在この大陸の人々の意識は、大条約があることを前提で成り立っている、と言っていいだろう。
(そんな大条約が、破られた。大条約が失われた世界……。一体、どう転がって行くか。)
影響が大き過ぎて、予測が難しい。
そもそも、政治にまったく関わらずこれまでいたため、国家間の政治的な結びつきの見当がつかないのだ。
(今回の一件から、帝国とオランジェスは結びつきが強そうではあるな。…………あとは、帝国とロズテアーダ修王国の仲が悪そうってくらいか。)
二強の大国は、おそらく対立の構図がありそうだとは思うが、実際のところは分からない。
そんな、大条約が破棄された後の、各国の情勢をあれやこれやと考える。
傭兵にとっては、ある意味有難い時代になる。
お仕事が沢山。彩り、緑…………ではなく、選り取り見取りだ。
だからと言って、個人的には平和な時代を軽んじるつもりはなかった。
むしろ、平和な時代だからこそ、ちょっとくらいの小競合いをメシの種にできたのだ。
大国同士の全面戦争となれば、傭兵の需要は増えるが、国家としては徐々に国力を低下させていく。
戦費の拡大。無理な徴兵、徴発による経済の疲弊。
過重な税が、民にも圧し掛かることだろう。
そうなれば、傭兵に支払われる金が絞られていくことは想像に難くない。
そんなことを考えているうちに、山脈の入り口に着いた。
ここまで来れば一安心、と言いたいところだが、実際のところはどうだろうか。
「帝国が封鎖しているかもしれないな。十分警戒してくれ。」
振り返ってそう言うと、ベリローゼが頷く。
レインはずっと、暗い顔をして俯いていた。
俺とはあれから一言も話をしていないが、ベリローゼとは最低限のコミュニケーションができている。
ならば、今はそれでいい。
とにかく、物騒なヨッテンソーム王国を一刻も早く脱出して、レインのことはその後だ。
俺たちは警戒しつつも、山道を登り始めた。
山に入った時点で、すでに昼を遥かに回っていた。
そのため、すぐに空が赤みを帯び始め、俺たちは無理せず早めにテントを張った。
そして、翌日。
隘路を越え、岩場を越えて、と順調に進んで行く。
(この調子なら、夕方には山を下りられるか?)
もしかしたら麓の近くでもう一泊することになるかもしれないが、無理をすれば今日中には山脈を抜けられるだろう。
できれば山中で一泊するよりは、完全に山を下りきった場所でテントを張りたい。
「リコ様。」
そんなことを考えながら歩いていると、ベリローゼが声をかけてくる。
俺が立ち止まり振り返ると、ベリローゼが鋭い視線で前方を睨んでいた。
「気配がします。…………多数。」
そう呟くと同時に、尾根の向こうから数人の男たちが姿を現した。
隠れていた、というよりは、単に山を下りている途中といった感じだ。
距離としては百メートルも離れていない。
こちらが視認すると同時に、向こうもこちらを視認した。
(嫌なタイミングで会ったな……逃げるか?)
あからさま過ぎる行動ではあるが、接触するのはリスクを伴う。
一般人か、山賊の類か、はたまた帝国かヨッテンソームの兵士か。
こちらに気づきながらも、男たちはごく普通に歩いてくる。
向こうは、八人ほどの一団だ。
俺はもう一度振り返り、レインとベリローゼを見る。
(逃げ切るのは難しいか。)
この山脈越えのルートは、特に足場が悪い。
こんな山道を走って逃げるのは、自殺行為だ。
それなら、まだ下りてくる男たちを相手にする方がいい。
いざとなれば、ベリローゼをレインに張り付け、俺が男たちを殺ればいい。
そう算段をつけ、ベリローゼに視線を送る。
ベリローゼは黙って頷いた。
男たちは、山賊のような恰好をしていた。
俺たちはゆっくりと登り、男たちはゆっくりと下りてくる。
距離が二十メートルほどになると、男たちが立ち止まった。
「お前たち、止まれ。」
俺が警戒して短剣に手を置くと、先頭に立っていた男が首を振る。
「止めておけ。こちらに攻撃の意志はない。…………あくまで、先に仕掛ける気は無いってだけだが。」
そう言いながら、男たちのうちの半分がこちらに近づく。
「我々は帝国軍の者だ。済まないが、ヨッテンソームの者を帝国に行かせる訳には行かないんだ。この先も、封鎖させてもらっている。」
恰好の割に、物腰は丁寧だった。
だが、俺は警戒を解かずに、少しだけ腰を落とす。
「帝国軍だと? 最近の山賊は、そうやって油断させるのが流行ってんのか? 自分たちの恰好を見てから言えよ?」
帝国軍の騎士や兵士は、統一された規格の鎧を身につけている。
しかし、男たちが身につけているのはボロボロ、どろどろの毛皮や革鎧。
剣や槍を手にしている者もいるが、さすがに山刀を腰にぶら下げる騎士や兵士はいない。
俺が指摘すると、こちらに歩いていた男が顔をしかめる。
そうして、先頭の男が一度振り返る。
後ろで待機している男のうち、特に大柄な男が一つ頷く。
それを見て、俺はぎょっとした。
(何であいつが、こんな所にいるんだ!?)
大柄な男。
俺たちが砦を落とした時、賊を指揮していた男。
眠る赤狼の依頼者。
イールナフにも匹敵する、獣のようにギラついた目をしていた男だ。
こんなやばそうな奴、一度見れば早々忘れやしない。
(砦を放棄したのか!?)
一瞬そう思ったが、おそらくそれはないだろう。
ヨッテンソーム軍による包囲が解かれたために、一部の兵でこの山脈ルートを封鎖に来たのだ。
(…………て、ことは。こいつら、本当に帝国軍の兵か。)
もしかしたらとは思ったが、やはりこのルートを塞ぎにきたようだ。
俺は何気ない振りをして、フードを目深に被り直す。
しかし、それが却って賊の頭領の気を引いてしまった。
「お前は……。」
微かにそう呟き、頭領がこちらに歩いて来た。
ベリローゼの警戒レベルが上がるが、俺はそれを手で制す。
そうして、頭領が俺の前に立った。
「フードを取って、顔を見せろ。」
俺は内心舌打ちをしつつ、フードを取った。
仕方なく頭領を見上げると、その鋭い視線を正面から受け止める。
「……いたな、あの時。何やってんだ、こんな所で。」
どうやら、頭領も俺のことを憶えていたようだ。
まあ、落とした直後の砦に、こんなガキがいれば記憶に残るか。
俺は大袈裟に溜息をつくと、疲れたように口を開く。
「何やってるも何も、散々だったぜ。人が真面目に働いてるってのに、いきなりオランジェスが攻めてきたって言うじゃねえか。巻き込まれちゃ堪らんって、慌てて帝国に戻ろうとしたら、今度は帝国が攻めてきただと。ふざけんじゃねえよ。どうなってんだ、まったく。大条約はどうしたんだよ。」
俺が帝国に対し、そうクレームをつけると、頭領が苦笑した。
だが、その目は鋭いままだ。
俺の話に嘘が無いか、見定めているのだろう。
頭領が、顎を撫でながら口を開く。
「お前らにとっちゃ、メシの種だろう? 戦場で一稼ぎとは考えなかったのか?」
「どっちが優勢かも分からず、首を突っ込めるかよ。勝ち馬の尻には乗りたいが、てめえのケツに火がつくのは御免だ。…………手遅れみたいだがな。」
「フッ……そうか。」
加勢するなら巻き込まれるのではなく、自分で見定めて参加する。
いくら傭兵とは言え、突然の事態に逃げ出しても然程不思議な話ではない。
オランジェス軍とヨッテンソーム軍。
話を聞いた時点では、どちらに加勢するか悩んでも、それは普通のことだ。
(……さすがに、砦奪還のために攻めてるところを目撃はされなかったか。)
そこを言ってこなかったことに、俺は内心で胸を撫で下ろす。
とは言え、少々厄介な奴に見つかったことに変わりはない。
「お前の所属は、帝国のギルドか? 帝国出身?」
「ああ、帝国民だ。善良な一般人さ。」
俺は肩を竦めて、おどけたように言った。
よく言う、とでも言いたげに、頭領が苦笑した。
本当は帝国民ではないが、それを証明する物も、反証も無い。
ただ、帝国を拠点に活動していたことは確かだ。
頭領は、顎を撫でながら考える。
そうして、レインとベリローゼに視線を向けた。
「お前の仲間か?」
「ああ。同じ傭兵団だ。」
「あの時は、お前一人だったな。」
砦攻略の時は、俺しかいなかった。
そこに若干の不信を抱いているようだ。
「俺が個人で受けた仕事だからな。」
「……そう言えば、お前が単独で潜り込んだのだったか。」
イールナフ辺りから聞いたのだろう。
砦攻略の時の俺の役割を思い出し、頭領が頷いた。
「いいだろう。通してやる。」
「よろしいのですか、隊長。」
どうやら、帝国に戻ることを許可してくれるらしい。
だが、頭領のその決定に、部下が難色を示す。
「いくら詰めてる兵が少なかったとはいえ、それでも百ほどはいたんだ。その砦を、少数で、それもたった一晩で落としてみせたんだぞ? その戦果に、こいつは大きく貢献したらしい。むしろ、こいつがいなければ、こうはいかなかったと眠る赤狼の奴が言ってたほどだ。」
どうやらイールナフは、たった一晩で砦を落としてみせた手腕を、大いにアピールしたようだ。
その際に、俺のことも話してくれていたらしい。
奇策が上手くいき、自慢したくてしょうがなかったのだろう。
「…………砦?」
上手く話が進みそうだとホッとしていると、そんな呟きが聞こえた。
ぎょっとして振り返ると、レインが怒りの籠った目で俺を見ていた。
「どういう、こと? 砦を落と――――!」
が、そんなレインをベリローゼが押さえる。
口を塞がれ、振り解こうとするレインを難なく拘束した。
「どうしたんだ?」
「あ、あははは……。俺一人で稼いできたことを、まだ根に持ってんだ。まあ、いい金額貰ったからなあ、あの仕事は。」
訝しむ頭領を、てきとーな言い訳で誤魔化す。
ベリローゼがレインに何事かを耳打ちし、とりあえずレインが大人しくなる。
すごい形相で睨むレインを見て、頭領が肩を竦めた。
「傭兵も、いろいろあるんだな。」
「ま、まあな。あれは、特殊な仕事だったんで……。」
少々苦しいが、頭領は然程気にしないでスルーした。
念のために、傭兵ギルドの登録証を確認するというので、素直に応じる。
レインがまた暴れそうになったが、ベリローゼがレインを押さえたまま、魔法具の袋から登録証を取り出してみせる。
レインの袋が、使用者登録されてなくて助かった。
普段はレインの意見を尊重するベリローゼだが、今回ばかりは空気を読んだ。
いいね。好きだよ、機転の利く奴って。
全員が、帝国の傭兵ギルドが発効した登録証を持っていたことで、一応は帝国民だと看做してくれる。
砦攻略に参加していた実績が、俺の信用を大いに上積みしたようだ。
「本来は、出国許可証が必要なんだがな。」
「次からは気をつけるよ。」
片眉を上げ、やや渋い表情の頭領に、笑顔で応じる。
今いる、此処こそが密入国のためのルートだ。
こんな所を歩いている奴が、正規の出国手続きをしている訳が無かった。
部下の一人が俺たちに同行し、ルートを塞いでいる即席の検問まで案内してくれると言う。
隊長が通行の許可を出した、と検問の兵士に伝えてくれるそうだ。
「何から何まで、済まないな。」
「今回だけの特別だ。次はないからな。」
「分かった分かった。何度も念を押さなくても、もうやらないって。」
密入国ルートが塞がれたことが分かったのだ。
もう使いませんよ、このルートは。
愛想良く、頭領…………ではなく、隊長に礼を伝え、別れる。
こうして、俺たちは無事に帝国領内に戻ることができたのだった。
■■■■■■
【ネプストル帝国・帝都ラジブール】
大きな湖の真ん中にそびえ立つ、白い巨城。
皇帝の居城、水晶城だ。
別に水晶で作られているという訳ではなく、湖面に反射する美しい城が、ハレーションにより輝いて見えることに因んだ呼び名だ。
そんな水晶城に、一人の客が訪れていた。
この場合、招かれざる客、というべきか。
オランジェス王国の暴発に乗じ、ヨッテンソーム王国に攻め込んだ帝国を非難するために派遣された、ホルスカイト共和国の大使だった。
広い謁見の間には、物々しい騎士たちが百人以上も立ち並ぶ。
威圧のための演出ではあるが、あまり成功しているとは言い難かった。
大使は壮年の偉丈夫で、堂々たる風格を纏う。
自分以外は敵ばかりという謁見の間にあっても、毅然とした態度で帝国を非難していた。
帝国の行いの非道さを滔々と説き、ヨッテンソーム王国からの即時撤退を求める。
ただ、大使の説得も成功しているとは言えない。
どれほど正論を並べようと、帝国からすれば「それがどうした」というものだ。
言われずとも、分かっている。
分かっていて、攻め込んだのだから。
「――――再度、皇帝陛下に申し上げる。陛下が、五十八年前。大条約以前の時代を求めているならば、それは間違っていると言わざるを得ません。どうか、賢明なるご判断を。ご英断を下されますように。」
長々とした口上を述べ、大使はそう締め括る。
そんな大使を壇上から見下ろし、玉座に座った皇帝が足を組み替えた。
ネプストル帝国、第四十七代皇帝――――シグフリッド・キリアーン・ディ・ティ・ネプストル。
まだ二十歳を過ぎたばかりの、若き皇帝である。
その傍らに控えるのは、シグフリッドの叔父にあたる、宰相。
名を、コルエー・ヴァン・ネプストルと言う。
皇帝シグフリッドは、不幸であった。
十歳にもならないうちに、この巨大な帝国の皇帝に即位することになったのだから。
父である前皇帝。そして四人の兄たちが不幸な事故や病で相次いで亡くなり、第五皇子であるシグフリッドが即位した。
前皇帝の弟コルエーが、摂政として幼帝シグフリッドを支え、十年以上も帝国の舵取りを行ってきた。
シグフリッドが二十歳を迎えると、コルエーは摂政から宰相へと肩書を変え、変わらずシグフリッドを補佐した。
もっとも、政策のすべてが宰相であるコルエーの許可が無ければ、皇帝に上奏すらされない。
そのため、現皇帝シグフリッドを、コルエーの傀儡と見る向きも多かった。
皇帝シグフリッドは玉座に頬杖をつき、ホルスカイト共和国の大使を見下ろす。
玉座の傍らに立つ宰相のコルエーも、やはり大使を見下ろしていた。
二人の目は、冷ややかだ。
シグフリッドは怠そうに軽く指を動かし、コルエーを手招く。
コルエーが耳を傾けると、シグフリッドが口を開いた。
「あのあほうは、何が言いたいのだ?」
囁くような声。
それは、心底不可解そうだった。
「ヨッテンソームから、撤兵せよ、と。」
「…………はるばるホルスカイトからやって来て、それで我らが兵を退くと本気で思っておるのか? もしかして、あのだらだらと長いだけの下らぬ口上には、裏の意味は無いのか?」
「おそらく。そのままの内容かと。」
コルエーの言葉にシグフリッドは目を丸くし、それから呆れたように息をつく。
「……其方に任せる。」
「御意。」
シグフリッドが煩わしそうに手を払うと、コルエーが一礼をする。
そうして、大使の方に向き直った。
「大使殿に申し上げる。大使殿の言は、甚だ見当違いであると言わざるを得ない。大条約を破り、我が国に攻め入ったのはヨッテンソーム王国である。非は我らではなく、ヨッテンソーム王にこそある。我らはただ、自衛的に武力を行使したに過ぎない。これは、大条約でも認められた正当な権利である。」
先に仕掛けてきたのは、ヨッテンソーム王国。
コルエーのあまりの言い草に、大使は目を剥いた。
「ヨッテンソーム王国が、貴国に攻め入ったと申されるか!?」
「左様。」
「何を馬鹿なっ!」
ネプストル帝国とヨッテンソーム王国の、国力の差は明らか。
国土、人口、経済力、軍事力。
すべてにおいて、帝国とヨッテンソームでは五~十倍の開きがある。
これでヨッテンソームの方から攻め込んできたというのは、いくら何でも無理筋と言うものだ。
ただ、そうした例が過去に無いかと言えば、答えは否だ。
戦争とは、何が起こるか分からない。
大きな戦力差を引っ繰り返し、小国が大国に勝った例など歴史を紐解けば…………いくらかはある。
しかし、このような詭弁を受け入れる訳にはいかなかった。
想像もしなかった帝国の言い分ではあるが、大使は自らの動揺を鎮める。
「……失礼、いたしました。今の発言は取り消します。」
「結構。大使殿が驚かれるのも無理はない。我々もまた、ヨッテンソームによる侵攻の話を聞き、耳を疑いましたからな。」
コルエーの言葉に、大使は思わず舌打ちしそうになった。
大使が驚いたのはヨッテンソームによる侵攻の話ではなく、そんな与太話を平然とぶち上げた帝国に対してだ。
宰相のコルエーは、もう少し詳しい経緯を説明した。
ヨッテンソーム王国は、自国内にある北西の端の砦に軍を集結。
山脈を越える細く危険な道を使い、小規模ながら帝国内に部隊を次々と送り、破壊工作等を行っていたという。
実際は帝国へ兵を送り込むためではなく、奪われた砦を取り戻すための軍だ。
だが、その事実を大使が知ろうと知るまいと、帝国は筋書き通りの主張を押し通すだけ。
コルエーの話に、大使は力なく首を振った。
「あり得ない……。」
大使は腹に力を込め、反論した。
「ヨッテンソーム王国が、貴国に攻め込むなど……。貴国は強大だ。いきなり軍を発するなど、短慮が過ぎませんか。」
大使もまた、脳裏に筋書きを思い浮かべる。
ヨッテンソームが帝国に攻め込むなど、シナリオに無い。
大条約では、当然ながら工作員を送り込むような行為は禁止されている。
それを破ったと言うなら、堂々と非難をすればいい。
そのための場として、大条約には『調停会議』という仕組みがある。
条約を締結している国々と協力すれば、そのような行為を止めることができる。
そうして、みなが努力しながら、大条約を保ってきたのだ。
「やはり私には、ヨッテンソーム王国が貴国に敵対するとは考えられません。」
当然ながら、ネプストル帝国の経済力は巨大だ。
ホルスカイト共和国ですら、経済的にはネプストル帝国に依存気味だ。
もう一つの大国、ロズテアーダ修王国とも国境を接し、実際に交易が行われているホルスカイト共和国でさえ、そうなのだ。
ヨッテンソーム王国がネプストル帝国に敵対したところで、自らの首を絞めるだけである。
大使の発言に、コルエーは応も否もない。
表情のない顔で、大使を見下ろす。
「大使殿が、そして貴国が、どのように受け止めようと結構。我らはただ、己が権利を行使するのみです。」
「しかし! それでは大条約はどうなるのです! 今は、大条約を破りヨッテンソーム王国に攻め入ったオランジェス王国を、ともに糾弾すべきではありませんか!」
大条約を破ったと言うなら、まずはオランジェスの方が先だ。
現在、そちらはそちらで、別の者が特派大使として赴いている。
帝国の言い分では、オランジェスよりもヨッテンソームの方が、先に破ったという主張のようだが……。
とは言え、目に見えるはっきりとした形で大条約を破ったのは、オランジェスが先だ。
「……それについては、私の方から説明した方が早かろう。」
その時、不意に壇上から声が発せられた。
玉座のある壇上の、袖。
カーテンで隠された通路から、一人の男が姿を現した。
齢六十を超えるその男は、玉座の横にまで進み出ると、跪いた。
「な、ぜ……っ! ここにいるっ!?」
カーテンの裏から現れた男を見た大使が、驚愕に声を詰まらせる。
今、皇帝に跪いている男は!
ここには絶対いないはずの男!
いや……、いてはいけないのだ!
「…………オランジェス、王……っ!」
皇帝シグフリッドに跪く、オランジェス王。
そのあまりに衝撃的な光景に、大使は危うく後退りそうになった。
現在、まだ戦争は終結していない。
その戦争の当事国の国王が、なぜ自国を空けているのか!
しかし、オランジェス王の登場により、大使は自分が非常にまずい立場にあることに気づいた。
ネプストル帝国とオランジェス王国に、もしも繋がりがあれば厄介だと思っていた。
だが、現実は厄介どころの話ではない。、
そのオランジェス王が、皇帝シグフリッドに跪いているのだ。
これの意味するところなど、考えるまでもない。
大使が動揺から立ち直りかけた時、シグフリッドが玉座から立ち上がった。
そうしてオランジェス王の前に立つと、手を差し出す。
「オランジェス王。このような場で、そこまでせずとも良い。貴方にも立場があろう。」
「お気遣い感謝いたします、皇帝陛下。ですが、誤解のないように、はっきりと示しておくことこそが肝要なのです。」
オランジェス王はシグフリッドの手を取り、立ち上がる。
シグフリッドが玉座に戻ると、宰相とは反対側にオランジェス王が立った。
三年前より、オランジェス王国は危機に瀕していた。
火山の噴火という災害に見舞われ、特に農作物に打撃を受けた。
隣国であるホルスカイト共和国、ヨッテンソーム王国から食料等を輸入し、何とか国民の飢えさせないために手を打った。
ところが、ホルスカイト共和国とヨッテンソーム王国は、オランジェス王国の苦境につけ込んだ。
食料輸出を著しく制限し、また値も釣り上げた。
食料の高騰から、様々な品目も釣られるように高騰し、瞬く間にオランジェス王国は困窮した。
王家の資産を放出し、それで何とか食料などを輸入して持ち堪えていたが、ここで一つの事実を掴む。
物価高騰を王家の失策として、民の不満を煽り、オランジェス王家の失墜を画策する者がいる。
ホルスカイト共和国とヨッテンソーム王国だった。
大条約締結前は、各国が長く続く戦争に疲弊していた。
大条約が締結されると、各国はそれぞれで国力を回復させ、余裕が出てきた。
しかし、その頃に魔王が現れた。
再び、大陸は荒れた。
そんな魔王も討伐され、三年の月日が経った。
少しずつ、良からぬことを考える余裕が出てきたのだ。
大条約により、武力による領土拡大は封じられていた。
そんな時に目をつけられたのが、オランジェス王国の災害だった。
大陸の南東の端にあるオランジェス王国は、接する国はホルスカイト共和国とヨッテンソーム王国のみ。
陸路は完全に押さえられ、海路での取り引きでネプストル帝国とロズテアーダ修王国を頼ったが、頻繁に海賊に襲われた。
海賊を裏で操っている者など、考えるまでもない。
考えるまでもないが、証拠など何一つない。
万策が尽き、オランジェス王は絶望した。
もはやここまでかと、オランジェス王は諦めたのだ。
かくなる上は、一矢報いん、とホルスカイト共和国への宣戦布告を考えた。
共和国が首謀であることは、明らかだったからだ。
ヨッテンソームは、共和国に唆されたに過ぎない。
そのことを相談すると、オランジェス王国の宰相も将軍たちも、王を諫めた。
そして、帝国を頼ろうという意見が出た。
共和国やヨッテンソームの支配を受け入れる気はない。
だが、帝国ならば、というのだ。
帝国は恭順する国を受け入れる。
大きな条件が、二つほどあるが。
一つは、剣を交えていないこと。
過去も含め、一度も帝国と剣を交えていないことが、条件の一つだ。
傭兵として、帝国と戦ったオランジェス人がいてはいけない、という話ではない。
あくまで国として、帝国に矛を向けたことが無い、というのが重要だった。
一度でも剣を交えれば、もはや降伏も恭順も認めない。
そのため、これまで帝国に恭順した国は、たった三カ国しかない。
そして、もう一つの条件。
王権の献上だ。
皇帝に王権を献上し、その後、皇帝より王権を下賜される。
この手続きを踏むことで、帝国の一部に組み込まれ、ほぼこれまで通りに王家が王国を統治することができる。
皇帝から送り込まれる代官を、輔弼として迎え入れる必要はあるが。
他にも細かい条件はいくつかあるが、オランジェス王はこれらを受け入れた。
共和国の連中に好きにされるくらいなら、帝国に組み込まれた方が遥かにマシだ。
それに、帝国は非常に魅力的な土産も持たせてくれた。
一矢報いる。
これを叶えてやろうというのだ。
ただし、直近の目標はヨッテンソーム王国だ。
これには、非常に魅力的な実利があった。
ヨッテンソームを南北で分割し、北を帝国が、南をオランジェスが組み込むのはどうか、と提案してきたのだ。
新たな国土が手に入れば、農地を増やせる。
農業や産業がある程度軌道に乗るまで、帝国が支援もするという。
美味すぎる話ではあるが、ネプストル帝国は実質オランジェス王国とヨッテンソーム王国の二カ国を手に入れることになるのだ。
オランジェス王は、この提案を歓迎した。
こうして、ネプストル帝国とオランジェス王国は、両国を分断する邪魔なヨッテンソーム王国を手に入れることにした。
これが、一年前の話。
帝国とオランジェスは、水面下で準備を進めていたのだ。
情報屋ギルドを使い、様々な噂をばら撒いたのも、その一つ。
『ヨッテンソーム王国が、オランジェス王国に攻め入る準備をしている。』
他にもいくつかのバリエーションの噂を用意したが、要点はヨッテンソーム王国が軍の準備を始めた、ということ。
大義は我らにあり、と分かりやすく帝国民に理解させるために。
実際の作戦は、ごく単純なものだ。
ヨッテンソーム王国の、北西の端の砦を奪い、近隣の町や村を襲わせる。
ヨッテンソーム王国が、砦奪還に軍を動員したのを合図に、オランジェス軍がヨッテンソーム王国に侵攻。
ヨッテンソーム王国が南部に戦力を向けたところで、二十万を超える帝国軍が、北部よりヨッテンソーム王国に侵攻。
一気に王都を制圧する。
当然ながら、海路でオランジェス王国に帝国軍を送り込んでもいる。
援軍と、それを指揮する優秀な将軍もだ。
商戦に偽装していたため、何度か海賊が襲撃してきたが、すべて沈めた。
これにより、オランジェス王が不在でも、南部の戦線は何の問題も無く維持される。
この後はホルスカイト共和国とヨッテンソーム王国の共謀や陰謀を暴露すれば、誰もが両国の卑劣さを納得するだろう。
ばら撒いた噂にも信憑性が生まれる、という訳だ。
大使は絶句し、壇上の皇帝シグフリッド、宰相コルエー、オランジェス王を見上げる。
自らが、どうしようもないほどに追い詰められていることを知り、額に吹き出る汗を拭うこともできなかった。
ネプストル帝国が、オランジェス王国の暴発に乗じただけだという、自らの認識の間違いを否応なく突きつけられていた。
何らかの繋がりはあるかもしれないとは思っていたが、オランジェスのことなど、帝国がまともに相手にするとは考えていなかったのだ。
しかし、両国は完全に繋がっていた。
それはつまり、ホルスカイト共和国の評議会の企みが、すでに露見していることを意味している。
評議会は、ヨッテンソーム王国と共謀して、オランジェス王国の苦境につけ入ることを画策した。
火山の噴火を利用し、経済的にオランジェスを追い詰め、民衆を扇動する工作員を送り込んだ。
その企みは半ば成功しており、オランジェスがヨッテンソームへ侵攻するという暴発を、評議会はむしろ歓迎しているほどだった。
しかし、そこに帝国が介入してきた。
帝国は、オランジェスの暴発に乗じ、ヨッテンソームに軍を出した。
評議会はそう考えていた。
しかし、実際は違う。
恥知らずなオランジェス王が皇帝に膝を屈し、泣きついていたのだ。
共和国が手に入れるはずだった、オランジェスの国土を差し出して!
(…………すべて、承知の上で帝国は動いたのか……っ!)
大使は頬を伝う汗を拭き、懸命に反論する材料を探した。
もはや、如何なる反論も無理筋でしかない。
それでも、ここで退くことは、ホルスカイト共和国の非を認めたも同じ。
ならば、決裂しようが互いの主張をぶつけ合うしか道はない。
「……こ、皇帝陛下に申し上げる。この上は、やはりヨッテンソーム王国より兵をお退きいただき、ヨッテンソーム王より真意を直接お聞きなさるがよろしいかと。調停会議の場で、すべてを詳らかにされては如何か。」
ヨッテンソーム王国がネプストル帝国に兵を送っていたというなら、直接その意図を問おうではないか、という提案だ。
オランジェス王の件は脇に置き、とにかく帝国の主張に的を絞る。
おそらく帝国のこの主張は、嘘。
帝国の正当性を突き崩すには、この点を突くしかない。
こんなものが、然程意味を成さないことは、大使自身も分かってはいる。
それでも、たとえ無理筋でも帝国に兵を退かせ、共和国の謀を葬るには、ここを足掛かりにするしかない。
そんな大使の提案を、宰相のコルエーが冷たく突き放した。
「ヨッテンソーム王より、話を聞く。まさにそのために、我らは兵を派遣しているのです。」
そう。
そして、大使としては、それだけは絶対に避けなければならなかった。
大条約を根拠とした調停会議の場なら、ホルスカイト共和国としてヨッテンソーム王を擁護することもできる。
しかし、ヨッテンソーム王の身柄が帝国に押さえられれば、万事窮す。
共和国が同席できない場で、ヨッテンソーム王の口から事の次第が露見すれば、共和国は非常にまずい立場に立たされることになる。
同席できなくては、共和国としてはヨッテンソーム王を庇うことも、切り捨てることもできない。
(帝国の嘘を突いたところで、共和国がオランジェスを狙っていた事実が無くなる訳ではない。それでも、このままでは共和国だけが泥を被ることになる。…………それだけは、絶対に避けなくてはならない!)
帝国は、自らに都合の悪い事実を葬り去り、都合の良い事実を作るだろう。
そうした未来が容易に見えるため、大使は意図せず拳を握り締め、唇を震わせた。
堂々とした風格を纏っていた大使だが、もはや見る影もなかった。
眉間に浮かんだ深い皺が、大使の追い詰められた立場を如実に表していた。




