1-3:雨と刺客
あくる日は生憎の雨だった。薄い壁越しに聞こえてくる雨音はゆるやかで、それほど激しくはないもよう。けれど家の中は大惨事。トタン屋根をコンコン叩いて隙間から侵入してきた雨水が、床にポタポタと模様を描いている。このままじゃ家中水浸しだ。
こんな珍しくもないことに、かかずらっている場合じゃない。持ってきたバケツを雨漏りの下にセットして、念のために万年床をたたみ、部屋の隅に避難者させておく。これでひとまずは大丈夫だろう。
ひと仕事終えたボクは達成感に浸る間もなく、歪んだ窓へ目を向ける。薄汚れたガラスの向こう側に、黒い山にそびえたつ白い巨影がぼんやり見えた。今日は例の塔を調査する予定だったけど、さて、どうしたものか。
ポクポクポクちーん。
「うん」
一人で考えこんでても仕方がない!
即座に思考を切りかえたボクは、傘を片手に家を出た。
案の定雨足は穏やかだ。歩いてすぐの隣家へ向かうくらいなら、傘は必要なかったかもしれない。濡れたくはないから一応さしていくけど。……といっても、壊れかけのこの傘じゃあ、さして変わりはなかったり。
「森野さーん!」
ドアをノックしつつ中へ呼びかける。廃材でできたボクの家と違って、森野邸は絵本に出てきそうなログハウスだ。ちなみにレヴィアさん家は小さなプールつきの瀟洒なお屋敷だから、立派な二軒に挟まれたあばら屋はすごく肩身が狭いと思う。でもこればっかりはどうにもならない。
「森野さん! いないの!?」
いくら待っても出てこない隣人。傘がなかったら濡れ鼠になってたかも。
とうとうしびれをきらしたボクは、ドアノブへ手をかけた。こうなったら勝手にお邪魔しよう。けれど流石は森野さんだ。鍵のかかった扉は、ひねってもひねってもガッチャンガッチャン悲鳴をあげるばかりだ。
「森野さん! このままじゃ扉が壊れちゃうよ!」
「まってまって! いまあけるからっ」
どれくらい待ったかな。ようやく中から返事が聞こえた。でも熊の野太い声じゃなく、鈴を転がすようなかわいい声だ。
「おねえちゃん、おはよう」
「おはよう真珠ちゃん」
出てきたのは真珠ちゃんだった。心なしか怯えた顔をしているけど、知らんぷりをしておこう。
「お父さんはいるかな?」
「ごめんなさい。パパははやくに出かけちゃったの」
おいおい森野さん……。「明日一緒に塔を調べてみよう」って、昨日約束したじゃないか。
「そっか。どこに行ったかわかる?」
「レヴィアおねえさんと、お山の方に行ったみたい」
「えっ」
まさかレヴィアさんまで……。どうやら約束は反故にされてしまったようだ。ケンカするほど仲良しさんな二人に仲間外れにされたボクは、尋常ならぬショックを受ける。
だから大人って苦手だ。勝手なんだもん。
「あのね、おねえちゃんのためなんだって。だからかなしいかおしないで」
真珠ちゃんは優しいな……。この掃きだめの天使だよ。
「ありがとね」なんて言いながら、かわいい隣人さんの頭を撫でる。だけど少し引っかかってる。「ボクのため」ってなんのため?
*
一度家に帰ったボクは傘を放り出し、代わりにレインコートをはおった。
「あれ?」
その時気付いたんだ。錆や穴でボロボロだった傘が、新品みたいになってることに。
本来なら喜ぶべきことかもしれない。この街じゃおかしなことは日常茶飯事だ。だけど考えてもみてほしい。昨日の今日でこれは妙だ。
直感に導かれるまま、薄暗い部屋の中を見回す。
部屋の隅に追いやられた布団に、あっちこっちガタのきたタンス、天井の真ん中にぶら下がる裸電球……変わりばえしない我が家の風景の中に、一つだけ、いつもと違う物がある。家を出る前に置いていったバケツだ。
中を覗いてみる。真っ平らな水面に影がさした。静かな雨音に包まれるあばら屋に、ごくり、生唾を呑む音が響く。雨のたび散々悩ませてくれた雨漏りが、ピタリとおさまっているじゃないか。
ぎこちなく見上げた天井には、空いているはずの穴が見当たらない。
いてもたってもいられなくなったボクは、家から飛び出した。玄関を閉じる手間も惜しくゴミ山へ向かって全速力で駆け出す。
*
家の前の通りをまっすぐ進めば山の麓へ辿り着く。
だけど残念なことに、行く手を阻む者が現れた。
「とおっ!」
芝居がかったかけ声が聞こえてきたかと思えば、通りに面する屋根の上から男が降ってきた。空気でふくらんだマントが重力に逆らい、コウモリの翼のようにバサリと広がる。
「我は【死の運び手】シャロンっ! 盟友森野の名にかけて、ここは通さぬぞっ!」
いかにもな覆面で顔を隠した変人……もとい怪人のシャロンは高らかに宣言すると、無駄にキレのいい動きでこちらをビシリと指差してきた。ふざけているとしか思えない。
「邪魔しないでよ渡来さん!」
「本名を呼ぶなっ! 今の我は冥界の渡し守シャロンだ!」
「そんなの知ったこっちゃないねっ! ごっこ遊びに付き合ってるヒマはないんだよ渡来守さん!」
「遊びじゃないっ! 俺はいつでも本気だ!」
なお悪いよ。
「大学生にもなってそんなことしてて恥ずかしくないの?」
「ぬかせ小娘! 我は使命に燃える者……羞恥心など、とうの昔に捨ててやったわ!」
……強い! まったく勝てる気がしない! 微塵も悔しくないけど!
「さぁさぁさぁ! 諦めて家に帰るのだ小娘!」
シャロン改め渡来さんはあくどい笑みを浮かべ、ジリジリとこちらへ詰め寄ってくる。どうやら本気でボクをゴミ山から遠ざけたいらしい。こうまでされると、ますます塔への関心が高まるってもんだ。
森野さんの残した刺客……さて、どう攻略したものか。
見た目と言動こそトンチキなものの、怪人モードの渡来さんの実力は本物だ。あの森野さんが認めるくらいだからね。武力行使に出られたら、とうてい太刀打ちできないだろう。だからといって「本気」のシャロンの茶番を止められる気もしない。強敵だ。
考えに考えて、ボクは最後にため息をついた。
「はぁ……わかったよ」
「ようやく諦めたか。懸命だな」
満足そうな顔をする渡来さんに、ボクもニコリと微笑み返す。
「この手は使いたくなかったんだけど」
「……なに?」
眉をひそめる怪人から目を離し空を見上げる。冷たい雨粒が顔面を殴りつけてきた。ボクは固く目をつむり、思い切り空気を吸い込んで、
「助けてえ! ランドグリースぅ!」
雨音に負けないように腹の底から叫ぶ。ゴミゴミした市街地に、うわんうわんと声が反響する。その余韻が消えかけた頃、なにかが爆発する音がどこか遠くから聞こえてきた。どうやら成功したようだ。
手応えを喜ぶボク。瞬く間に近付いてくる爆音。みるみる紅潮していく渡来さん。震える空気。揺れる地面。
──ビュン!
雨粒を弾き飛ばし、突風が通りを駆け抜けた。風圧に吹き飛ばされないよう足を踏ん張るボクの耳に、
「あべしっ……!」
珍妙な悲鳴が入りこんでくる。
「もう大丈夫よ!」
正義の味方の登場だ。
助けを求める声に応えて駆けつけてくれたのは美少女だ。フリルとリボンがたっぷりあしらわれた戦闘服に身を包み、謎のキラキラエフェクトを背負った彼女はいわゆる「魔法少女」ってやつで、名前はランドグリース。
どこぞからカッ飛んできたヒーローは、一撃目にしてダウン寸前のヴィランへ追撃のワンツーパンツをきめる。美しい連撃をおみまいされた渡来さんは、すさまじい勢いで空に飛んでいった。曇天に残像を残し、ぶあつい雲を突き抜けて……キラリ。怪人は星となった。