前編
「婚約を破棄したいんだ、エマ」
ここは、街で人気のレストラン。
待ち合わせの時間きっかりに現れた男は、心底申し訳なさそうに頭を下げた。
静かに席に座っていたエマはぽかんと口を開けて、黒縁眼鏡の奥からじっと男を見上げた。
「……はい?」
「おれのことを誰よりも愛してくれる女性が現れたんだ。おれも、彼女に一生を捧げたい」
エマとフランクは親同士の決めた婚約者だ。
フランクは金髪碧眼、身長も高く、整った顔立ちをしている。さらに、軽妙なトークは世の女性たちを虜にしてきた。
幼なじみであるエマは、それをずっと隣で見てきた。
しかし、彼には婚約者という存在がいたから表立って行動に移す女性はいなかった、はずなのだ。
(最近連絡を取ってもなかなか返事がこないし、いつかはそうなる気がしていたけれど)
エマは膝の上でぎゅっと拳を握った。
流行好きで派手なフランクに対して、エマの容姿は『地味』。
赤毛はくせがひどいし、視力が悪いため分厚い眼鏡が手放せない。おしゃれや流行りにも興味が薄い。
「どんなひと?」
エマが尋ねると、フランクは顔を上げた。
最初の暗さが演技だったかのように、ぱぁっと表情が明るくなる。
フランクはエマの向かいに座って一気にまくしたてた。
「今年から商業ギルドで働きはじめた子なんだ。決して仕事ができるタイプじゃない。だけど、ひたむきで、一途で、一生懸命に仕事を覚えようとしていて。そんなところが可愛くてたまらないと思ったら、いつの間にか……」
いつの間にか、何なのだ。
どうしてそこを濁すのだ。
(というか。今まさに婚約を破棄しようとしている相手に向かって、そこまで言う!?)
フランクの悪びれない態度に、エマは怒りを通り越して諦めの気持ちが湧いてきた。
商業ギルドで営業職をしているフランク。
いわゆる、職場恋愛というやつなのだろう。
(婚約破棄の手続きって何があったっけ。賠償金の請求手続きも、しなきゃいけないのかしら)
「……それに、結婚しても冒険者ギルドの受付嬢を続けたいと言うエマより、結婚したら専業主婦になりたいって言ってくれる彼女の方がいいんだ」
(あぁ、なるほど。それが本音ね)
エマは大きく溜め息を吐き出した。
「分かったわ。婚約は解消しましょう」
「エマ。ありがとう!」
フランクがずいっとテーブルに身を乗り出してくる。
そして驚いて身を引くエマの両手を取った。
「これからもいい友人としてやっていこうな!」
*
ふたりがレストランを出る頃には、空はすっかり暗くなっていた。
無数の星が瞬いて夜を彩っている。
(つ、疲れた……)
フランクに家まで送ると言われたものの、なけなしのプライドで固辞したエマ。
今なら溜息を吐き出すだけで痩せられそうだった。
(美味しいものばかりのはずだったのに、全然味がしなかった。勿体ないな)
しかも何かが吹っ切れたフランクは、食事中もずっと新たな恋人の話をしていた。
エマは相槌を早々に放棄して、生ぬるい表情でひたすら耐えた。耐え続けた。
何よりもしんどかったのは、周りの客が完全にエマたちの会話に耳を傾けていたことだ。
良くも悪くも目立つフランクと、婚約者だったはずのエマという組み合わせ。
きっと明日には、街中に婚約破棄の噂が広まっていることだろう。
(あーあ。どこかで口直ししてから帰ろうかな)
エマが決意を固めたときだった。
どんっ!
「あっ、すみま、せ――」
人気のない路地だというのに、後ろから何者かがぶつかってきた。
エマはバランスを崩して倒れかけなんとか堪えた。しかしすぐに、肩にかけていたバッグがなくなっていることに気づく。
「泥棒っ!」
エマはぶつかってきた人間を追いかけるものの、相手の方が圧倒的に速い。
「待って!!」
(お金はそんなに入ってないけれど、そのなかには)
レストランでは呆れの方が上回って涙のひとつも出てこなかった。
しかしこの状況には視界が潤み、鼻の奥が痛くなってくる。
(今日は人生で最低の日だ)
走りながらエマは唇を噛んだ。
「……あれは、君のものか?」
すると不意に、背後から低く落ち着いた男の声がした。
発音に訛りがある。
知らない声だったが、エマは頷いた。
「わたしのバッグです!」
「承知」
――重たい風が、吹いた。
エマは突然のことにびっくりして立ち止まってしまう。
しかし風は一気に泥棒へ追いつき、うねりを上げた。
ごっ。
鈍い音の後、泥棒がその場に崩れ落ちる。
はっと我に返ったエマは慌てて走った。
「あっ、あの」
エマの目線の高さに、ハンドバッグがぬっと突き出された。
見上げると立っていたのは大男。
改めて、エマは大男の姿を認識し、息を呑んだ。
(職場で体格のいい人間はたくさん目にしてきたはずなのに、比にならないくらい大きい……!)
「はい、そうです。ありがとうございます」
ハンドバッグを受け取って、エマは中身を確かめる。
「よかった……」
独り言と共に、再び視界が滲んだ。
涙が零れないよう、エマは思い切り鼻をすすった。
「大事なものか?」
「はい。形見なんです、母の」
エマは銀色の栞を取り出した。それは、暗闇でも光を湛えている。
形見であり、仕事道具。肌身離さず持っている栞なのだ。
「ほんとうにありがとうございました。お礼をさせていただけませんか?」
「礼には及ばない。ただ、ひとつだけ教えてほしい」
「何でしょう?」
「犯罪者を突き出す場所を知りたい」
大男が、ぐったりとして動かない泥棒の首根っこを捕まえた。
「分かりました。すぐ近くに自警団の詰所があるので、ご案内します」
「助かる」
(普通だったらこのひとにも警戒すべきなんだろうけれど、どうしてだろう。このひとはきっと、悪いひとじゃない)
ひょいっと荷物を持つかのように泥棒を抱えた大男。
エマは、そんな彼と共に歩き出した。
*
「おはようございます……」
「エマー! 聞いたわよ、大丈夫なのっ!?」
翌日、冒険者ギルドの更衣室。
出勤してきたエマを見つけて、同僚のアメリーが抱きついてきた。
アメリーはエマより頭一つ小さい。
ふわふわの金髪に蜂蜜色の大きな瞳。透き通るような真っ白な肌。
男爵家の令嬢なのだが、性格は見た目に反して『強烈』。
また、エマにとっては苦楽を共にしてきた親友でもある。
「あはは。やっぱり、もう噂になってるんだ」
「だって相手はあのフランクよ。噂にならない方がおかしいと思わない?」
しっかり抱きしめてくるアメリーの声は震えていた。
エマはアメリーの頭を撫でてから、両肩に手を置いて身を離した。
声の通り、アメリーは泣いていた。鼻のあたまが真っ赤になっている。
「しかも婚約破棄したっていうのに、一緒に食事したんですって? あのバカ、一発殴らないと気が済まない」
「うーん。さすがのわたしも、あれには引いたけど」
「あれ?」
「お相手のいいところを延々と説明されたの。生返事しかできなかった……」
「はぁ!? ますます信じられない。さっさと別れるべきだと思ってたけど、正解だったわ!!」
今度は怒りで震えだしたアメリーに向かって、エマは肩をすくめてみせた。
「いいのよ。フランクらしいっていえばフランクらしい話だもの」
「エマ。……お父さまは?」
「遠征中でいない。帰ってきたらがっかりするかもしれないけれど。これで心置きなく仕事に打ち込めるわ」
エマは大きく背伸びをした。
母はエマが幼い頃に他界している。
男手ひとつで娘を育ててきた父親にとって、娘の将来は最大の関心事だろう。
自分はどうだっていいけれど、父親が傷つくのは良心が痛む。
「だって、フランクは何回説明してもわたしの仕事を『受付嬢』って言うんだもの」
「あー……」
アメリーが苦虫を噛み潰したような表情になった。
エマは制服に着替え終わる。
白い襟が眩しい、ビリジアン色のジャケット。同じ色のロングスカートに、黒のタイツ。ぴかぴかの革靴も黒。
「わたしたちは『相談員』よ。冒険者が死なないように、かつ、最もレベルアップできる仕事を紹介する。この仕事に誇りを持っているの、わたしは」
「さすが、紹介したクエスト生還率100%の相談員。そんな仕事一筋のあなたが大好きよ、エマ」
「わたしもアメリーが大好き。いつも話を聞いてくれてありがとう」
エマとアメリーは顔を見つめ合い、どちらからともなく再び抱きしめあった。
「さぁ、今日も笑顔で働きましょうか!」
ぎぃい……。
更衣室から廊下に出て扉の向こう。
そこは、冒険者ギルドの受付フロアだ。
高い天井はステンドグラスになっていてきらきらと光が降り注いでいる。
2階に繋がる階段の真ん中には噴水があって、絶え間なく水が流れていた。
「――」
「――」
いろいろな国の言葉やにおいが静かに混じり、溶け合っている。
そんな空間は青を基調としながらも、金銀がアクセントに使われていた。築何百年経っても色あせない美しい館内は、まるで美術館のよう。
クエストを紹介する相談員たちのカウンターは、バーのように少し高く設計されている。
あてがわれた席にエマが着くやいなや、ギルド中に大声が響き渡った。
「ちょっと、エマちゃん。出勤して大丈夫なのぉ!?」
高めの椅子に軽く腰かけて、テーブルに身を乗り出してきたのは――長い銀髪を後ろでひとつに束ねた、細身の男性だ。
切れ長の瞳は涼しげなアイスブルー。
同じ色のショートマントを留める肩当てには、立派な模様が施されている。肘当てや膝当ても同様で、それらは王家の加護を特別に受けている証だ。
「おはようございます、レオンさん」
「おはよう。じゃなくて。ついに婚約破棄されたんですって? おめでとう。どうする? 燃やす?」
「レオンさん。笑えない冗談はやめましょう」
ぽきぽきと指を鳴らすレオンの左中指には太幅の黒いリングが輝いている。
(レオンさんの火魔法だなんて、しゃれにならないから!)
本気で言っているようにも取れるので、エマは仕事用の笑顔を引きつらせた。
レオンは口調こそ軽妙なものの、この国で5本の指に入る冒険者なのだ。その証が、中指のリングである。
「割り込みはだめですよー? エマは人気相談員なんですから」
隣の席からアメリーが頬を膨らませた。
「アメリーちゃん、おはよう。残念だったわね。今日は新規冒険者の紹介のために予約を取ってあるの♪」
ぴっ、とレオンが懐から指輪と同じ色のカードを取り出してみせた。
エマはレオンに頭を下げる。
「いつもご紹介ありがとうございます」
「いえいえ。前回エマちゃんが紹介してくれた国境沿いの洞窟でのクエスト。そこで知り合って意気投合した男がいてね。隣国の出なんだけど、職に困っているって言うから、アタシが紹介状と推薦文を書いてこの国に呼んだの」
レオンが肩越しに振り返る。
「アベラルド!」
張りのある呼びかけに、のそり、と影が動いた。
「……あ」
レオンが促し、男はレオンの隣に座った。
短く刈られた濃いめの金髪。深い藍色の瞳は三白眼。
きゅっと結んだ口元からは寡黙な性格が予想できる。
身に着けている防具には年季を感じさせる無数のかすり傷がついているが、どれも浅いものだった。
初対面こそ暗闇だったが、エマには確信が持てた。
敢えて席から立ち上がって頭を下げる。
「昨日は助けてくれてありがとうございました」
「なに? 知り合い?」
「夜道ですりに遭ったとき、助けてもらったんです。あらためて、エマ・ヘルトと申します。冒険者ギルドで相談員をしています」
「……アベラルドだ」
「へぇ」
にやにやとレオンが笑みを浮かべてアベラルドの肘を小突いた。
しかしアベラルドは表情を崩さない。
「ネーエのご出身ということは、この国の冒険者システムの案内からした方がよろしいですか?」
「頼む」
「はい、かしこまりました」
エマはカウンターの下からライトグレーのリングケースを取り出した。
載っているリングは5種類。クリスタル、シルバー、ゴールド、プラチナ、ブラック。
順番にエマは指し示す。
「この国の冒険者は中指のリングに個人のデータやクエストの記録を蓄積しています。冒険者ギルドでは、それぞれの適性や能力に合わせたクエストを斡旋して、確実に経験値を蓄積できるようにしています」
詳しい仕組みは知らない。ただ、このシステムは建国当時からあるという。
冒険者によってこの国は成り立っているので、エマたちにとっては自然なことなのだ。
「まずはアベラルドさんのリングを登録します。最初は皆、クリスタルのリングからです。レベルアップすると、リングのグレードが変わります」
「アタシはブラック。材質は、ひ・み・つ。これはアーベントイアーで5人しかいないのよ♪」
レオンが口元に人差し指を当てて片目を瞑る。
ふむ、とアベラルドが声を漏らした。
エマは言葉を続ける。
「リングを嵌めるのは、右手と左手、どちらにしましょうか」
「利き手はなくなるかもしれないから止めておいた方がいいわよ」
横からレオンが物騒なアドバイスをする。
しかしその通りなので、エマも訂正はしない。
冒険者とは過酷な職業なのだ。
「では、右で」
「かしこまりました。今から、このカードを持って測定室へ行ってください。身体の基本的な情報や能力を測定して、アベラルドさん専用のリングを作製します。今日の夕方には完成しますので、受け取ったらまたこちらのカウンターへお越しください。クエストを紹介させていただきます」
エマがクリスタルでできた薄いカードをアベラルドに差し出す。
「相談員はエマちゃんをお勧めするわ。生還率とレベルアップ率がナンバーワンなのよ」
レオンがアベラルドの背中を軽く叩いた。
すると、アベラルドはじっとエマを見つめてきた。
(昨日は見えなかったけれど、アベラルドさんの瞳は夜のような色をしている。闇だけど、光ってる。見ているだけで吸い込まれそう)
「どうかされましたか?」
「……有能なんだな」
「ありがとうございます。冒険者を死なせないのが、わたしたち相談員の最大の務めですから」
エマは1日ぶりに、心から微笑みを浮かべることができた。
*
ごーん、ごーん……。
休憩を報せる鐘の音がギルド内に響き渡った。
「行きましょっ、エマ。朝の時間だけじゃ話し足りないわ」
「ちょっと待って」
エマは開いていた本に銀の栞を差し込み、閉じた。
立ち上がるとスカートの裾を整える。
冒険者ギルドの裏側には事務所の他に食堂も併設されている。
ギルド内で働いている人間は自由に使うことができ、飲食代は毎月の給与から天引きされていく仕組みだ。
さながら、街のカフェテリア。開放感のある空間は食事も美味しく、食堂を目当てにギルド勤務を希望する者もいるという。
「やった! 一番乗り!」
アメリーが快哉を上げる。
「お疲れさまです。今日も元気ですね」
エマたちが入り口で木のトレイを手にしたところで、厨房から爽やかな声がした。
ふたりが顔を向けると、真っ白なコックコートに身を包んだ男性が微笑んでいた。
「フェリックスさん」
分かりやすくアメリーの頬があかく染まる。
フェリックスは、食堂のチーフ。すべてのメニューを手掛けている。
アメリーの気持ちに気づいているのかいないのか。
少なくともエマが見ている限りでは、気づいていないとしか考えられなかった。
「今日のセットランチは何ですか?」
「煮込みハンバーグと海老グラタンです」
「じゃああたしはセットランチにします!」
「わたしも同じものをお願いします」
エマもアメリーに続いた。
「かしこまりました」
フェリックスが厨房から手を伸ばして、ふたりの木のトレイをてきぱきと埋めていく。
湯気の立つ煮込みハンバーグと海老グラタン。
ミニサラダと、スライスされたバゲット。
艶々のオレンジもちょこんと一切れ。
どれもちょうどいい量で、美味しそうに見える。
「フェリックスさん。今日のポイントは何ですか?」
アメリーが厨房を覗き込んだ。
視線の合ったフェリックスは手を止めて答える。
「海老グラタンにペースト状のコーンを入れたことでしょうか」
「コーン! 聞いているだけで美味しそうです」
「いつもありがとうございます。……そういえば、エマさん」
「はい?」
ふたりのやり取りを見守っていたエマは、突然話を振られて首を傾げた。
「これはほんのおまけです。よかったらお召し上がりください。アメリーさんも」
フェリックスがパープルのゼリーを差し出してきた。
(これはもしかして、婚約破棄の話を耳にして、励まされている?)
エマは隣のアメリーに視線で問いかけた。
アメリーがこくこくと頷く。
「ありがとうございます。いただきます」
「あたしの分まで感謝します」
すっかり重たくなったトレイを運び、エマとアメリーは窓際のテーブル席に着いた。
ふぅ、とエマは息を吐き出す。
「フェリックスさんにまで気を遣われてしまった……」
「だけど、敢えて言葉にしないところがすてきだわ」
フェリックスのどんな行動も肯定的に解釈するアメリーはうっとりとしている。
「やっぱり、相手がフランクだったからいけないのかな」
「ごめん。それは否定できない」
するとふたりの頭上に声が降ってきた。
「僕としては君が結婚退職しなくて安堵しているよ」
「副ギルド長!?」
エマは慌てて立ち上がりお辞儀する。
正ギルド長は王城に登ることが多いため、副ギルド長は冒険者ギルドの実質的な責任者だ。
オーダーメイドのスーツがよく似合っている。白いものが混じり始めた髪の毛を撫でながら、副ギルド長は目を細めた。
「君のような有能な人材を失うのは惜しいと前々から思っていたんだ。ということで、これは婚約破棄の記念に受け取ってくれたまえ」
ぴっ、と紙のチケットを差し出され、エマは両手で受け取った。
内容を確認したエマは、副ギルド長とチケットを交互に見る。
「こ、これは歌姫のコンサートチケット、の、特等席……!?」
「ちょうど1枚余っているところを引き取ったんだ。ドレスアップして行くといい」
それだけ伝えると、副ギルド長は去って行った。
「えー! すごーい!」
「正規で買ったら、月給の半分が軽く吹っ飛んでいきそうなんだけど……。いや、そもそも買う権利すら手に入らないんだけどね!?」
「お祝いって言ってたし、ありがたく貰っちゃえばいいのよ」
アメリーはいつの間にか口をもぐもぐと動かしていた。
「冷めないうちに食べちゃいましょう。休憩は有限なんだから」
「うん。そうね」
パープルのゼリーは、ぶどうの甘酸っぱい香りと味がした。
*
数日後。
歌劇場から出てきたエマは、ふるふると肩を震わせていた。
(すっごく、よかった……。コンサートというものに初めて行ったけど、音がきれいだし、迫力がすごいし、何より歌姫の美しさといったら……!)
歌劇場からどんどん人が出てくる。
流れるように皆、夕焼けに染まる街並みへ消えて行った。
誰かと一緒に来ていればおしゃれなバーやレストランで感想を述べあうこともできただろう。
しかしエマはひとりだったので、耳に入ってくる会話に心のなかで相槌を打つしかない。
(分かる。分かる。3曲目のファルセットといい、8曲目のアカペラといい、ほんとうにぞくぞくっとした。衣裳替えの演出もすばらしかった……アンコールのときの夜空のような照明は本物以上に美しかった……)
せめて、副ギルド長へお礼をしよう。
決意して、エマが歩きはじめたときだった。
道の向かいから大男がゆっくりと歩いてきた。
アベラルドだ。
「こんにちは、アベラルドさん」
エマはアベラルドを見上げて微笑みかけた。
すると、大男は怪訝そうな表情になる。
「エマ・ヘルトです。冒険者ギルドの」
「……あぁ」
アベラルドが口元を大きな手で覆った。
「着飾っていたから判らなかった。すまない」
「あっ」
エマは自分の恰好を確認するように視線を落とす。
座席の関係もあって、副ギルド長に言われた通りドレスアップしてきたのだ。
一張羅のドレスワンピースは光沢のあるオレンジレッド。学院の卒業式で着て以来クローゼットにしまってあったが、虫に食われていなくてほっとした。
ヒールの高い靴は持っていないので、手持ちでいちばん派手なビジュー付きのパンプス。
ハンドバッグは持ち手がパールでできている。
メイクは自分でやるとちぐはぐな仕上がりになる自信があったので、サロンでお願いした。
何故だかサービスでフェイシャルエステがついてきた。その上、ぼさぼさの眉は整えられ、睫毛も増量されてしまった。
さらに黒縁眼鏡の代わりに、視力矯正用の水晶を瞳に入れられてしまった。
本来の目的であるメイクは濃すぎず薄すぎず、流行を見事に取り入れながらもエマの顔立ちを活かしたものになっている。
「わたしもこんな格好は1年に1回するかしないかなので、アベラルドさん以外の方にも同じ感想をもらいそうです」
急に気恥ずかしくなってきたエマは、はにかんでごまかす。
「ところで、先日ご紹介したクエストはいかがでしたか?」
「面白かった」
(ちっとも面白そうには見えないけれど、あまり感情に表情を載せない方なんだろうな)
何故アベラルドがレオンと意気投合したのかふしぎに思えてくる。
しかし、それは冒険者同士にしか分からないものがあるのだろう。
「それはよかったです」
「報酬も中々のものだった。また次も君にお願いしたい」
「ありがとうございます。相談員として、最高の褒め言葉です」
では、また冒険者ギルドで。
エマが挨拶しかけたとき。
「あれ? もしかして、エマ?」
能天気な声が後ろから聞こえてきた。
エマが顔を向けると、フランクが歩いてくるところだった。
傍らには小柄の女性を連れている。
女性はエマと視線が合うと、ぺこりと頭を下げてきた。
「……久しぶり、フランク」
「すごいなー! 見違えたよ。エマも着飾ると普通の女性なんだな! 隣の方は恋人? 冒険者ギルド繋がり? いやー、安心したよ。おれだけ幸せになっちゃって申し訳ないと思っていたから」
「……?!」
(どこからどうつっこんでいいか分からないんだけど!)
一気にまくしたててきたフランクに、エマは何も言い返すことができない。
「お互い最高の夜を過ごそうな!」
そしてエマの沈黙を肯定と解釈したのか、フランクは女性と共に去って行った。女性の肩を抱き寄せて、耳元で何かを囁いている。
胸のうちに留めておけなかった独り言が口をついて出た。
「……いい1日だったのに……台無し……」
「随分と失礼な男だったが、知り合いか?」
『失礼』を被弾したアベラルドが声を落としてきた。
「申し訳ありません。巻き込みました」
「自分は見ず知らずの他人にどう思われようが構わない。だが、君は違うだろう?」
弾かれたようにエマはアベラルドを見上げた。
「今のは言葉を装った武器だ。相手にその気があろうとなかろうと」
ちくり、と胸の奥が痛んだようで、エマは唾を飲み込んだ。
意識して背筋をぴっと正す。
「いつもなら、大丈夫です、と言いたいところなんですが。着飾らなければ女性として認識しないような男性を、形式だけとはいえ長年婚約者としていたことをひどく後悔しています……」
(しまった。個人的な事情を話したって迷惑なだけだよね)
言い終わるやいなやエマは後悔に包まれる。
一方でアベラルドは眉間に皺を寄せ、何かを考えているようだった。
「先日の礼を受け取る権利はまだ残っているか?」
「え?」
「連れて行ってくれないだろうか。この街で、最も眺めのいい場所に」
*
エマがアベラルドを案内したのは、歌劇場から少し離れた上り坂を進んだ先にある小高い丘。
視界の半分以上を占める空は、濃いオレンジ色と澄んだ藍色の層を作っている。
その境界線は曖昧で、まるで黄金。
(きれい……)
エマは息を呑んだ。
眼下に広がる町並みは少しずつ灯りがともっている最中。
行き交う人々の賑わいも見える。
道中、ふたりの間に会話はなかった。
そして目的地に辿り着いた今も。しかし、気まずさはなかった。
エマは空を見つめ、澱んでいた感情が鎮まっていくのを感じていた。
(アベラルドさんなりに気を遣ってくれたのかな。口数は少なくても、他人を気遣えるひとだ)
「活気のある都市だ。夜に灯りがともるのは、平和な証拠だ」
アベラルドがエマの隣に立つ。
『平和』という単語に力がこもっていたのは、ネーエが長い間、戦争をしていたからかもしれない。
「君は、どうして冒険者ギルドで働いている?」
ぼそりとアベラルドが言葉を零した。
突然の質問だった。
「両親が冒険者なんです。父は現役で、母は、わたしが10歳のときにクエストで命を落としました。冒険者には事故がつきものですが、だからといってそれを当然だと思いたくはありません。わたしのような想いをするひとを、……悲しみを減らしたくて、ギルドの相談員という進路を選択しました」
すらすらとエマは答えた。
風は日中の熱を失い、冷たく頬を撫でていく。
ふたりの間を、そんな風と沈黙が流れていった。
やがて、世界は完璧な藍色に包まれる。
エマとアベラルドが初めて出逢った日と同じ、澄みわたる夜。
「……強いな」
「そうでしょうか」
「大事なことや譲れないものを自分で決められるのは、強い証拠だ」
エマは俯いた。
アベラルドが彼なりに励ましてくれているのは、明らかだった。
心がくすぐったくて話題を変える。
「アベラルドさんはどうして冒険者になったんですか?」
「かなり辺境の山奥で育った。この世に生まれ落ち、歩けるようになる頃には、闘ったり奪ったりしないと生きていけなかった。君に言えないようなことも、たくさんやってきた」
(ネーエ出身ということは、傭兵として戦争に参加していたのかな。それとも、盗賊?)
エマは敢えて尋ねることをしなかった。
今は今、昔は昔だ。
それに真の悪党ならば、レオンがこの国に連れてくる前に、闇へ葬り去っているだろう。
「正直なところ、驚いている。こんな見た目なのに、君はまったく自分のことを恐れないで接してくれる」
「冒険者ギルドで働いていれば、屈強な見た目の方と接する機会はいくらでもありますから」
初対面での印象を、エマは素直に口にした。
「それから、母がネーエの出身なので、ちょっとした親近感もあります。アベラルドさんの発音は母に似ているので、まるで母と喋っているような気分になります」
「母君が?」
はい、とエマは頷く。
「アベラルドさんとは知り合ってまだ日も浅いですが、話し方がやわらかいので、とても安心できます」
エマは体を横に向けて、両手でそっとアベラルドの左手に触れた。
アベラルドの手はエマよりも遥かに大きく、かたく、ごつごつとしていた。
しかし夜風に当たっていても冷たくなっていない。
(強い人間の手だ。戦いに身を投じて、痛みと真摯に向き合ってきた人間の……)
エマは同じ手の持ち主を知っている。
再び、エマは顔を上げた。
空よりも濃い闇色の瞳が、驚いたようにエマを見ていた。