いつか、東京で見た空(5)
「――結婚なんて」
「俺は男だから、多少しんどくても働こうと思うよ。でも、莉佳は違うだろ。作家になりたいんだろ。会社をやめて、家のことをしながら、小説を書くのに時間使えばいいと思う。別に働きたいとか人と関わりたいなら、バイトとかすればいいじゃん。カフェとかでさ」
「でも、冬吾はまだ学生でしょ? 就活だって途中だし」
「その辺はなんとかするから大丈夫」
翌朝、新しい部の編成が発表された。
私はまた折橋さんと一緒で、隣の席で、他のメンバーは田宮さんをはじめ、みんな折橋さんと仲の良い人ばかりだった。なにかと気にかけてくれた上司も、他の部署に変わってしまった。
「うっわあ、最悪」
折橋先輩が、小さな声でつぶやいた。
「最近、よく会うね」
トイレで夏菜と一緒になった。
私はなにか言おうとして、――出てこなくて、声が詰まった。
「何かあった?」
私はうつむいた。
「聞くよ」
そう言って夏菜は私の手を引くと、お手洗いの外側を確認し、私を非常階段へと連れ出した。
「ここなら大丈夫。だれにも聞かれないよ」
夏菜の笑顔を見たとたん、また目頭が熱くなって、ぽつりぽつりと、これまでの出来事を話しはじめた。それはたぶん支離滅裂でわかりにくかったと思う。
うつむいたまま話し終えたけれど、夏菜の反応がない。なにか失敗してしまっただろうか、実は夏菜も折橋先輩の信奉者なのだろうかと不安になり、恐る恐る顔を上げる。
そして、ぎょっとした。
夏菜は、目を赤くして泣いていた。
「――どうして、夏菜が泣くの?」
「あの、ごめん……。聞いてたら、くやしいし、腹が立って。
莉佳ちゃん、それはね、いじめだよ。本人が自覚してなくても、そんなつもりじゃなくても、莉佳ちゃんがそう感じたのなら、いじめだよ」
「でも、証拠もなにもないの」
「――部長に話してみない? もしかしたら、今からでもなんとかなるかもしれないよ。人間関係が原因で異動させてもらった人もいるって聞いたもの」
その夜、私は部長に時間を取ってもらった。
なにから切り出していいかわからなくて、自分でも困惑していると、部長はお茶を一口飲んで、それから「異動のこと?」と口にした。
私は、ぱっと顔をあげて、うなずいた。
「――すみません。あの、証明する方法がないので誰にも伝えていませんでしたが、折橋先輩と私は、――その、うまくいっていません。もし事前にお伝えしていたら、異動に反映させていただいたり、……できたでしょうか?」
なんとかそれだけ言い切った。
部長は、薄い唇をほほえみの形にした。そして、首を振る。
「実はね、僕は把握していたんだよ」
「え?」
「折橋は、君に嫌がらせのようなことをしていた。そして、君はそれを気に病んでいる。そうだろう?」
私はうなずく。そして、困惑しながら「では、どうして?」と尋ねた。
「今回、君たちを離さなかったのには理由がある。君への試練として考えたんだ。
人間関係がうまくいかないことなんて、働いていたら多々あるよね。それを乗り越えていかないでどうする。自分で解決できないでどうする。
悪いのは8割折橋だろう。でも、君にも原因がある。君はコミュニケーションが不得手だ。生真面目すぎるし臆病だろう。いわゆるノリというものに合わせていくのに欠けている。それが不調和を生むんだ。
だからね、僕は、事前に君から相談を受けていたとしても、今と同じ人事を提案したよ」
「だれ一人として、味方になってもらえない異動を?」
部長はうなずいた。
「――そうだ、君、小説は書いているか? こういう苦難こそ、ネタになるんじゃないか。君の作品は良かった。今の君なら、以前とまた違った作品を書けるんじゃないか」
そのあとは、どうやって時間をつぶしたのか思い出せない。先輩の嫌味を気にする余裕さえなく、20時には会社を出た。
地下鉄のホームに電車が滑り込んでくる。
このまま消えてしまいたい。朝と同じ。ふらふらと流されるように電車に乗り込む。
部長の言っていることは、間違いなく正しい。こんなこと、これからいくらでもあるかもしれない。私が弱いだけかもしれない。
でも、私は疲れ果てていた。
就職活動をはじめたころから、幾度となく自分の人間性や能力を否定され続けてきた、そのくり返しに。
私は高校生のころに作家としてデビューした。本も何冊か出した。でも、ちょっとしたバッシングにあってから、心がぽきりと折れて、うまくいかなくなった。
そのまま流されるように生きて、いつのまにか就職活動の時期を迎えていた。
受賞経験という結果と、そのために目標設定をし、地道に努力を重ねてきたという過程を告げた。
ところが、どの企業でも取り沙汰されるのは「物書き」という異色の経歴だった。
「またデビューしたら辞めるんだよね? そんな人間を取ると思う?」
「君ってさ、書くことだけに向き合ってきたの? なんとも薄っぺらい人生だね」
圧迫面接でわざと言われているというのもあったかもしれない。でも、どの企業でも、私のこれまでは否定され続けてきた。
合格した企業でも「入社後は執筆活動をやめるように」と言われて、最終的には辞退した。
そうして最後に出会い、唯一「おもしろい!」と手放しで言ってくれたのが、今の会社だった。
入社後もどんどん執筆するといい、楽しみだ! と、最終面接でほめてくれたのが部長だった。
それまでは正直なところ、生きていくためだけに就職しようと思った。でも、入社して、いろいろな人の仕事への姿勢に触れて、働くことも楽しいのだとはじめて感じたのだった。
どこを見るでもなく、ぼんやりと外に目をやると、視界の端で、男の人がぎょっとした顔でこちらを見ているのに気がついた。
どうしたのだろう? と首をかしげて、ふと、頬が熱いことに気がついた。視界も曇っている。
恥ずかしい。これは一体なんだろう、どうしたら止まるのだろう。
自覚すると、ますます涙がこぼれ出した。あとから後からぽろぽろと落ちてくる。止まらない。
こんな公共の場所で泣くなんて、どうかしてる。――拭くものをなにも持っていなくて、とりあえず手の甲で目を押さえた。視界はすっかり滲んでしまった。
ふと目の前にティッシュが差し出された。恰幅のいい男性は、無言でそれを私の手に押しつけると、その後は知らないふりをしてくれた。
家に帰ると、別人のようになった冬吾がいた。
茶色くふわふわしていた髪は、ばっさり切られて黒く染まっている。
「――どうしたの?」
「仕事、決めてきた。四月から問題なく入社できるよ」
「え?」
「あと、うちの親にも結婚しようと思うって言ってある。うちの方は大丈夫。だから、あとは莉佳の親御さんに話すだけだよ。――今すぐじゃなくてもいけど、とりあえず考えておいて」
私は泣きながら冬吾にしがみついた。
「でも、逃げるみたいで気がとがめる」
「俺は別に逃げてもいいと思うけど……。しんどいことを、無理してまでやる意味なくない? そもそも、逃げたのか、道を変えたのか、それはこれからの過ごし方で決まると思うけど」
翌日、私たちはお昼前に目を覚ました。
久しぶりにすっきりとした目覚めだった。ふだんは閉ざしているベランダの窓を開けて空気を入れ替える。ゴミ袋を出してきて、床に無造作に積まれたものを選別し、どんどん捨てていく。
夕方ごろにはようやく目に見える部分がきれいになった。
その日は雪が降っていた。東京では珍しいねとささやきながら、身を寄せ合って近所のスーパーに赴き、数日分の食材を買ってきて、キッチンに立った。
「明日はまた会社だっけ?」
「うん。そうだよ」
「行けそう?」
「うん。――せめて三月まで。入社してから一年になるまではがんばろうと思う。
でも、でもね、……あのね、私、会社を辞めようと思う。それで、冬吾が言ってくれたとおりに、――結婚してもらってもいい?」
私が訊くと、冬吾は笑ってうなずいた。
逃げたんじゃなくて、生き方を選んだんだと言える、そんな未来をつくろう。私はそう誓ったのだった。
目が覚めたのは、家族が起き出してくるよりもずいぶん早い時間だった。
カーテンを引き、窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。ソーダ水のような、冷たい冬の空は、いつか東京で見た色に似ていた。
鼻の奥がつんと熱くなった。
そして思うのだ。――今の私なら、逃げたとも流されたとも言わないのではないか、と。
大きく深呼吸をする。着替えて髪の毛を結い上げる。きれいに整ったデスクに向かい、新しい一日をはじめていく。