表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/27

いつか、東京で見た空(5)

「――結婚なんて」

「俺は男だから、多少しんどくても働こうと思うよ。でも、莉佳は違うだろ。作家になりたいんだろ。会社をやめて、家のことをしながら、小説を書くのに時間使えばいいと思う。別に働きたいとか人と関わりたいなら、バイトとかすればいいじゃん。カフェとかでさ」

「でも、冬吾はまだ学生でしょ? 就活だって途中だし」

「その辺はなんとかするから大丈夫」




 翌朝、新しい部の編成が発表された。

 私はまた折橋さんと一緒で、隣の席で、他のメンバーは田宮さんをはじめ、みんな折橋さんと仲の良い人ばかりだった。なにかと気にかけてくれた上司も、他の部署に変わってしまった。


「うっわあ、最悪」


 折橋先輩が、小さな声でつぶやいた。




「最近、よく会うね」

 トイレで夏菜と一緒になった。

 私はなにか言おうとして、――出てこなくて、声が詰まった。


「何かあった?」


 私はうつむいた。


「聞くよ」


 そう言って夏菜は私の手を引くと、お手洗いの外側を確認し、私を非常階段へと連れ出した。


「ここなら大丈夫。だれにも聞かれないよ」


 夏菜の笑顔を見たとたん、また目頭が熱くなって、ぽつりぽつりと、これまでの出来事を話しはじめた。それはたぶん支離滅裂でわかりにくかったと思う。


 うつむいたまま話し終えたけれど、夏菜の反応がない。なにか失敗してしまっただろうか、実は夏菜も折橋先輩の信奉者なのだろうかと不安になり、恐る恐る顔を上げる。


 そして、ぎょっとした。

 夏菜は、目を赤くして泣いていた。


「――どうして、夏菜が泣くの?」

「あの、ごめん……。聞いてたら、くやしいし、腹が立って。

 莉佳ちゃん、それはね、いじめだよ。本人が自覚してなくても、そんなつもりじゃなくても、莉佳ちゃんがそう感じたのなら、いじめだよ」

「でも、証拠もなにもないの」

「――部長に話してみない? もしかしたら、今からでもなんとかなるかもしれないよ。人間関係が原因で異動させてもらった人もいるって聞いたもの」




 その夜、私は部長に時間を取ってもらった。

 なにから切り出していいかわからなくて、自分でも困惑していると、部長はお茶を一口飲んで、それから「異動のこと?」と口にした。


 私は、ぱっと顔をあげて、うなずいた。


「――すみません。あの、証明する方法がないので誰にも伝えていませんでしたが、折橋先輩と私は、――その、うまくいっていません。もし事前にお伝えしていたら、異動に反映させていただいたり、……できたでしょうか?」


 なんとかそれだけ言い切った。

 部長は、薄い唇をほほえみの形にした。そして、首を振る。


「実はね、僕は把握していたんだよ」

「え?」

「折橋は、君に嫌がらせのようなことをしていた。そして、君はそれを気に病んでいる。そうだろう?」


 私はうなずく。そして、困惑しながら「では、どうして?」と尋ねた。


「今回、君たちを離さなかったのには理由がある。君への試練として考えたんだ。

 人間関係がうまくいかないことなんて、働いていたら多々あるよね。それを乗り越えていかないでどうする。自分で解決できないでどうする。

 悪いのは8割折橋だろう。でも、君にも原因がある。君はコミュニケーションが不得手だ。生真面目すぎるし臆病だろう。いわゆるノリというものに合わせていくのに欠けている。それが不調和を生むんだ。

 だからね、僕は、事前に君から相談を受けていたとしても、今と同じ人事を提案したよ」

「だれ一人として、味方になってもらえない異動を?」


 部長はうなずいた。


「――そうだ、君、小説は書いているか? こういう苦難こそ、ネタになるんじゃないか。君の作品は良かった。今の君なら、以前とまた違った作品を書けるんじゃないか」




 そのあとは、どうやって時間をつぶしたのか思い出せない。先輩の嫌味を気にする余裕さえなく、20時には会社を出た。


 地下鉄のホームに電車が滑り込んでくる。

 このまま消えてしまいたい。朝と同じ。ふらふらと流されるように電車に乗り込む。


 部長の言っていることは、間違いなく正しい。こんなこと、これからいくらでもあるかもしれない。私が弱いだけかもしれない。

 でも、私は疲れ果てていた。


 就職活動をはじめたころから、幾度となく自分の人間性や能力を否定され続けてきた、そのくり返しに。




 私は高校生のころに作家としてデビューした。本も何冊か出した。でも、ちょっとしたバッシングにあってから、心がぽきりと折れて、うまくいかなくなった。


 そのまま流されるように生きて、いつのまにか就職活動の時期を迎えていた。

 受賞経験という結果と、そのために目標設定をし、地道に努力を重ねてきたという過程を告げた。


 ところが、どの企業でも取り沙汰されるのは「物書き」という異色の経歴だった。


「またデビューしたら辞めるんだよね? そんな人間を取ると思う?」

「君ってさ、書くことだけに向き合ってきたの? なんとも薄っぺらい人生だね」


 圧迫面接でわざと言われているというのもあったかもしれない。でも、どの企業でも、私のこれまでは否定され続けてきた。


 合格した企業でも「入社後は執筆活動をやめるように」と言われて、最終的には辞退した。


 そうして最後に出会い、唯一「おもしろい!」と手放しで言ってくれたのが、今の会社だった。

 入社後もどんどん執筆するといい、楽しみだ! と、最終面接でほめてくれたのが部長だった。


 それまでは正直なところ、生きていくためだけに就職しようと思った。でも、入社して、いろいろな人の仕事への姿勢に触れて、働くことも楽しいのだとはじめて感じたのだった。





 どこを見るでもなく、ぼんやりと外に目をやると、視界の端で、男の人がぎょっとした顔でこちらを見ているのに気がついた。


 どうしたのだろう? と首をかしげて、ふと、頬が熱いことに気がついた。視界も曇っている。


 恥ずかしい。これは一体なんだろう、どうしたら止まるのだろう。

 自覚すると、ますます涙がこぼれ出した。あとから後からぽろぽろと落ちてくる。止まらない。

 こんな公共の場所で泣くなんて、どうかしてる。――拭くものをなにも持っていなくて、とりあえず手の甲で目を押さえた。視界はすっかり滲んでしまった。

 ふと目の前にティッシュが差し出された。恰幅のいい男性は、無言でそれを私の手に押しつけると、その後は知らないふりをしてくれた。




 家に帰ると、別人のようになった冬吾がいた。

 茶色くふわふわしていた髪は、ばっさり切られて黒く染まっている。


「――どうしたの?」

「仕事、決めてきた。四月から問題なく入社できるよ」

「え?」

「あと、うちの親にも結婚しようと思うって言ってある。うちの方は大丈夫。だから、あとは莉佳の親御さんに話すだけだよ。――今すぐじゃなくてもいけど、とりあえず考えておいて」


 私は泣きながら冬吾にしがみついた。


「でも、逃げるみたいで気がとがめる」

「俺は別に逃げてもいいと思うけど……。しんどいことを、無理してまでやる意味なくない? そもそも、逃げたのか、道を変えたのか、それはこれからの過ごし方で決まると思うけど」




 翌日、私たちはお昼前に目を覚ました。


 久しぶりにすっきりとした目覚めだった。ふだんは閉ざしているベランダの窓を開けて空気を入れ替える。ゴミ袋を出してきて、床に無造作に積まれたものを選別し、どんどん捨てていく。


 夕方ごろにはようやく目に見える部分がきれいになった。


 その日は雪が降っていた。東京では珍しいねとささやきながら、身を寄せ合って近所のスーパーに赴き、数日分の食材を買ってきて、キッチンに立った。


「明日はまた会社だっけ?」

「うん。そうだよ」

「行けそう?」

「うん。――せめて三月まで。入社してから一年になるまではがんばろうと思う。

 でも、でもね、……あのね、私、会社を辞めようと思う。それで、冬吾が言ってくれたとおりに、――結婚してもらってもいい?」


 私が訊くと、冬吾は笑ってうなずいた。

 逃げたんじゃなくて、生き方を選んだんだと言える、そんな未来をつくろう。私はそう誓ったのだった。







 目が覚めたのは、家族が起き出してくるよりもずいぶん早い時間だった。

 カーテンを引き、窓を開けて、新鮮な空気を取り込む。ソーダ水のような、冷たい冬の空は、いつか東京で見た色に似ていた。

 鼻の奥がつんと熱くなった。


 そして思うのだ。――今の私なら、逃げたとも流されたとも言わないのではないか、と。


 大きく深呼吸をする。着替えて髪の毛を結い上げる。きれいに整ったデスクに向かい、新しい一日をはじめていく。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ