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いつか、東京で見た空(4)

 トイレから戻ると、折橋さんが喫煙室にいるのが見えた。たくさんの人に囲まれて、楽しげに談笑している。ふと、隣の部署の田宮さんに声をかけられる。


「三井ちゃん、いいね。折橋さんが先輩なんだろう? 楽しそうだよなあ」


 私はあいまいに笑うしかなかった。


「そうそう、三井ちゃんはもう小説書いてないの? 」


 私が驚いて見つめると、彼は「ああ」と言った。


「入社のときに話題になってたんだよ。君、本を出してるんだよね? その道で食べていこうとは思わなかったの?」


 目をきらきらさせて詰め寄ってくる田宮さんに、私はあいまいに笑った。


「あー、タミーおじさん!」


 折橋先輩がぱたぱたと駆けてくる。彼女より十以上も年上の田宮さんを、どこか馬鹿にしたような愛称で呼んでも、彼女は許される。

 折橋紗季子は清楚な美人だ。彼女の本質に気づいている人はほとんどいない。


 上司たちは、私たちの間に流れる空気になんとなく気がついているようだった。

 それでも、私から申告しなければなにも対応できないらしく、困ったことがないかとこまめに聞いてくれた。


 それでも私は言えなかった。これは「いじめ」なのだろうか? 証拠もなにもない。それに、折橋紗季子はみんなに信頼されている。みんなに好かれている。

 いつも輪の中心にいる。




 ――ようやく一日が終わった。

 折橋先輩のエンジンは、定時になったあとにようやくかかる。それまでは雑談をしながら、ちょこちょこと仕事を進めるだけ。

 四時半頃から焦り出し、六時過ぎにはいらいらしている。ピークは疲れが溜まってくる八時だ。


 そういうとき、彼女は意味もなく私のデスクの周りを確認するくせがある。そうして、なにかあらを探しては、嫌味をぶつけてくるのだ。

 彼女が後ろに立つ。それだけで、息苦しくなる。


 今日はもうやることもなくなって、でも帰ることもできなくて、ひたすら散らかっているところを探して片づけたり、上司に追加の仕事をもらえないか聞いたりしていた。


 それでもやることがなく、読みやすい資料のつくりかたを調べていたら、折橋先輩に大目玉を食らった。残業代で遊ぶな!と。


 帰ったら怒られるし、少なくともあなたの何倍も仕事をしています。――そんなふうに言い返せる私ではなかった。




 21時の電車は混んでいて、私はヒールを履いた足を交互に浮かせて休めながら、なんとか最寄り駅にたどり着いた。


「ファミレスでも行く?」


 駅に着くと、冬吾が待っていた。

 朝に会ったときと同じ適当な格好をしていて、そのままで大学に行ったの? と訊くと、別に普通じゃねえ?と答えが返ってきた。


 食べられそうにないなと思ったけれど、彼の腕にしがみついて、目をつむって、歩き出した。




「全然食べないじゃん。またお腹痛いの?」

「――うん」


 私はほんの少しだけパスタを口にして、あとはあげる、と彼の前に置いた。


 いじめと呼んでいいのかもわからない、冷たい対応がはじまってしばらくしたころ。耐え難い痛みで受診したら、胃カメラを飲むように言われた。ストレス性の胃炎だとわかった。

 あまりものを口にしなくなり、私はみるみるうちに痩せていった。




 バイクに乗せてもらって家に着く。


「そういえばさ、今日って月食らしいよ」


 冬吾が言う。


「莉佳、そういうの好きだろ? 河川敷に見に行かない?」


 私はうなずいて、一度荷物を置きに家に入り、冬吾のスウェットに着替えて出てきた。


 もう夜中に近いというのに、河川敷は人でいっぱいだった。近隣に立ち並ぶマンションからも、みんながベランダに出て空を見上げている。


「なんだか、お祭りみたいだね」


 私がそう言うと、冬吾は笑った。


 皆既月食というのは、世界が真っ暗になるものだと思っていたけれど、月が赤銅色になって見えていた。

 肌寒い冬の空気の中で、冬吾の腕にしがみついて、じっと空を見上げた。久しぶりに呼吸をしているという感じがした。



「ただいま」

「誰に言ってるの」


 冬吾が笑った。

 私たちは、半同棲状態だった。長い間続けてきた遠距離恋愛を終わらせたくて、東京に来た。



 冬吾は一浪しているから、まだ大学生だ。四年生だけれどまだ仕事は決まっていない。


 部屋はひどい有様だった。8畳のこの部屋は、一目惚れしたデザイナーズ物件で、私のお給料の半分ほどは家賃に注がれていた。


 遠距離恋愛が終わった朝のことは今でもよく覚えている。大学の卒業式が終わったあと、迎えに来てくれた冬吾と一緒に部屋を片づけ、運ばれていく荷物を見送り、そうして新幹線に乗り込んだ。

 あのころ、東京での暮らしを本当に楽しみにしていた。


 やりたいことを諦めて仕事につくのは不安だったけれど、かわいい部屋で、おいしいものを作りながら暮らしていこう。そう思っていた。


 でも、部屋は入居した時とは比べ物にならないくらい、散らかって汚れていた。奥のほうにはベッドがあり、手前にローテーブルとミニソファがあるだけの小さな部屋だけれど、至るところに本やものや箱が積み重ねられている。適当に投げ捨てられた服も塚のようになっているし、壁一面についた大きな収納は、開けると中からものが崩れ落ちてくる状態だ。


 そんな中に、帰りに駅の花屋さんで買ってきた切り花を一輪だけ飾っているものだから、本当に混沌としていた。




 そのころは特に残業続きだったこともあり、私は部屋を片づける時間も気力も持ち合わせていなかった。

 不思議なことで、一日家事を諦めると、その分次の日が大変になり、その負債を回収しようと思う気力がどんどんなくなっていった。


 見かねた冬吾がたまに片づけてくれていたけれど、ほとんどが私のものなので、どう扱っていいかわからないらしかった。




 お風呂上がりに、タオルをまとっただけのまま、洗面所でうずくまった。

 胃が突き刺すように痛くて動けなくなったのだ。どうもお風呂に入るといけない。


「また痛くなったの?」


 冬吾が顔を出す。


「仕事やめたら?」

「むり」

「でもさ、そんなに痛みを抱えてまですることなの?」

「でも、今のこの精神状態で転職活動ができるとも思えない。やめたらもう、実家に帰るくらいしか思いつかないよ」


 涙がぽろぽろとこぼれてきていた。――そう、やめたら未来はない。そうとしか思えなかったのだ。

 方法はきっと、たくさんある。でも、それを考えることさえ億劫だった。




 冬吾はしゃがみ込み、ふうと長く息を吐き出して、それから言った。


「結婚すればいいじゃん」


 私が顔をあげると、彼は珍しく真剣な顔をして言った。

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