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いつか、東京で見た空(3)

 仕事がどんどん片づいていくときの感覚が好きだ。

 普通にやっても時間をかければ終わる。けれども、小さな工夫を積み重ねていくと、どんどん質もスピードも良くなっていく。

 今の私にとって、それこそが一番の生きがいだった。


 上司や同僚の手伝い、備品の整理などを終えても、どうしても仕事が見つからないときは、こうして仕事の効率化を学ぶ時間にしている。

 とりたててやることのない昼休みもそうだ。



 午後も暇だった。Wordの小技を調べながら、人一倍電話を取るように心がけた。

 この部署では、営業所とのやりとりがほとんどだ。外部の人と関わることがないので、マナーはそんなに気にしなくてもいい。


 人と話すのが苦手だから内勤を希望していたけれど、今は、電話対応だけが楽しみな時間になっていた。


 営業部の人がシステムでわからないところを調べて、わかりやすく伝える。そういう仕事だ。


「三井さーん、品川営業所の田中さんから電話」

「ありがとうございます」


 不機嫌そうなその声に一瞬びくりとし、ひと呼吸置いて内線を取った。

 田中さんからはよく電話がかかってくるので、顔も知らない人だけれど、妙に親近感がある。


『品川営業所の田中です。忙しいところごめんね、ちょっとお客さんからシステムのことで質問をもらったんだけど、よくわからなくてさ――』


 そのとき、電話が鳴った。


 私をのぞいて2人しか人がいないのに、誰も取ろうとしない。ふとそちらを見ると、あの人はチッと舌打ちをしたかと思うと、ようやく受話器を取った。


 かんたんな確認だったらしく、すぐに電話は終わったけれど、そのあともう一人の同僚に彼女はにやにやしながらこう告げた。


「電話を取るのは一番下っ端の役目なのに、どうして私が取らないといけないんでしょうね。使えないなあ」


 形の良いくちびるからにこにことつむがれるその言葉に、血の気がざあっと引くのがわかった。


「本当ですよねえ」


 と、同僚がそれに同調している。

 ふたりとも、私に聞こえないとでも思っているのだろうか。


 今、私がしていることはなに? どうやったら同時に2つの電話を取れるのだろう。それは理不尽な言いがかりでしかなかった。


『――三井さん?』

「あ、すみません。ちょっと聞き逃しちゃったのでもう一度教えてもらってもいいですか?」


 私はどくどくと鳴る心臓を押さえながら、そう告げた。


『いつもごめんね。それと指名しちゃってびっくりしたでしょう。三井さんはいつも丁寧に速く対応してくれるから、君にお願いしたかったんだ。忙しいところごめんね、助かったよ』


 受話器の向こうで、田中さんが言った。

 それは私が今日はじめてかけられた、血の通った言葉だった。


『特に、折橋さんだっけ。彼女の対応はひどいよね。もちろん、仕事時間を削って対応してもらってるのはわかるんだけど……。一度そっちの上の人に言おうかと思ってるんだけどさ。三井さんは大丈夫? いじめられたりしてない?』


 田中さんの言い方は、冗談っぽく聞こえるけれど、その中に心配の色も見え隠れした。

 そうです、とはまさか言えなくて、私はあいまいに笑った。




 折橋紗季子は、入社五年目の先輩だ。

 背が高く華奢な体をしていて、つやつやと手入れの行き届いた長い黒髪をいつも下ろし、線の細い眼鏡をしている。


 私のすべてを彼女は気に入らない。

 最近わかってきたのは、そこに理由なんてないのだということ。


 思えばはじめて会ったときから、彼女は私にだけ冷たかった。時折だれかの悪口を言っていることがあり、それが自分のことではないかとひやひやしたのを覚えている。


 ところが、彼女がきらっていた相手は私ではなかった。そのときは。

 とはいえ、ほかの人にするように親切ではなかったから、気に入らない程度には思っていたのだろう。



 やがて、彼女がきらっている人が誰なのかわかった。自分のきらいな相手を、周りの人たちにもきらってほしい。彼女の言動には、そうした心が透けて見えた。


 たしかに、その人――河原林さん――は、少し変わった人だった。


 見た目にも無頓着で、いつもよれよれのワイシャツを着ていたし、とにかく無愛想で、聞こえないくらいの小さな声で話すにも関わらず、言い回しもきつかった。

 よくいらいらして、顔を真っ赤にして怒ることもあった。


 はじめのうちは、私も彼のことが苦手だった。

 それがわかると、折橋先輩は私に優しくなった。まるで、共通の敵を倒すパーティーのように。


 ランチに誘われるようになり、よく話しかけられた。社内ネットワークで、彼の悪口が飛んでくることもあった。


 すべてが変わったのは、河原林さんといっしょに外出した日だった。

 まる一日話してみると、人見知りが裏目に出てしまう、朴訥な人だとわかったのだ。


 知識が豊富で、慣れてくるととても気遣いのできる大人の人だとわかり、苦手意識もなくなった。

 情報通な彼と話すのが楽しくなり、他愛のない会話をすることが増えた。すると、先輩には探りを入れられた。


「三井ちゃん、最近あの人とよくしゃべってるね」

「はい。――あの、最初はかなり苦手だったんですけど、話してみたらすごく楽しかったんです」


 何度か彼の悪口に同調してしまったことを、私はひどく後悔した。


 彼女の視線が冷たくなったのは、そのすぐ後のことだった。

 河原林さんへの当たりは相変わらずきつく、ある日、泣きそうな目をして会社を辞めるのだと教えてくれた。


 そして、標的が変わった。 よくある話だ。どこにでも転がっているような。しかも、彼女は無自覚で、それでいて巧妙だった。直接的に攻撃されるわけじゃない。誰のことなのか名前が出てこないから、それが自分のことなのかと追及することもできない。




 トイレの個室で、少し泣いた。

 こういうときはいつも、ペンダントに触れることにしている。クリスマスに冬吾にもらったものだ。私のために時間を割いて、探してくれたもの。これだけがお守りだと思った。

 私は、どうでもいい人間じゃない。そう言ってくれているような気がした。


 そもそも、いじめられているとも言い難いのだ。


 ただ、朝の挨拶を無視されるだけ。

 全員に配られる彼女の差し入れが、私にだけ無いだけ。

 時折自分のことかなと感じる内容の悪口が聞こえてくるだけ。

 雑談ばかりして仕事をしない彼女に合わせて、終電で帰らないと嫌味を言われるだけ。

 通りがかりに、たまに舌打ちをされるだけ――。



 でも私も、河原林さんのことを悪く言ってしまったのだ。

 それは、因果応報だと思えた。

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