いつか、東京で見た空(1)
短編小説でUPしていたものです。
本編はこの2年後になります。
ソーダ水のような、冷たい冬の空は、いつか東京で見た色に似ていた。
鼻の奥がつんと熱くなった。
そして思うのだ。――今の私なら、逃げたとも流されたとも言わないのではないか、と。
大きく深呼吸をする。着替えて髪の毛を結い上げる。きれいに整ったデスクに向かい、今日をはじめていく。
「莉佳、遅刻するぞ」
冬吾に急かされて家を出る。
それは、新卒一年目の冬のことだった。十七歳で出会った北條冬吾との付き合いも、いつのまにか長い月日が経っていて、私たちは恋人同士というよりも、家族というような間柄になっていた。彼はふわふわした茶色の髪を黒いカチューシャでとめて、寝起きのスウェット姿の上にダウンを着込んでいた。
ヘルメットをかぶると、まだぼうっとしたままの私をバイクの後ろに乗せて、駅まで走った。
「夜にさ、なんか食いに行こう。会社出たらメールして」
冬吾はそう言って、ひらひらと手をふる。
駅前で彼と別れるのが名残惜しかった。このまま家に居たい。どこにも行きたくない。
ふと彼の後ろをグレーのコートを着た男が足早に抜けていこうとしていた。
「――最近、電車に変な人がいるんだよね」
男がぴくりと一瞬動きを止めた。
脈絡もなくそう言った私に、冬吾は首をかしげる。私はほほ笑みの形をつくり、ひらひらと手を振って、改札を入った。
すぐに踏切の音が鳴り出して、遮断器が降りてきた。
電車で仕事に行くのは、川を流れていく桜の花びらの様子に似ている。実際にはそんなにきれいなものではないけれど。
白い息を吐きながら、空を見上げる。ソーダ水のような冷たい冬の色。それなのに、どうしてだかふとそんなことを思った。
電車は時間通りに出発しなかった。
最後の二人が入れなかったからだ。走ってきた駅員の男性が、まるで体当たりをするようになんとか乗客を詰め込む。圧迫感に小さくうめいた。
満員電車はがたがたと揺れながら走り出した。
ぎゅうぎゅうになった様子は、小川の石のところで詰まってしまった桜の花びらに似ている。
ふとグレーのコートを着込んだ男と目が合う。今日は私の後ろにいないようだ。
あの人はいつも私と攻防をくり広げる痴漢。確証はないけれど。ややガラの悪い出で立ちで現れた、強面の冬吾を見て攻撃をやめたのだと推察している。
気持ち悪いけれど、証拠もないし、これまでもなんとか自力で防いできたのだから、もうどうでもいい。余計なことは考えたくない。労力を使いたくない。
東京駅で人の波に運ばれるように電車を降りた。そのまま駅の構内をただただ流されていく。
私はそこで考える。今日の挨拶はどうしようかな。笑えるかな。
駅から会社のそばまでは、地下道を通っていく。少しだけ遠回りになるから誰にも会わなくて済むので気に入っている。
ただただ胸のうちに広がるもやもやした気持ちを抑え込みながら、歩くことにだけ集中する。
エスカレーターを登りながら、徐々に顔を出す高層ビルを見上げ、目を細めた。大きく深呼吸をする。
そして、今日がはじまる。