慰撫
手の届かぬ思い人を手にしていながら、目の前の男は怒りを露わにする。
胸の内に秘めているのも猶予出来ないとでも言うのか?!
思わず応えてしまった自分に腹が立つ。
そもそもこの男がこんなにも怒り狂っていると言う事が理解の範疇を超えていた。
グラヴセルを卒業して、オックスフォードに向かう日が近づき、彼の人は私に帰還の約束を望んだ。
「判らないな」
そう答えると、彼の人は、そのまま口を噤んだ。
彼の人の反応がそうでしか無いことを知っていながら、そう言った。それが私の本音か、否かは、私の問題では無いはずだった。
「で…私に何をしろと?!」
ラルフは少し苛立ちながらシャンパンの栓を抜こうとしていた。私の問いにまだ剣を帯た視線を投げると、無言のまま真珠色の泡を立てるグラスを寄こして言った。
「君が別れを告げて旅立ったのは聞いている。だが、あれは君に心を残したままだ。無論それは君には関係の無い事なのだろう?!」
つくづく妙なもの言いをする。
私は何も言わずにグラスに口を付けた。
そう、彼の人を捕らえ得ないのは君の問題だろう?!
「しかし君はあれを愛して居るんだろう?!」
「それこそ貴方には関わりの無い事だ。遠慮には及ばない」
釈然としない顔で此方を見やり、溜息を付いた。
「お前な、その口の利き様は何とかならないのか?!。気が変わったのかと思ったぞ。なら、本当に職務の為に帰国したのか?!」
「そう、貴国との関係を、本格的に切りたいと思ってね」
「本気か?!」
「無論。このまま残しては逝けない」
「…逝けない?!」
しまった!口が滑った。
果たして、ラルフが私の手からグラスを取ってテーブルに戻したかと思うと、躰を掬い上げられた。
有無を言う間もなくベッドに放り込まれた。
あっという間にタイを抜かれ、唇を重ねられた。
ここへ来れば或いはと思っていたものの、正直戸惑った。
「…抗うな」
叱る口調で、そう言うと、私の返事など初めから無いものの様に、次々に衣服を解いてゆく。
瞬く間に息が上がり、追い上げられて喘ぎに高まる。じき頭が霞んで何も考えられなく成ってきた。口づけが素肌を降りて行く。
「…止めろ…このままじゃ…汚い」
口を付けかかっている彼を阻むと、剥き出しにした左胸の傷跡に爪を立てて聞く。
「…これは、何だ?!」
応えずに居ると、いきなりうつ伏せに押し伏せて、左腕をねじ上げようとした。反射的に躰が動いて、右手がラルフのほほを打っていた。
予測されていたようで、ヒットせずに爪先が細い切り傷を作って血の筋が盛り上がる。シニカルに口の端を上げて言う。
「こうされるのが好きなんだろうに」
「その時」が脳裏に白い閃光をもたらすと、意識が白熱して…弾けた。こんな風に扱われるものに存在の価値などあろうはずが無い。
「…判った!!止せ!俺が悪かった!」
気が付くとラルフの腕をねじ上げて、膝裏を踏んでいた。情況に愕然とした。
「クラヴ・マガか?!」
放した腕の動きを確かめながら、顔をしかめて言う。
「だから、彼奴か?!」
「え?!なにが?!」
「オックスフォードのさ。武道の有段者だそうじゃ無いか?!そんな男なら、よしんば挑発されても殺してしまうことは無いから…だろう?!」
頷くとラルフの腕が髪を撫でて背を滑り、諸手が抱き締めた。暖かいと思ったとたん涙がこぼれ落ちるのを感じた。
お読み頂き有難うございました。
これまで書いてきたアウルの印象では無かったような彼が出ていると思うんですが…事件の後、ケインを通して護身術を身に付けているだろう事は、想定の中に有りました。「クラヴ・マガ」は、イスラエルで開発された接近戦用の護身術です。
実は、家の鍵を交換したとき、イスラエル製の鍵は、対テロ性能が高くて、ドリルも通さないと言われてから、興味を持っていましたの。
この後も宜しくお願い致します!