悲哀のマクベスと別れのゲシュタルト
橋の上、二人の男女が神妙な顔で向かい合っていた。
人通りのない、橋の上。もうすぐ雪に変わろうかという、冷たい霧雨が、糸を引き二人を濡らす。
十二月の雨は、一降りごとに雪を近づけた。近いうちに雪が降ることを予感させた。この霧雨が二人の表情をより一層悲しいものに見せていた。
男は二十代前半に見える、黒髪を眉根辺りでそろえた、優しそうな顔立ちの好青年という男だった。
対する、女はショートの黒髪をあご下でそろえ、猫のような目をして、高い鼻と相まってエキゾチックな雰囲気の女だった。
男は霧雨が降る、空模様のように悲しい顔をしており、女は対称に無表情だ。
そして、二人の間には近すぎることもなく、遠すぎることもなく、丁度、他人と知人の中間ほどの、見えない壁が立ちはだかっているように見える。
男は女が作るその壁に気付き、動揺していた。
「わたしたちはもう、別れるべきなのよ……」
女はまるで、劇団女優のような張りのある声でいった。学生のころは、演劇部にでも入っていたのかもしれない。
演劇経験のある者だけが発することができる、張りのある声だったのだ。
「どうしてだい……僕の何が気に入らなかったっていうんだ。もし、気に入らないことがあるなら、言ってくれ。君のためなら、直すから!」
男は身振り手振りを交えながら、劇的にいった。さながら、ロミオとジュリエットのロミオのように。
「あなたの言葉は嬉しいわ! だけどもうだめなの! わたしとあなたの間には、埋めることのできない、溝ができてしまったんだわ!」
そういい女は一歩後下がりした。
男は女の一歩を埋めるように、前進した。男が前進した分だけ、女は後下がりするので、その溝は埋まることがない。超えることはできない。
橋下から聞こえてくる濁流の音が、男の精神を搔き乱した。
「今なら、まだやり直せる! 僕は君が好きなんだ! 愛してるんだ! だから、考え直してくれ……!」
男の顔は、シェイクスピア四大悲劇のマクベスに登場する、マクベスのように、歪んでいた。
自分が王になることを三人の魔女に予言され、自分の妻と協力しかつて忠誠を尽くした王を殺した、マクベスのように、歪んでいた。
「わたしもあなたを愛していたわ! 心から、愛していたわ! だけど、もうだめなのよ!」
雨脚がより一層、強くなった。
女は雨に濡れた、髪を手のひらで払った。髪を払いかき上げるその姿は、劇的だった。
「だから、どうしてだ! どうして、だめなのか言ってくれなきゃ、分からないじゃないか!」
男は、また一歩前進した。しかし、女は男が前進した分だけ、後下がりする。女と男のあいだにできた、溝は埋まることがない。
「わたしが言わなくても、分かっているでしょ! そう! あなたは分かっているのよ!」
男は首を振る。髪を滴る雨水が、大地に飛び散った。
「言ってくれなきゃ! 分かる訳ないだろ!」
「いいえ、あなたは分かっているのよ。分かっているんだわ!」
女の潤んだ瞳は男の困惑した目を見つめ返した。
「分からないよ!」
男は両手のひらを、女に向けて訴えた。
「そう、なら教えましょう――あなたはあの三人の魔女の狂言を信じて、破滅するでしょう。そして、わたしがあなたを信じて、あなたを破滅させてしまうのよ!」
男はうろたえるあまり、一歩後下がりし、女との溝は深まった。
「そんなことに……なる訳ないだろ! 信じてくれ!」
「ええ、あなたのいうことなら、信じるわ。信じたいわ。……だけど、もう、手遅れなのよ! 事態は収拾のできないところにまで、来てしまっているのだから!」
そういって、女は踵を返し、男に背中を向けた。届かない手を、必死に伸ばし、あらがう男。そして、立ち去り際に女は、いった。
「わたしはわたしの人生を生き、あなたはあなたの人生を生きる。わたしはあなたの期待にこたえるために生きているのではないし、あなたもわたしの期待にこたえるために生きているのではない。私は私。あなたはあなた。もし縁があって、私たちが再び出会えるならそれは素晴らしいことでしょう。しかし出会えないのであれば、それも仕方のないことなのです」
男は女の話をあらがうことなく、聞いていた。最後に女は振り返った。短い髪が、パッと広がり、濡れた頬に貼り付いた。
「これから、わたしはわたしの人生を生きます。あなたはあなたの人生を生きてください。もしまた出会えるのであれば、それは素晴らしいことです。そのときは、ただの友達として、再びお付き合いしてください……」
女はその言葉を最後に立ち去った。
男はただ立ち尽くしていた。男は空を見上げた。いつの間にか雨があがり、分厚い雲のあいだから、白い結晶が降ってきた。
今年、最初の雪を見た――。別れのホワイトクリスマス――。