第五話 苛立ちと焦燥と探し物
『色々入用なモノもあるだろうし、準備を整えてまた明日来るわ。……んじゃ、後は若い二人に任せてって事で。ごゆっくり~』
主人公野郎こと佐久間翔がそんなふざけた言葉を残して帰っていた後、俺はリビングのソファで一人横になっていた。
やかましいのが帰ったからか、いつものリビングがやけにただっ広く感じる。
こうしてテレビもつけずに目を瞑り横になっていると、まるで世界に生きるのが自分一人だけになってしまったようにさえ思える。
そんな感慨を破壊すべく一人酷暑に抵抗するエアコンの稼働音がやけに耳障りだった。
「……」
近くに彼女――シオンの姿は見当たらない。
部屋の広さがやけに目立つのも、エアコンの音一つに過敏に反応してしまう事も、それが理由。彼女の気配すらも今は感じなかった。
……その理由も、俺は分かっている。
『コーイチ』
『……』
『コーイチ、コーイチ』
『……なんだよ』
『後を任された若い二人が何をするか、相場は決まっている。佐久間翔の発言は、お見合いなる儀式における定型文。つまり、ここから先は夫婦入らず。いちゃいちゃたいむ――』
『……はぁ』
『コーイチ?』
『悪いけど、今はお前に構ってやれる余裕ねえわ。つか、今はお前と話したくない。疲れてるんだ、しばらく一人にしてくれ』
『……分かった。コーイチが、そう望むなら』
彼女に放った己の言葉を思い出し、小さじ一杯分ほどの――けれど決して無視できない――後悔と自己嫌悪が胸に過る。俺の言葉に素直に頷くまるで感情を感じさせないシオンの表情が瞼の裏に今もまだ焼き付いていた。
「……ちょっと、強く言い過ぎたか」
翔が帰ってからおよそ半刻。
壁に掛かった時計は三時四十二分を指している。
あのまま俺の部屋へと消えるように去っていったシオンは、律儀に俺の言いつけを守って一度もリビングへ出て来ていない。
昨日今日と立て続けに色々な事があって、心も体も疲れていた。
昼飯もまだだというのに、何も作る気にならない程に精魂尽きている。
だからなのか、カルガモの雛が親鳥に付きまとうように、常に俺の視界に映り込んで来るシオンの存在がどうにも煩わしかった。
俺の気も知らずに無警戒に無遠慮に近づき付き纏ってくるシオンの距離感に無性に腹が立った。
どうしてこんなにも心がささくれ立っているのか、その感情の正体は、理由は、俺にもよく分からない。
けれど、その一端に彼女への怒りがある事は間違いないと思う。
その怒りの感情が、翔が帰ってシオンとの非日常に取り残されてしまった事で思い出したように俺の中で膨れ上がって再燃し、逃げ場を求めるように吐き出されたのだ。
一体彼女の何に対してこんなに怒っているのかはよく分からないけれど。
「……別に、間違った事は言ってない。俺は、間違ってない……はずだ」
ソファの上、別に寝苦しい訳でもないのに寝返りを打った。
視界が九十度回転し、電源のついていないテレビと視線が合って嫌になる。
シオンの存在が翔にバレた件については、責任の半分は俺にあるだろう。
翔との約束を忘れ、シオンをほうってバイトへ出かけた俺の行動は、振り返ってみれば実に軽率なものだった。
だが、シオンの危機感がない対応にも絶対的に問題がある。
彼女は自分がこの世界にとっての異物だという事を正しく理解出来ていない。
もしもシオンの正体が世間に知られた時、『星喰い』の少女がどんな扱いを受ける事になるか、少し考えればどんなに想像力の足りない人間だって碌な事にならないという結論に至るはずだ。
「何で俺がこんなに悩まされなきゃいけねえんだよ……」
シオンの事が心配だから? ……いや、違う。そうじゃない。そんな訳がない。彼女の正体が知られれば、俺の愛する日常も崩壊する。俺はその事を恐れているんだ。
だからこんなにも不安で、心に重くのし掛かかる粘着質な黒い靄が一行に晴れてくれないのだろう。
何を見るでもなくぼうっと天井を眺めて、ずっとそんな事を考えていたのは、『星喰い』シオンという非現実的な存在を現実であると認め、向き合う覚悟が俺の中でようやく固まったからなのかもしれない。
昨晩のシオンとの出会いには現実味がまるでなくて、今朝は全力で彼女から逃避した。
翔からのメッセを見た瞬間は心臓が跳ね上がって生きた心地がまるでせず、こうして一人になってようやく地に足のついた感覚が戻って来た。
だからもう、誤魔化しは効かない。
俺は、俺の日常を取り戻す為に彼女と七日間を共にしなければならないのだと、この時本当の意味で理解したのだ。
そしたら、もしかしたら、幾度となく脳裏を掠めるモノクロの世界も、きっと……。
「――やっぱり、後で……あいつに、言い過ぎたって、謝んねえと……だよな……」
そんな事をつらつらと思いながら、寄せては返す波のように襲い来る眠気と疲労に揺られる俺の意識は少しずつ闇底へと沈んでいった。
☆ ☆ ☆ ☆
――あの日も、俺達の頭上の空は馬鹿みたいな晴天だった。
『ほら、はやく行こうぜ、翔』
『分かったから急かすなって。そんな急がなくても星は逃げないだろー?』
星、星。星――頭上、どこを見渡しても白い浜辺の砂粒を黒のカーテン一杯にパッとまぶしたような雲一つない星空。世界は今日も星の大海に呑み込まれてしまっていて、神秘的な大海原を天井に描き出している。
島の人々が眠りにつく夜の十一時を過ぎた頃。町の静けさと相反するように、未だ眠らずこれからが本番だとばかりに様々な音色を奏でる虫たちの合唱響く森の中、木々を掻き分け土を踏みしめる音に混じって興奮の滲む子供の声がする。
『馬鹿だな、翔。星は逃げなくても夜は逃げちまうんだって! それに、親に見つかる前に行って帰るなら早い方がいいって言ったのは翔だろ?』
『まあそれはそうなんだけどさ。あんまり急いで転びでもしてみろ、服の汚れで一発でバレるぞ……』
知っている風景に、知っている声。
当たり前だ。これは俺の記憶で、つまりはもう戻れない過去の出来事。幼き日の俺が辿った軌跡の追体験に過ぎないのだから。
『大丈夫、大丈夫。「裏山」は俺達にとって庭みたいなモンだろ。だから楽勝だって!』
『あのな……光一はそうでも機材持ってる俺は違うんだよ。なんなら荷物持ち代わるか?』
『よっしゃあ! 目指すは山頂、海の見える崖のトコまで競争な!』
『……人の話、全然聞いてないし。はぁ、望遠鏡おもてぇ~』
あの日の事を覚えている。
小型の天体望遠鏡を親に買って貰ったと言う翔と二人、親に内緒で夜中にこっそり家を抜け出し、裏山へと星を見に行く約束を。
昼間から約束の事がずっと楽しみで、生まれて初めて日中を退屈する程に長く感じた事を。
右手に懐中電灯を握り締め、背負ったリュックサックの中に水筒にシャベルやロープ、拾った小枝にお手製の秘密地図なんかを詰め込んで、冒険気分で夜中に家を抜け出した時の高揚を。
その日は朝から小夜が家族と出掛けてしまっていて、「裏山」への秘密の冒険について伝える事が出来なかった事を。
結果的にではあったけれど小夜に内緒で翔と二人で「裏山」に来てしまった事に対して、胸の奥にどこかスッキリしないモヤモヤした気持ちを抱えていた矛盾を。
そして――
『――小夜……?』
獣道を進む道中、ここにはいないハズの少女の姿を鬱蒼と生い茂る木々の隙間に見たような気がして、思わず名前を呟いた事を。
――俺は、確かに覚えている。
☆ ☆ ☆ ☆
空腹感に目が覚めた。
「寝ちまった、のか……」
ぎちぎちに固まった身体をほぐすように上体を起こして伸びをする。冷房が効いているにも関わらず、シャツは寝汗でぐっしょりと濡れていた。微妙に頭も痛い。
窓の外から差し込む陽光が優しい橙味を帯びているような気がして、寝起き特有の頭の重さに顔を顰めながら探るように壁掛け時計に視線をやる。
時計の針は円を割るように斜め一直線に盤面を横断し、それが示す時刻が夜の七時過ぎである事に気付いた瞬間、俺は眠気の吹き飛ぶ感覚と共に勢いよく周囲を見渡していた。
「……おい、いるか?」
呼びかけに返事はない。
シオンを追いやってから既に三時間半近くが経過しているというのに、今も彼女の気配はここにはなかった。
その事実に、自分でもよく分からない灼熱の火炎に炙られるような焦燥感が腹の奥底から黒煙のように立ち昇って俺の中を一瞬で満たしていた。
ソファを降りて、廊下に飛び出す。
扉の前での急制動に、裸足の足裏が熱を感じると共にキュッと音を鳴らす。ノックもせずに自室の扉を開け放って――誰もいない無人の部屋、開け放たれた窓から吹き込む夕暮れ時の優しい熱気にカーテンが揺れ、撫でられた俺の額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「……くそっ!」
そんな悪態が口をついた。
俺は玄関で靴に履き替えると、鍵もかけずに家を飛び出してた。
――行かなくちゃ。
どうしてそう思ったのかは分からない。けれど、そこに彼女がいるという確信があって、一刻も早くそこに辿り着かねばならないという焦燥があった。
だから、俺の身体は俺が考えるよりも前に家の裏手にある『裏山』に――彼女と出会った海に迫り出す天然の展望台へと一直線に向かっていた。
もうすぐ陽が沈む。
夜が――押し寄せる星の大海が、この世界を呑み込もうとしていた。
☆ ☆ ☆ ☆
俺とシオンが出会った展望台は、参道を外れ草木の生い茂る獣道を掻き分け進まなければ辿り着けない場所にある。
ここを隠れ絶景スポットと言ったのはそういう訳だ。地元の人間だって、灯りがなければ迷ってしまうだろう。
そして、そんな場所にシオンがいる保証はない。
それでも走った。
心臓がうるさいくらいに脈打っているのは、全力疾走のせいだけではない。
「間に合え……」
一体何時に間に合おうとしているのか、その言葉は、いつの自分が叫んだものなのか。
逸る想いが向かう先も、この足が進む先にある場所が過去なのか未来なのか、現実なのか幻なのか、日没直前の歪む世界の境界線を前にして、今はそれすら曖昧で不明瞭だった。
脳裏に掠めるのはモノクロの世界。
そこで笑っている彼女の姿とシオンを重ねる愚行を、俺はどうしてもやめる事が出来ない。
意味がないと知りつつ、どうしようもなく願ってしまう。
「間に、合えよ――っ!」
意味なんてない。
あの日に戻れる訳がない。
この願いは届かない。
時の流れは不可逆で、だからこそ流れていった過去にはどれだけ手を伸ばしてもたどり着けない。そんな事はもう分かっている。痛
い程に思い知らされた。諦めたんだ。もう全部、何もかも諦めて俺は此処にいる。
なのに――どうしてお前は、あんな星空の下で俺の前に現れたんだよッ!
叫ぶように息を吐いて、最後の一歩を踏み出した。
「――っ」
刹那、濃淡な緑に覆われた視界が開け、俺は息を呑んだ。
山道を駆け登り獣道を踏破して展望台へと辿り着いた俺を出迎えたのは、まさに太陽が地平線の彼方へと沈むその瞬間だったのだ。
世界を包むは幻想的な茜と藍。
混じり合う色彩の奇跡に、胸がツンとする。
奇跡のような現実の一瞬、世界が交わり変貌するその境界線に佇む人影が、逆光の中から押し寄せる夜と共に俺の目の前に浮かび上がった。
それは、黒髪黒眼の美しい『星喰い』の少女だった。
「……」
この瞬間を切り取って額縁に飾ったら、どれだけ高名な芸術家でさえ敗北に筆を追ってしまうのではないだろうか。
それほどまでに美しく少女を彩る夜景と、この美しい星空を己の背景にしてしまえる少女の神秘的な輝きに、俺は完全に頭を射抜かれ、シオンに掛けようとしていた言葉など一瞬で吹き飛んでいた。
代わりに口をついて出たのは、
「お前は……どうして――」
「星を、見ようと思った」
俺の問いかけが明確な形と意味を取る前に、底なしの天井を見上げたままシオンはそんな言葉をポツリと返した。
夜闇によく馴染む黒髪が風と踊るように靡いていて、ともすればシオンの姿に意識を奪われそうになる。
彼女は今にも夜空に吸い込まれてしまいそうだったから。
「此処に来れば、見つかる気がした。……見つけて、貰える気がした」
「……見つかるって、何が」
「願い」
ようやくこちらを振り向いたシオンの瞳は、濡れた宝石めいた綺麗な烏羽色をしていた。
「……願いって、お前の願いは、星を食べる事なんじゃないのかよ」
「それは人々の願いであってわたしの願いではない。わたしを産み落とした願いは、わたしが産み落とした願いではない」
俺の問いかけにふるふると首を横に振って、シオンはそう答えた。
「前にも言った。星を食べたいというこの欲求は、わたしの『星喰い』としての機能。あくまで習性に過ぎない。そこに、わたしの意志や意思は介在しない」
……だったら。〝地球を喰らう〟という彼女の掲げる目的が、あくまで『星喰い』としての本能でしかないというのなら。
その生まれた時点で設定された目的の為に俺を惚れさせようとする彼女の行いには、一体どんな意味があるのだろうか。
そこに彼女の意志や意思が立ち入る余地が一切ないのだとしたら、彼女は一体どんな想いで俺の隣にいようとしているのだろうか――
「――コーイチ?」
ふいに名前を呼ばれ、内側へと潜行しかけていた意識が現実へと帰還した。
ハッと目を開けると、折った腰のところで手を組んで、上目遣いにこちらを覗き込むシオンと視線が交錯した。
いつの間に近づいていたのか、俺とシオンとの距離は一メートルを切っている。手を伸ばすまでもなく天の川のような黒髪に手が届く。
けれど、この手で触れる事に恐れを抱いてしまう、そんな距離。
「発汗、心拍数の上昇。呼吸の乱れが見られる。コーイチ、走って此処まで来たか? ……わからない。コーイチは何故ここにいるか?」
「俺は……」
何故ここにいるのか。
どうしてここに来たのか。
それは、俺自身にも明確に言語化できない事で、だから答える言葉に窮してしまう。
「――怒り、不安、焦燥、恐怖の値が此処に来てから低下を開始。同時に、安堵の値も上昇。以上の数値からコーイチの行動理由を推測はできる。けれど……やはり分からない」
「……分からない? お前は、人の感情が読み取れるんじゃないのかよ」
「他者の感情を読み取る事はできる。けれど、どうしてその感情を抱いているのか、わたしには分からない。わたしには、感情が分からない。そんな機能がわたしにあるのかも……だから、わたしには、コーイチがどうしてここにいるのかも、何も分からない」
分からない。
そう繰り返すシオンは相変わらずの無表情だったけれど、俺にはその姿が迷子になって途方に暮れる子供のように思えた。
「何故? コーイチ、ついにわたしに惚れたか?」
彼女の問いかけは最初から一貫して変わらない。
何故、そのたった一言に集約されている。
……どうしてこんなに必死だったのか、なぜこの場所にシオンがいると思ったのか、結局の所、そんなの俺にだって分からない。
けれど、あの時はそうしなければいけない気がしたのだ。
今、シオンを見つける事が出来なければ、そのまま彼女が消えてしまう気がして――それは本来、俺にとって喜ぶべき展開であるはずなのに、理解不能の感情が胸の奥で渦巻いて、俺の背中をせっつくから。
焦りで、恐怖で、不安で、心がどうにかなってしまいそうで。
だから、俺は。
「……少なくとも、惚れてはねえな」
「むぅ。そうか、残念」
誤魔化すような俺の答えに、シオンは俺から視線を外して夜空を見上げると、ちっとも残念じゃなさそうにそう言った。
それから少しの間を開けて、突如――あるいは話を戻すようにこちらを振り向いて、
「――なあ、コーイチ。願いとはいいモノか? それは、どんな形なんだ? どんな音を立てて、どんな匂いがして、どんな味がするか?」
真面目腐った顔で首を傾げ、そんな事を尋ねてくるシオンに、俺は悲しいと思った。
彼女の存在を哀れんだ訳ではない。
ただ、彼女が淡々と語った事実に、胸が苦しくなった。だからそれを、俺は自分が悲しいと感じたのだと思ったのだ。
「……別に、そんな羨むようなモンでもねえよ」
だから別に、これはシオンを慰めようだとかそんな事を思った訳ではない。ただ――、
「首輪みたいなモンだ。重たくて、苦しいだけ……」
俺にとっての『願い』とか『夢』とかいうヤツは、そう定義する他なかったというだけの話。
それでも。
「でも……見つかるといいな」
素直に心からそう言った。
持っているからこそ苦しむ事もあれば、持ってないからこそ苦しむ事もある。そう思ったから。
だけど、そんな微妙な感情の機微をシオンが読み取れるはずもなく、
「?」
案の定。直前の言動と大いに矛盾した俺の発言に、彼女はこてりと首を傾げる。
少女の瞳が、今の言葉の解説を要求していた。
だから言った本人に発言の意味を説明させんなって、何の羞恥プレイなんだ。
「だから……お前の願いってヤツだよ」
「何故。重たくて、苦しいのではないか?」
せっかく答えてやったのに、シオンはますます意味が分からないと傾げる首の角度がさらに大きくなる。
身体まで傾けてほぼほぼ直角。そこまで謎だったか、俺の言葉。
「それとも、コーイチは首輪趣味か? 苦しむわたしを見て悦ぶ、サディスト。もちろん、わたしはそういうプレイも対応可能、あぶのーまる」
「だからどうしてお前はすぐ話をそっちに……ああ、もういい。なんか馬鹿らしくなってきた」
相変わらずなシオンに俺は頭を掻きながら大きく溜息をつく。
こいつは俺を惚れさせる事はともかく、呆れさせることにかけては一級品だ。そんな事を思いながら、
「……ほら、」
「?」
「いや、お手じゃねえよ」
差し出した掌に、シオンは真顔のまま重ねるように手を乗っけてきた。犬か。
「そうじゃなくてだな……ああ、もうっ。いいから帰るぞ」
説明するのも面倒くさい。というか、そっちの方が照れくさいので、俺はそっぽを向いて彼女の手を取った。
「あ」
声が漏れたのを無視してきゅっと、あまり力を掛けないようその手を握りしめる。
シオンの手は思っていたよりもずっと小さくて、夏場に大理石の壁に頬で触れた時のように心地いい冷たさだった。
そのまま歩き出すと、シオンは繋がれた己の手に視線を落としたまま、しばしの間俺に手を引かれるままに黙って後を付いてきた。
やがて、気の遠くなるような数分間が経過した頃。獣道を降りている途中で、俺の背中に声が投げかけられる。
「……コーイチ、一人になりたいのはもういいのか?」
「いいんだよそんなのは、別に」
「けれど、コーイチはわたしと――」
「あー、その事なんだが……」
俺はシオンが言わんとした事を察し、最後まで言われる前にそう言って割り込みを掛けると、
「さっきは、何ていうか、その……言い過ぎた。ごめん。……俺が悪かった」
気まずかったり恥ずかしかったりでシオンの顔こそ直視出来なかったが、何とか謝る事に成功した。
……いや、顔も見れなかった時点で失敗とかちゃんと謝れてないとかそういう身も蓋もない事は今は言わないでくれ。人間は少しずつ成長する生き物なのだ。段階踏んでいこう。
「……? どうしてコーイチが謝る」
と、俺が人としてちょっと成長していると、シオンは俺に謝られた意味が分からず疑問符を浮かべていた。
「わたしはコーイチの厚意に甘えてあの家にいる身。なので、コーイチの主張は家主として、当然の権利。郷に入っては郷に従え、という言葉もある。わたしには、コーイチの謝罪を受け取るべき理由がない」
シオンは、人の感情を読み取るなんてとんでもない力を持っていながら、人の感情を理解することができない。
けれど、それは決して彼女に『感情』が存在しないからという訳ではないのだろう。
だって、シオンを見つけた時。沈む夕陽の逆光に覆われた彼女の表情がほんのちょっぴり嬉しそうに輝いたように俺には見えたのだから。
俺は、手を繋いで前を歩いたまま、苦笑まじりにシオンの方を振り向いて、
「別に、お前に理由がなくても俺には謝んなきゃいけない理由があったんだよ。それとも、家主には誰かに謝る権利もないってのか?」
「む。それは……」
「それに、お前がいつまでもこんな場所にいて誰かに見つかりでもしたら被害を被るのは俺だからな。だからお前がさっさと帰ってきてくれなきゃ困るんだよ」
それは、俺の心からの本心ではあったけれど、全てではない。
けど、全てを彼女に言う必要もないのだろう。
何もかもを伝えても、今のシオンでは俺の言いたい事を理解できない。感情を理解出来ない。
だからきっと、もっと沢山考えるべきなのだ。
俺も、彼女も。お互いの事を、もっと沢山。
例え、理解も共感も難しい相手だったとしても、それでも理解しようと努力する事は出来る。
相手の存在を、認める事は出来るのだから。
「……そうか」
「ああ、そうだ」
「そっか……」
それきりだった。家に帰るまで、俺とシオンの間に、会話が生まれることはない。
けれど、そんな二人きりの無言の時間は、ちっとも苦ではない。
繋いだ手と手、あんなに冷たかったシオンの手は、俺の体温と混ざり溶け合って、少しだけ温かくなっていた。
少女の手を引き家へと帰る。
俺は、ただそれだけの事に、どうしようもなく救われた気持ちになっていたのだ。