第三話 逃避したい現実と幼馴染
――普通とは特別以上に価値ある黄金である――とは、フッヘーン=テンプレー(1874~1936)の言葉である。嘘だ。今適当に作った。誰なんだフッヘーン=テンプレーさん。そんな人物はこの世に存在しない。
それにしても、それっぽいカタカナの名前の後にそれっぽく西暦を入れるだけでそれっぽくなるものだ。……うん、今のはほわっとした指示語が多すぎてむしろアホっぽいな。
幼馴染の佐久間翔からのメッセを受けて、バイト先から全速力で家に駆け戻り玄関のドアを開けた俺を待っていたのは、無重力よろしく飲みかけのペットボトルが宙を舞い、食べかけのポテチが空中に散乱し、今朝片付けたはずの朝食の皿が宙に浮かぶ非現実的な最悪の光景だった。
我が家のテーブルに椅子にソファも地に足がついてない。空飛ぶテレビとはどんな近未来か。
巻数をしっかり揃えていた漫画も全滅。
プカプカと空中図書の仲間入りだ。いっつ、りあるふぁんたじー。
「……なあ、俺言ったよな。頼むから普通にしててくれって」
目の前の意味不明な惨状に思わず意味不明な現実逃避をしていた俺だったが、いつまでも目を逸らし続けている訳にもいかない。
頭の痛くなるような現実に何とか帰還し、頭痛の原因との直接対決へと挑むべくそんな第一声をあげる。
「ていうか、絶対に出るなとも言ったよな?」
頭痛を堪えるように額を抑えながらそう言うと、下手人はどういう訳か会社より帰宅した夫を出迎える新妻よろしく裸エプロンエプロン抜き(つまり全裸)でトテトテと玄関先に近寄って来て、むしろ褒めてくれとでも言いたげにありもしない胸を張っていた。
相変わらず無表情で何を考えてるのか分からない。むしろ見たまんま何も考えてなさそう。
「? コーイチ、わたしは言い付け通り外に出ていない。ちゃんと家の中にいたぞ」
「いやまあそれも当然そうなんだけど……」
「留守を守るは妻の務め……惚れたか?」
まるで猫のようにすり寄って来る下手人――シオンの堂々たる言い草に俺は頭を抱える。
「そうじゃないんだよ、俺は人が来ても絶対に玄関に出るなって言ったんだ。応対するなって意味だったんだよ……」
「む。それは見解の相違。決してわたしの早とちりでも勘違いでもない。たぶん、めいびー」
「ていうか何で裸になってんだ、着せた服はどうした服は」
……本当にまさかとは思うが、その格好で佐久間に応対したんじゃないだろうな。
「んー? あ、それならそこに落ちてる。……いつの間に」
「いつの間にじゃねえよ。まるで服の方から脱げたな言い方をするな。いくらお前が寸胴鍋みたいな起伏のない平坦な体型でも服は勝手に身体から脱げ落ちたりはしない」
「……む、まさかふくは重力に逆らう力を持っているのか。暑くて不快で脱ぎにくいだけではないなんて、恐ろしい……」
「お前が言うな。何でもかんでもプカプカさせやがって、重力に逆らってるのも恐ろしいのも断じてお前の方だ。なにしてくれちゃってるんだよマジで……」
まるで台風が過ぎ去った後……否、まさに台風が通り過ぎている最中に一時停止ボタンを押したような異様な光景に結構本気で泣きたくなる。
生憎、普通な人間でしかない俺は、宇宙人の不思議パワーを受けた物体が浮遊してしまった際の鎮め方になど覚えがない。
いや本当どう収拾付ければいいんだ、これ。
「そんな……恐ろしいなんて……」
一方、突き放すような俺の言葉にショックを受けたのか、シオンはどこか愕然とした様子でそう呟いて、俯いたまま何故かポッと頬を染めた。……は? なにゆえ?
「……恐ろしく、かわいいなんて。照れる」
「いや、そんな事は一言も言ってないな?」
何だそれ、どんなポジティブ難聴だ。ラノベ主人公越えちゃったよ。
「じゃあ、恐ろしく……きれい? かしこい? えらい? つよい? すごい? かっこいい?」
「恐ろしいはお前にかかってる修飾語だ。勝手に褒め言葉に変換するな」
またも冷たくあしらわれたシオンはしばしの間何かを考えるように虚空を見つめると、常よりもさらに棒読みになって、
「……、ニホンゴー、ムツカシイー」
「いや今からそれは流石に無が理あるだろ。言語インストールがうんたら言っていきなり日本語ペラペラになっただろうがこのカタコト宇宙人。てかいい加減に服着ろ全裸族」
「むぅ。ふくは暑いから苦手……」
シオンに文句を言いながらも、ひとまず彼女に服を着させた俺は、宙に浮かぶ食器や家具を回収する事にした。
一通りの浮遊物を回収、速やかに元の位置に並び替えシオンに浮遊状態を解除させようやく一息ついた俺は、椅子に腰を下ろしたまま今日何度目かも分からない溜息を吐き出していた。
「ドっと疲れた……」
テーブルに顎を乗せグダっとしたたまま辺りを見回す。
大きめのテーブルに、ベッド代わりにもなるソファ。
俺の部屋のブラウン管と入れ替わりに購入した薄型の液晶テレビに少し大きめの戸棚と、そう家具も多くない部屋だが、やはりあるべき場所にあるべき物がないと無性に落ち着かなくなるものだ。
これで何とか元通り。
俺の愛する平穏さんが形だけでも帰って来た来た訳である。
「――なあ、もう家の中入ってもいいか?」
……昨日から本当に散々だ。
宇宙人の襲来により平穏な日常は破壊され、ついでにリビングも無重力空間へ大変身。
さらには二日目で腐れ縁の幼馴染にシオンの事がバレた。
そのうえ幻聴まで聞こえてくる。
「おーい。聞こえてるかー? 片付けもシオンちゃんの着替えも終わったんだろー? じゃ、遠慮なく入ってるからなー」
「最悪だ……昨日も最悪の一日だったけど、今日も最悪の日だ……」
「いつまで人を無視する気だよ。こういうのはある程度でやめるから面白いんであってだな」
……俺としてはお前が根負けしてここから帰って、全てなかった事として忘れてくれるまでを希望したい。
あと、入って良いなんて言った覚えはない何勝手に人ん家あがってんのじゃ。
「つか、さっきから人との約束すっぽかして出掛けてたヤツの態度に見えないんだけど? 俺もお前も、むしろシオンちゃんに感謝すべきだと思うぞ。なあ、シオンちゃんも留守番頑張ったんだから、ご褒美くらい欲しいよな?」
不法侵入をした挙句、視界の端で冷蔵庫を勝手に漁っている人影が、何やら適当な事を言っている。するとその戯言に食いつくアホがもう一人。
「ご褒美? む。……妻が夫にねだるモノは、接吻? であると聞いた。これも、ご褒美?」
「頼む。もう手遅れかも知れんがそれ以上喋らないでくれ、そろそろ社会的に俺が死ぬ」
「なら、コーイチがご褒美を欲しいか?」
「……なあ、人の話を聞いてたか?」
「コーイチは何が欲しい。わたしの全てはコーイチのものだ。なんでも言っていい」
「……分かった。じゃあご褒美にお前が喋らない時間を要求する今すぐ黙れそして二度と口を開くな頼むから」
「む。了解した。では……」
俺の投げやりな言葉にやけに物分りよく頷いたかと思うと、シオンは俺の頭をがしっと両手で鷲掴みにした。……は? どういう事?
意味が分からず困惑に固まっていると、シオンは凄まじい力で俺の顔を自分の顔の方へと引き寄せはじめる。
シオンはそのまま顎を軽くあげた状態で瞳を閉じて、俺が何か疑問の声を上げる前に一気に両者の距離をゼロまで縮めようとさらに力を込めて――
「――っておい近い近い近い! 何やってんだお前……っ!?」
「? コーイチはわたしが喋らない時間が欲しいと言った。なら、口を塞げば解決。すなわち接吻。口づけをすれば、その間わたしは喋れない。コーイチはご褒美を貰えて、わたしに惚れる。ゔぃくとりー」
「わ、わかった! 取り消す。今の願いは取り消すから馬鹿力で人の唇奪おうとすんな!」
そんな風に完全にシオンに翻弄されている俺の姿に、我が物顔でリビングに居座っている男は勝手に注いだグラスの麦茶を一気に飲み干すと快活に笑った。
「あはは。面白い子だよな、この子。……でも割とマジでさ、約束すっぽかされた上にこの炎天下の中何時間も待たされてたら流石の俺も堪忍袋の緒が何とやら――ってトコだったんだぞ。シオンちゃんが居て良かったな、光一。大親友を失わずに済んで」
「本当に最悪だ、よりにもよってこうなるかよ……」
「おいおい、まだ無視続けるのかー? てか、そんなに嫌だったのかよ俺にバレるの。傷つくなー、お互いに隠し事はなしって話はどこにいっちまったんだ?」
俺の対面に座ったままおどけたような軽いトーンで嘆いてみせる優男。その明らかに演技がかった仕草も、整った顔立ちのこいつがやると腹が立つほどにサマになる。
大学生になって茶色に染めた髪を掻き上げながら、今度は少しだけ声のトーンを落として、場に少し真剣な空気を作り上げた俺の幼馴染――佐久間翔は、俺の目を真っ直ぐに見つめながらこう言った。
「それで、これってどういう状況な訳? この子、妻がどうとか惚れる惚れないとか言ってるけど……まさか本当に手を出しちゃった、とかって話じゃないよな?」
からん。テーブルに置かれた空のグラスの中、溶けはじめた氷が涼しげな音を立てていた。