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『ねえ。こーくんはさ、過去と未来どっちかに行けるって言われたらどっちに行きたい?』


 これは、昔の話。つまり、過ぎ去った過去の事だ。

 相手を意識する予兆のようなモノを感じながらも、まだ恥ずかしげもなく二人で向かい合ってお風呂に入っていたような頃の出来事。

 あたたかい湯船に浸かり、瑞々しい肌を桜色に染めた彼女にそんな事を聞かれた事があった。


『なんだよ、急に。過去と未来?』

『そう。こーくんだったらどっちに行く?』

『たまに変なこと言うよな、小夜は。でも、そうだな……俺だったら――』


 人は、過去には進めない。

 時計の針が逆回しされるような事はなく、時間は元には戻らない。

 時の流れは不可逆で抗い難い。

 滝の流れに逆らう鯉のような強靭さが人にもあればよかったけれど、生憎と流れ落ちる時の礫を前に人は無力で矮小だ。


 その代わりに、人間の目も耳も鼻も口も全部前を向いていて、大地を踏みしめる脚の構造は前に進みやすいように造られている。

 この種族はきっと、生まれる事が決まったその瞬間から未来へと前進することを義務付けられていて、過去に進む為の手段を与えられなかったのだろう。


『――俺は、どっちにも行かない事に決めた!』

『なんで? どうして? 過去を変えたいとは思わないの? 未来を確かめたいとは思わないの?』

『うーん。だって、知ってる道をもっかい歩いてもつまんないだろ? それに、どうせ進むなら色々なピンチも自分の足で乗り越えたいじゃんか。だから、過去にも未来にも俺は行かないね。未来の景色は自分で見るんだ』


 得意げに胸を張ってそんな調子のいい事を言う俺に、彼女は水面に顔の半分を沈めて、少しだけ落ち込んだように泡を立てていた。

 烏羽色の黒瞳が、艶やかな潤いを孕んで瓜二つな水面の黒い宝石を見つめている。


『そっか、こーくんは凄いなぁ。私、過去に戻れるなら戻りたいって思っちゃった……』


 前に進む事を、未来へと邁進する事を神様から定められた人間たちは、その足でもって明日を、未来を、確かに切り開いてきた。

 だが、誰しもが前に進める訳ではない。

 歩みを止めずに進み続けられる程、誰もが強い訳ではないのだ。


 幼かった俺は、そんな弱さも、強さも知らなかった。

 どこまでも馬鹿で無神経な、夢見がちな子供の綺麗ごとが誰かを傷つけるだなんてこれっぽっちも思っちゃいなかったのだ。


『小夜……お前、やっぱり寂しいのか?』

『え?』

『だって、それって。過去に戻りたいのって……ごめん、俺。馬鹿だ。小夜に、悪いこと言っちまった』

『……ううん、平気。だって、新しいお父さんが来てからお母さん、とっても幸せそう。それに、私にだって凄く優しいし、色んな物買ってくれるし……だから……全然、そんな事ないの』

『本当に平気か? もし平気じゃなかったら、何でも俺に言えよ。俺が何とかしてやるからな』

『うん、大丈夫。心配してくれてありがとう、こーくん』


 進む事に疲れて足を止めてしまった人。

 時計が壊れてしまった人。

 時間を失ってしまった人。


 きっと色んな人が、その人なりの理由があって、時の流れから取り残される。

 未来に進めず、かといって過去には戻れないから、どこへも行けずに時間の裂け目に一人取り残されてしまう。


 彼らの多くは、きっと自分の弱さを責めるだろう。

 前に進む事が正しい事であるとその遺伝子に刷り込まれている以上、立ち止まっている現状を変えたいと誰だって心の何処かで願っているはずだ。


 だけど、一度足を止めてしまっただけで、流れ続ける時は無情に彼らを置いていく。


 解決すべき問題。

 立ち向かうべき試練。

 乗り越えるべき壁は遠ざかり、いつのまにか手が届かなくなっている。


『あーあ、これならうちの父さんと小夜のおばさんがケッコンすれば良かったのになー。ウチも母さんいないんだし、ぴったりだったのに』

『ダメ! それはダメ!』

『? 何でだよ、毎日一緒にいられるんだぞ? 最高じゃんか』

『だって……確かにそれは素敵だけど、私たち、兄妹になっちゃうんだよ?』

『なんだよ、いいじゃんか兄妹。小夜となら俺は大歓迎だぜ? あ、兄ちゃんなのは勿論俺な!』

『わ、私だって兄妹になるのは嫌じゃないけど……でもダメなものはダメっ……こーくん、はしたないわよ!』

『はした……?』

『こーくんがえっちって意味!』

『はぁ? 意味わかんねぇー』


 少女の言ってる事がちっとも分からなかった俺は、腹いせに手で水鉄砲をつくって、彼女の顔目掛けて発射する。

 響く悲鳴は少しだけ嬉しそうで、それが合図となって水かけ合戦が勃発した。

 浴室に反響する子供二人の楽しそうな笑い声、激しく揺れる水面に、ばしゃばしゃと弾ける水の音。その中で、少女は無邪気に。どこか妖艶に。

 まるで彼女だけが一歩前の未来を歩いているかのように、少しだけ大人びた表情で、蠱惑に笑っていた。


「……いつか分かるわよ、私と一緒に未来へ歩いてくれたら。いつかきっとね」


 人は過去には戻れない。

 だから、流れていった過去には二度と手が届かない。それは至極当然の事で。


 けれど人は、その目で過去を見つめる事は出来るから。


 見上げる夜空。

 そこで輝きを放つ星々の光が、遠い過去からの贈り物であるように。


 過去の自分を見つめて、振り返って、乗り越えるべき何かと対峙して、もう一度前に進む為に、置き去りにしてしまった過去と一つの決着を付けることは可能なのだ。

 

 だから、きっと。

 これは、ある意味では宿命だったのだろう。

 彼女は、モノクロの世界からの来訪者――ではなかったけれど。


 それでも確かに、いつしか青年になってしまった少年が、ずっと直視出来なかった過去そのものではあったのだから。


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